データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
2 人々のくらし
(1) ウナギをとった思い出
「昔は、小学生の私(Aさん)たちでもたくさんウナギがとれていたことを憶えています。小学生の頃はジゴクを2、3本持って川まで行って、川底に仕掛けていました。夕方にジゴクを仕掛けて、翌朝早くに様子を見に行くと、ウナギがたくさん入っているときは竹筒を振ってみると音がするので喜びながら持って帰っていました。当時は小刀を川まで持っていって、小刀でさばいて、河原で焼いたりしたこともありました。
大門橋の前後でとれるウナギを大門ウナギと呼んでいて、頭が小さく脂の乗りが良くおいしかったことを覚えています。大門橋のすぐ下流に堰(せき)があり、ウナギがその堰を飛び越えて遡上します(写真2-2-6参照)。その堰の上流では川底に石ころが多く、その石ころをくぐってきたウナギは最も脂が乗っていておいしいと私たちは言っていました。松野町よりも下流の方へ行くと、ガネクイと呼ばれる頭の大きなウナギがとれていました。」
「ほかの地域でとれるウナギと松野町でとれるウナギは、全く異なります。地元の人はこの辺りでとれるウナギを小石くぐりと言っていたのですが、砂地に近い川底にある小さい石の間をくぐりながら遡上してくるので、脂が乗って腹が黄色いウナギになるのだと言われています。その脂の乗りの違いが味の違いにつながっているのです。私(Cさん)が子どもの頃はジゴクの竹筒が割れるくらいたくさんのウナギがとれていたことを憶えています。」
「学校を卒業して松山で仕事をしていた頃はできませんでしたが、小学生の頃からウナギ漁をずっとしていましたし、私(Bさん)にとって大きな楽しみでした。私が小学生だった頃は、周りに遊びに行くようなところもありませんでしたし、唇が紫色になるくらい朝から晩まで広見川で遊んでいたことを憶えています(写真2-2-7参照)。午前中に川に行って、昼御飯を食べに家に帰ってきて、食べたらまた川に行ってという具合でした。
小学生の頃まで今みたいにテレビもなく、遊ぶといったら川しかありませんでした。私だけではなく、同級生も先輩もずっと川で漁をしていました。大人も仕事で漁をしているというよりは、趣味でウナギをとっている人が多かったのではないかと思います。仕事が済んでから、夕方に仕掛けを抱えて川まで行って、仕掛けているような具合でした。
その頃は、松野町にも子どもがたくさんいて、私が住んでいる組の中だけでも同級生が7、8人はいました。しかし、今では小学生は5人しかおらず、松野東小学校は全校生徒が30人くらいしかいないそうです。中学校は松野中学校に統合してしまいましたし、やはり子どもがいなくなってしまうことは様々な問題につながっていると思います。」
(2) 松野のウナギ漁を残す
ア ウナギを育てる
「松野町の広見川や宇和島市の三間川の辺りでは現在でもウナギはとれますが、年々、とれる量が少なくなってきています。とにかく稚魚を下流でとってしまうことが、ウナギが上流まで遡上してこない一因です。下流で稚魚をとっていることだけが原因ではないと私(Aさん)は思いますが、稚魚を育てて広見川に放流しても松野町まで戻っていないのが現状です。松野のウナギを地場産業として維持したくても、資源がないので仕方がないのです。
一時期、松野町内にも広見川の水を使ってウナギの養殖をする養殖業者がいましたが、事業としてはうまくいかなかったようです。」
「新聞で読んだのですが、養殖で育てたウナギも放流したら、マリアナ海溝の方まで泳いでいって、また日本の河川まで帰って、遡上するそうです。地形や太陽の位置関係なども影響しているのではないかと考えられているようなのですが、ウナギの生態は、まだ解明されていない部分が多いそうです。それでも今回のニュースには、ウナギの生態が少しずつ分かってきたので、養殖したウナギでも大量に放流したら、ウナギを絶滅させることなく守っていけるのではないか、と書かれていました。こういった研究が進めば、松野町のウナギをこれからも残していくことができるきっかけになるのではないかと私(Cさん)はうれしく思いました。
しかし、まとまった量のウナギが松野町まで広見川を遡上しないと、どうにもならないのが現実の問題です。まだシラスウナギのうちに四万十川の河口付近や下流でとってしまうことが、結局、一番の問題だと思います。」
「今が松野町の川漁がなくなってしまうかどうかの分岐点かもしれません。これは私見ですが、ウナギの稚魚は、一時期よりは少し増えているような気もします。小さいウナギが上流に遡上している量が少しずつですが、増えていると思います。私(Bさん)は今まで何十年も川を見てきていますから、今年、大体どれくらいのウナギがジゴクでとれるのか、なんとなく分かります。ウナギの個体数が一番減っていた頃よりは若干増えてきている感じがします。一時期は昼間にウナギが遡上するのを見ることがなかったのですが、今は小さいウナギが遡上するのを見掛けることがあります。
毎年、ウナギの稚魚も放流していますが、ほどほどに食べられる大きさのウナギも放流しています。これに数十万、数百万円も掛けても、コストに見合った成果は得られていないと思います。それだったら小さい稚魚をもっとたくさん放流して、川の環境全体を作っていくことの方が大切だと思います。」
イ これからのウナギ漁
「現在、松野町のウナギ漁を残していくための活動というものがなく、私(Bさん)は本当に寂しく感じています。昔の人たちが作ってくれていた松野町といえばウナギというイメージは県内外で有名でしたが、そのイメージも今では失われつつあります。
今でも松野町内で趣味でウナギをとっている人はいますが、毎年、ウナギ漁をしているという人は本当に少なくなってきました。昔はどこの集落でもほとんどみんながウナギ漁をしていましたが、今は松野町内でも私を含めて10人もいないのではないでしょうか。ウナギを調理する店も松野町からなくなってしまいましたから、店に卸すという人がいなくなるのも仕方ないと思います。
また、松野町のウナギ漁を残していく活動だけでなく、時々、趣味でウナギをとるという人自体が減っているのが現状です。松丸の辺りはよく知りませんが、現在でも蕨生や吉野の辺りで10人弱はウナギをとっている人がいます。まだゼロではないにしても、ウナギをとる文化を残していくために十分な人数であるとは言えません。
周りからあの人が続けていってくれたらという人がいたとしても、本人がどう考えているかは分かりませんし、その人に背負わせるのも難しいと思います。そもそもウナギをとっている若い人が全くおらず、現在、30歳代以下で川に入ろうとする人がいません。私たちも農業をしていたり、年を取ってからようやく時間ができて動けるようになったりで、『しんどい、しんどい。』と言いながら川漁を続けています。
松野町のウナギ漁は、もともと地域の水産業としてまとまっていたり組織化されていたりするものではありませんでした。私を含め多くの人が幼い頃から個人の楽しみでしていた川漁という性格が強いものですから、松野町の人口がこれだけ減っている今、文化や産業として維持していくということは相当に難しいと思います。」
参考文献
・ 松野町『松野町誌』1974
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 松野町『松野町誌 改訂版』2005