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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 酒造業

 (1) 久米の酒造業の変遷

  ア 後藤酒造の始まり

 「久米の後藤酒造の起源は慶長7年(1602年)までさかのぼると、私(Cさん)は聞いています。戦国時代にはすでに酒造りが始まっていたそうですが、その頃は久米ではなく市内の本町の辺りにあったようです。豊前屋という屋号で3人の兄弟が酒造りを始めたのですが、私たち後藤酒造につながる久米豊前屋の祖先はその末っ子でした。
記録が残っているものの中で最も古い記述は後藤又兵衛(1560~1615年)から始まり、現在の福岡県と大分県にまたがる豊前国の中津から来たことから、屋号の豊前屋につながっています。中津の後藤又兵衛は関ヶ原の戦いで豊臣方についていたのですが、その後、古いなじみの加藤嘉明(1563~1631年)を頼って一族100名近くを松前(まさき)町に連れてきたそうです。中川原から徳丸の辺りにかけて荒地だったところに水田を開拓したのですが、徳川方から武家として認められることなく、商人の家となりました。
 加藤嘉明が松山に移る際に、後藤市郎右衛門という人が松山に土地を与えられ、市郎右衛門の子ども3人で酒造業を分けて移ったと言われています。現在の松山市松前町に本豊前、古町に北豊前、久米に久米豊前として分かれました。平成15年(2003年)に松山市が史跡庭園として復元した庚申庵が味酒町にありますが、それを建てた栗田樗堂(1749~1814年)は北豊前の出身です。味酒町という地名は古町の酒造業にも由来しているそうなのですが、現在の地名と酒屋の蔵が並んでいた場所は、地図上では少しずれているようです。加藤嘉明が松山の城下町を整備する際に、古町や松前町に商人をたくさん連れてきたそうなのですが、もともと三津にいた商人と後藤家で随分けんかになったという記録も残っているそうです。
 加藤嘉明が松山城を築城する際、城作りは重労働ですから、いろいろな所から集めてきた労働者には酒をたらふく飲ませて、しっかりと睡眠を取らせて休養させたそうですが、全国の古い酒造業を調べたら、古い酒屋ほどその地域の築城や城下町を築く頃に創業した蔵が多いそうです。私のところも実際に久米で酒造りを始めたのはかなり古くからだったそうですが、正確な時期は分かっていません。」

  イ 酒造りに向く酒米

「昭和23年(1948年)、私(Cさん)は伊予鉄道横河原線の踏切の南側の家で生まれました。線路の北側には後藤酒造のほかにムロヤという酒蔵があったそうで、明治の頃には日尾八幡神社の神主だった三輪田米山(1821~1908年)が、毎日どちらかに来ては酒を飲んでいたそうです。
 私のところの酒は酒自体に甘みもあまりないし味が薄いので、ほかの日本酒とは少し違います。昔から、米だけでほかのものを添加していませんでした。昔、酒米は地域の米を使っていた時期もあったそうですが、近年は兵庫県の山田錦を多く使用していました。私のところは大吟醸の製造が多かったので、山田錦が酒米に最も適していたのです。それで、山田錦の産地から招待があって行ってみると、愛媛県では久米の井(後藤酒造)と梅錦(梅錦山川)が招待されていました。大量に買い付けるので招待されるのですが、全国から得意先が招待されて有名な酒蔵が集まる席には、兵庫県知事や神戸市長が来ていましたし、神戸牛などもたくさん出していただいたことを憶えています。山田錦は、米粒がほかの米と比べ物にならないくらい大きく、雑味がありません。米としてはぱさぱさで旨味がないため食べてもおいしくないのですが、酒にするとすっきりしたきれいな酒になるので酒米に向いています。山田錦以外にも、酒米として良いものは食用には向かないものばかりでした。
 最近では、日本の酒造メーカーがアメリカで日本酒を造っていますが、現地のカリフォルニア産の米の中には酒米に向いているものがあるそうです。向こうは様々な原種を持っていますので、カリフォルニアではどんな風にでも米を作れると聞いています。日本で酒米を作っている農家の人が、視察に行って現地の酒米を見せてもらうと、日本の山田錦などにも負けないくらい良い酒米が作られていたそうです。しかも、値段は日本の6分の1とか8分の1くらいのコストで生産できますから、良い酒米が手に入るという面では日本酒の醸造に適しているそうです。」

  ウ 戦後の酒造業

 「私(Cさん)が小学生の頃、後藤酒造の『久米の井』がこの辺りでは製造と販売において一番だったそうです。私の祖父や叔父たちが割と大きく経営しており、川内(かわうち)町(現東温市)の酒蔵や大洲(おおず)市八多喜の酒蔵などでも『久米の井』を造っていました。それというのも、久米の後藤酒造だけでは酒の製造が追いつかないので、酒蔵を買収して、工場の製造ラインを四国で最初に導入したからだそうです。土佐鶴や司牡丹なども、後藤酒造の瓶詰め工場を見にきていたことを憶えています。
 また、昭和30年代、40年代の頃、久米の後藤酒造だけでは造った酒を販売し切れないので、大関や菊正宗などに桶(おけ)売りしていました。桶売りというのは、自社の銘柄ではなく他社の銘柄で商品を販売することです。大関や月桂冠などの大手メーカーは、自社の酒蔵だけでは製造し切れないため全国の酒蔵から酒を買い集めて、調合して出荷していました。中には、自社製造は10%未満で、90数%を桶買いして、販売しているメーカーもありました。そのような関係もあり、毎年、私は各メーカーへ挨拶に行っていました。
 当時、三津から船で酒を出荷していたのですが、三津浜港に船が着くとトラックで一気に酒を積込んでいました。一時期、私の会社は自動車会社も営業していましたから、酒の運送でも新品のトラックを使っていました。当時の三輪トラックでも新しい型のトラックを使っていましたから、港で荷物を積卸ししているほかの会社のトラックとは全然違っていました。『久米の井いうて書いたトラックがすうっと今治(いまばり)方面を走りよる。私らは船のドック下までみんなで鉄板を運びよったのに、あの新しいきれいなトラック1台でも持っとったら楽やのになあと思いながら、いつも羨ましく見よった。』と今治造船の会長さんから言われたことがあります。
 昭和30年代、40年代は景気も良かったので、正月に大口の小売店に挨拶に行くと、『縁起がええんで酒なんかなんぼでも持って来い。』と言っていただいて大量の初荷の酒を運び込んでいました。また、小売店で子どもたちに風船などを配って喜ばれていたことも憶えています。」

  エ 杜氏と酒造りの仕事

 「令和3年(2021年)に廃業する直前の頃は、杜氏(とうじ)は高齢の方で、蔵人も高齢の人が多かったです。私(Cさん)が学生だった頃には、たくさんの蔵人が来ていました。最後の頃は一つの蔵で杜氏を含めて8人くらいで酒造りをしていましたが、私が幼かった頃は一つの蔵に40人近くの蔵人がいて、全ての蔵を合わせると200人くらいの蔵人が働いていました。最後まで私のところで働いてくれていた杜氏さんはものすごく熱心で、全国規模の賞をよくとっていたことを憶えています。この杜氏さんは、彼のお祖父さん、お父さん、兄さんがみんな杜氏をされている一族でした。彼は、80歳で引退させてくれと言っていて、80歳まで私のところで働いてくれていましたが、現在は伊方(いかた)に住んでいます。当時働いていた杜氏や蔵人もみんな伊方の出身者で、もう亡くなった人もいます。
酒造りでは杜氏が一番重要ですから、私のところでは三食の食事の世話をする人を付けて、最後まで住み込みで働いてもらっていました。自宅で寝起きをして通いで働いてもらっていた杜氏はいませんでしたが、ほかの蔵ではもうほとんど通いの杜氏だったと思います。昔ながらの住み込みのやり方を続けているのは、私のところともう一つくらいだったと思います。大吟醸などの酒を造るためには、温度の管理がものすごく繊細で重要なのですが、その酒の利益を考えると数千万円という仕事になりますから、杜氏は寝不足や緊張と闘いながら、真っ青な顔をして必死になって仕事をしていました。杜氏は、私たちの給料の3倍くらいもらっていたと思いますが、優秀な杜氏にはそれだけの価値がありましたから、惜しいというようなことは全く思いませんでした。
 酒造りは気温が低くならないと良い酒ができないので、冬場に行います。四季醸造といって1年を通じて酒を造っているところもあるのですが、結局やめてしまったところが多いと思います。冷蔵施設などを使って、年中夏でも造れるようにしていたのですが、どうしても空気中の雑菌が入り込むなどうまくいかないそうです。気温も朝は一定に冷えないといけないそうで、機械ではどうしてもそれが再現できないのです。それでは良い酒は造れませんから、冬場だけにした蔵がほとんどです。
 酒造りの仕事は冬場の半年間ですから、そのほかの期間はミカン農家をしたり、豚の食肉工場に働きにいったり、大工をしていたりと杜氏によって様々だったと聞いています。昔は、南部(岩手県)の杜氏や新潟の杜氏は酒造りをしていない時期は収入がないので、全国の酒蔵に分かれて働きに行っていました。そのため、蔵人は杜氏にお歳暮などを必ず持って挨拶に行くことで、杜氏と一緒に仕事に連れていってもらわないと生活ができないと言っていました。また、杜氏は家の近くの人や学生時代の同級生などを蔵人として呼んで、仕事に連れてきていたこともありました。それだけ杜氏は力を持っていたということです。
 以前、私のところにいた杜氏は、気に入らない蔵人を帰らせたりしていました。そのとき、蔵人は『今帰ったら生活ができん。』と言って、泣いていたことを憶えています。ほかにも、朝、少しでも仕事に遅れてきた蔵人は朝御飯を食べさせない杜氏がいて、蔵人が台所まで来て黙ってじっと立っていましたから、私の母がこっそりおにぎりを渡したりしていました。母が『まだ子どもやのに、あんなことしたらいかん。』と杜氏に言うと『仕事に遅れたら食べささんのが当たり前じゃ。』と言って、よく母と杜氏が言い争っていたことを憶えています。
また、酒造りの仕事は1日の仕事が長く夜眠たくなるので、蔵人が一斉に昼寝をしていました。そのため、私も子どもの頃は時間になると蔵に行って、一緒に昼寝していたことを憶えています。
 このように大変な仕事ですから、酒造業ではもうこれからは簡単には人が雇えないし、酒造業で働きたいという人はあまり出てこないのだと思います。今の職人さんが歳を取ってしまったということもありますが、仕事が想像以上に大変なのです。寝ないで蔵に付ききりで見ておかなければいけない時期が続くので、今の基準では法律に違反してしまうような部分もあります。半年くらいずっと泊まり込みで家には帰れませんから、昔は杜氏や蔵人の奥さんやお子さんが松山に来たときには蔵に寄ってくれたり、少ない時間ですが、家族で御飯を食べに出たりしていました。椿まつりの時期には必ず時間を融通してお参りに行っていました。」

  オ 酒造業の陰り

 「かつては酒造業ももうかっていましたが、昭和40年代後半頃から状況は徐々に変化していきました。私(Cさん)が昭和46年(1971年)に松山へ戻ってきた頃のことです。日本酒を飲む人が急激に減っていったこともありますが、日本酒は1年間寝かさないといけませんから、もう時代には合わなくなっていたのではないかと思います。
昔は1升(約1.8ℓ)瓶を10本入りのケースで配達していましたが、今ではプラスチックのケースで6本入りになってしまいました。私が松山に戻ってきた頃、一度に運ぶのは1升瓶600本ずつでした。そのため、三津浜や八幡浜にある業者まで2度運んでいったら、1日当たり1,200本の酒を1軒の業者に入れていたことになります。年末12月31日には5社に出荷して、1日に3,000本以上の酒を運んでいましたから、昔は販売規模が全然違っていたということです。しかし、会社をやめる頃には本当にひどい状況になっていました。
 平成10年代半ば頃から酒造業全体がうまくいかなくなって、大手メーカーでも毎年数十億円という赤字を出しているのが現状です。大手や一流のメーカーでも酒蔵の規模が3分の1くらいになってしまったり、工場の数を減らしたりしている状況で、小さい会社は全くうまくいきません。
 結婚式でも日本酒が出る量は激減しましたし、お葬式でも多くの方が車で来られるから日本酒を出せません。海外から旅行者などが来て、日本酒が随分売れているようにニュースなどでは言われていますが、あれは量が知れています。その反面、運送費はものすごく掛かるので、掛かったコストの回収ができないのです。人口も減ってきていますし、これからは松山市のようなところでも大変な時期になると思います。日本酒メーカーはどこも今後の見通しが立たないと思います。
 酒造業できちんと事業整理して廃業できるのは、私のところがもう最後ではないかと銀行の担当者から言われました。今はもうやめようと思ったら住居などの財産も全て差し押さえになってしまうので、やめるにやめられないのです。実際、資金繰りがまずまずな会社は多くはありませんでしたから、金融機関から借りた分を返済できないからやめられず、厳しくても続けるしかないところは少なくないと思います。ほかの酒造会社は、県外の大手メーカーに事業を全て譲渡してしまって、そこで製造しています。倒産してしまった会社はたくさんありますが、みんな家までなくなってしまいました。担保に入っている以上に銀行から借りているところがほとんどですし、田舎の土地だと大した資産にはなりませんから、金融機関からすればただ同然でお金を貸しているような状態なのかもしれません。
 私が会社を畳んだとき、四国では一番古い酒蔵でしたから、取引のあった銀行の頭取がやって来て『なんとかするからやめないようにして欲しい。』と言われましたが、会社をやめることに迷いはありませんでした。よく決断できたとか、簡単にやめたとか周りからは言われましたが、廃業してすぐに新型コロナウイルス感染症の流行が始まったので、『あなたの会社は、こうなることを知っとったんじゃないか。』と取引先の銀行から言われたりしました。コロナ禍が終わって、市内でも八坂通には飲みに出る人や観光客が戻ってきているように感じますが、飲食店の売上げは回復していません。
 会社を畳むと決めてからはすぐに業者に頼んで酒蔵を壊してもらい、きれいに更地になってしまいましたから、親戚も驚いていました。」

 (2) 酒蔵を経営する

  ア 酒造業の家に生まれて

 「私(Cさん)は、地元の高校を卒業して、東京の大学に進学しました。大学卒業後は、東京の企業に就職が内定していましたが、私は長男で男1人でしたから祖父が激怒したことを憶えています。その後、内定していた企業にお断りに行ったのですが、企業も大学も巻き込んで大問題になってしまいました。私はいわゆる団塊の世代で、同世代の人数が最も多いときでした。
 昭和46年(1971年)4月に地元に戻ってくると、すぐに銀行に挨拶に行ったり、得意先の結婚式に顔を出したりしたことを憶えています。
 地元に帰ってきたとき、祖父から『お前は酒造を整理せい。ほかはしても構んけど、酒造をやめてきれいにするために、お前は帰ってきたんじゃ。』と言われたことを憶えています。今から50年も前に祖父はそのようなことを言っていましたから、先見の明のようなものがあったのだと思います。そして今までに40社以上を経営していましたが、結局、今残っているのは8社だけです。祖父は一度決心したら、すぐに行動を起こす人でしたから、やめると言ったら一気にやめていました。その頃は映画館やボウリング場を幾つか持っていましたが、様子を見ながら、やめると決めたら全て整理していました。一方で、祖父は土地に対してはこだわっていたことも憶えています。
 数十年続けてきて、社会は急激に変化していきましたが、結局、酒造業全体は祖父の言った通りになりました。酒造業を取り巻く状況はその頃と現在では全く異なりますが、酒造組合の中ではこれからは先細りになるという危機感のようなものがあったのだと思います。その頃から酒造メーカーが桶売りを断ってきたり、これからは自分の蔵で造ると言ってきたり、そういう話が少しずつ出てきていましたから、大手メーカーも以前からしんどくなってきているのは感じていたと思います。」

  イ 酒の販売

 「販売の面でも、私(Cさん)が戻ってきて以降、酒代が払えないといって小売店がやめることは少なくありませんでした。得意先でもやめた小売店は何軒もありました。
 私の会社で醸造した酒の販売は、県内がほとんどでした。小売店も卸売業者もありますし、道後のホテルや市内のすし屋さんなどに直接出すこともありました。地元久米の小売店にも卸していました。私のところでももともと小売りをしていたのですが、それをやめて、別の商売をしていた人に販売免許を譲りました。
 業者を通さないで、良い酒を持ってきて欲しいと直接言われることもありました。値上げがあると直前に駆け込みで売れるのが分かっていますから、小売店は大量に仕入れて、その結果、何か月も後に消費者に売ることになります。そうすると、お客さんに高い値段で飲んでもらっているのに、『品質が劣化していて、酒に色があった。』と言われることもありました。そのため、市内のホテルや今治市のホテルには全て直接持っていって納品していました。私は、あまり原価を考慮しないで良い酒が一番という考えでしたから、私が営業に行って、少しでも香りがおかしいことに気付くとすぐに私のところの従業員に交換させていました。
 最後の頃は、銀座や阿佐ヶ谷のすし屋など直接売って欲しいという店への納品も多くなっていました。銀座のすし屋などは外国から来られたお客さんも多かったのですが、私のところの純米大吟醸の小さい瓶が人気でたくさん出ていたそうです。日本人でもすしはほとんど食べないでお酒だけ飲みにくるお客さんがいて、やめられたら困ると何度も言われたことを憶えています。」

  ウ 海外からの需要

 「私(Cさん)の会社は、長い間、今治造船とも取引があり、全て私のところの酒を使ってくれていました。それも向こうで『船一筋』という銘柄を取得して、ラベルまで全てデザインする人がいましたから、『後藤酒造の純米大吟醸を詰めて出してくれたら、それでいい。』と言われていました。そのおかげで、国内外のお客さんが会社に来たときには必ず振る舞ってくれていたそうです。
 一方では、『外国には絶対に日本酒を出すなよ。出したら絶対に釣り合わん。』と言われました。日本酒は船舶で輸送すると、品質が落ちて色が出ることがあります。ヨーロッパからの需要があっても船便で日数が掛かってしまうと、品質が劣化して返品になったりしていることが世間ではあまり知られていません。また、船舶による輸送は時間が掛かりますが、少しでも遅れてしまうと1,000万円を超えるような契約に影響するそうですので、納品の日付は絶対なのです。
 一時期は飛行機で海外に出していたこともあったのですが、代金が回収できないリスクが非常に大きくて大変でした。ニュースでは、香港などの東アジアで日本酒が人気だと言っていますが、代金が十分に回収できていないということはあまり報道されていないのです。」

  エ 一番の苦労

 「会社を経営していて一番苦労したことは、資金のことです。その中でも一番は、祖父が他界したときのことです。私(Cさん)のところの会社のお金を祖父が管理していたので、会社の資金が入った祖父個人の口座を銀行が止めてしまい、相続が終わるまでは口座から1円も出金することができなかったことを私は憶えています。それまでは返済で必要なお金も全て祖父が自分名義の口座に入れて、会社を回していたのです。2月に祖父が他界して、3月末に幾ら返済が必要だと連絡があったのですが、全ての金融機関の口座が即座に止まって、出金できなくなっていました。
 祖父も死ぬまでお金のことを心配していましたが、結局、私がお金の運用ができないと考えていたのではないかと思います。そのため、すぐに大手の酒造メーカーの副社長らと会い、桶売りを持ってくるからなんとか先にお金を出して欲しいと頼み込みました。ほかにもできることはなんでもやって、ようやく期日までにお金を工面することができたのを憶えています。私の妻は親戚に酒造業が多くいて事情を知っていましたから、大変なところに嫁いできたと思っていたようです。
 私が大学を卒業して松山に帰ってきた頃は、時間に余裕があったら取引のある伊予銀行本店に行くよう祖父から言われており、毎日のように銀行の融資係のところに行って座っていました。そこでは本当にいろいろなことを教えてもらいました。決断するタイミングやお金の動かし方など、伊予銀行で培ったものをもとに、判断は早くして行動を起こすのも誰にも負けないように心掛けていました。今になって考えると、祖父もそういうことを狙っていたのではないかと思っています。あるとき、県外の酒造メーカーの社長から、どうしてそんなに安い金利で資金を借りられるのかと聞かれたことがあるのですが、銀行の言うことをうのみにするのではなくうまく駆け引きしないといけないのです。むしろ、規模の大きいメーカーがそんな高い金利で銀行からお金を借りていたら、ほかのメーカーが困ると言い返していました。その人の会社は毎年数十億円と売り上げていたのに、今ではなにもなくなってしまいました。やはり、やり方が大切だと思います。
 それ以前にも、祖父の代の頃から資金の調達にはずっと苦労していたようです。私が高校生のとき、県立高校の授業料が500円、PTA会費が700円くらいだったと思いますが、祖父が『おまえ、ちょっと授業料払うのを待ってもらえ。』と言って半年間滞納した結果、事務室の女性職員からむちゃくちゃに言われたり、先生からも『おまえは本当に久米の後藤の息子か。』と言われたりしたことを憶えています。同窓会に行ったときに当時の級友からよく憶えているなと言われましたが、授業料が払えなかった本人ですから、そのときのことをよく憶えています。
 一方で、会社の資金については、返済の時期になると『なんでも構わんからお金を集めて15時までに銀行に入れんといかん。』と言って、子どもがためた貯金箱まで割って使っていたことを憶えています。取引先などの祖父を知る人からは『明日までに1,000万円貸してくれとか、あなたのところの会長さんはむちゃくちゃでした。』といった話をよく聞きました。当時の1,000万円というと現在の1億円くらいにはなると思いますから本当にむちゃくちゃなことを言っていたと思いますが、それでも信頼してもらえていたのは、何がなんでもお金をかき集めて期日までに返済していたからで、『おまえのとこのじいさんは絶対に約束を守る。』と言いながら、またお金を借りることができていました。その一方で、学校に払うお金がないときもあり本当に困っていました。」

 (3) 地域とともに

  ア 小学校の体験学習

 「久米小学校から、小学5年生の体験学習で酒造業に協力して欲しいという依頼があり、平成10年代の短い間ですが、『久米舞』というお酒を造っていた時期があります。久米地区は農業が多いですが、製造業はあまりありませんから、地域の産業を考えたときに酒造業が候補に挙がったそうです。
 小学生が古代米を栽培して、その古代米を使って酒を造るのですが、米が赤いので出来上がる酒も赤くなります。体験学習に合わせて、赤米を作っている重信の会社から玄米を取り寄せて、久米の農家さんに栽培してもらって酒造りに使っていました。酒米の場合は普通の精米機は使用できませんから、精米過程にも手間が掛かるのですが、実際に精米してみたら真っ白になって、普通の米となにも変わらなくなってしまいました。初めての試みでしたから、杜氏が精米作業を見ながらちょうど良いかげんで精米機を止めて赤みを調整したり、香川県の加工業者へ視察に行ったりもしていました。
 体験学習では酒蔵の見学もしました。小学生が4班くらいに分かれて班ごとに蔵に入って体験したり、酒造りについて質疑応答したりしていました。小学生が見学に来る前日は、児童が落ちたりけがしたりしないように点検して周囲に手すりを付けていました。酒蔵内を見学する際には、児童の視点から見学する道順を考えて、事故が起きないように万全の対策が必要なのです。小学校の先生方も、どの道順が適当か何回も酒蔵の中を歩き回っていましたから、学校の先生も体験学習を成功させるために本当に大変だったのだと私(Cさん)は感じました。
 この体験学習には毎年松山の全テレビ局と新聞社が取材に来てくれました。テレビで放送されると、北久米小学校も体験学習をしたいと相談されたのですが、久米小学校の担当者は絶対にだめだと言っていました。旧国道11号の北側が北久米小学校区で、その南側が久米小学校区で、ほんの少しの差なのですが、北久米小学校の先生は残念がっていました。また、『テレビで久米小学校の小学生が出ているのに、私の孫が映らなかった。』とか『小学生を使って、酒の宣伝をしている。』とか言われることもありましたが、『私の方は体験学習をやめても構いませんから、学校の担当者に電話をしてください。』と言いながら5、6年間続いたと思います。
 当時、体験学習で酒蔵に来ていた小学生が20歳になったときには、既に『久米舞』の製造をやめていましたから本当に残念がっていたことを憶えています。出来上がった酒を小学生に飲ませるわけにはいかないので、その当時は酒かすでアルコール分をよく飛ばした甘酒を作って子どもたちには出していました。現在でも小学校で田植体験はしていますが、赤米ではなく黒米に変えて、収穫した後はおにぎりを握る体験をしているそうです。」

  イ 東道後温泉郷の開発

 「私(Cさん)の祖父の時代は酒造業だけでなく、40社以上の会社を経営しており、そのうちの一つとして戦後に今の久米駅の辺りに東道後温泉を作りました。昭和30年代末から本格的に開発が始まりました。源泉は後藤酒造の敷地内で、今は駐車場になっているところにあるのですが、47度で沸いており湯量も多く成分も良いです。現在は親戚の会社に貸していて、そらともりや久米之癒に送湯しています。現在のそらともりも、当初は東道後ファミリー温泉として商売を始めました。一時期、賃貸マンションにも温泉を引いていたのですが、温泉の成分が原因で配管がぼろぼろになってしまい、賃料も高くなってしまったのでやめてしまいました。」

  ウ 自動車の時代

 「戦後、祖父が一番町でオリエント製の三輪自動車を扱い始めました。一番町の通りに私のところのオリエントのほかに、くろがね、マツダ、スズキと4軒の自動車を扱う店が並んでいた時期があります。私(Cさん)が小さかった頃は、愛媛県中の人がその通りに車を買いに来ており、特にトラックはたくさん売れていたと思います。車を買いにお客さんが4軒の店を行ったり来たりしながら値段交渉して、買って帰っていました。
 当初は新車販売もしており、昭和40年代後半には1日に50台くらい売れていたと思いますが、後に中古車販売と修理事業に切り替えました。それには理由があって、東京や大阪ではみんなが新車で乗用車を購入して、中古車が大量に余っていました。それで、東京トヨペットや大阪日産と契約して、向こうで余っている中古車をそのまま船で送ってもらっていました。地方では新車は高くて買えませんから、中古車が大量に流通していたのです。毎日のように高浜港に船が着いて、工場で修繕や点検を行い、すぐに出荷していました。大量に仕入れていましたから、お客さんも個人だけでなく県内の中古車販売店がほとんどだったと思います。高浜港に船が着いたら、社員たちをマイクロバスに乗せて行って、みんなで車を工場まで運転させていました。それでもお客さんが大勢待っていましたから、それだけ自動車が売れていた時代だったのです。」

  エ 久米の通り

 「久米で生まれて、数十年ここで商売をしていましたが、その間にこの辺りの通りも随分変わりました。昔は久米のこの通りにも商売をしている家がたくさんあって、人の行き来もたくさんありました。今と違って車の通行が少なく、地元の人がよく歩いていたことを私(Cさん)は憶えています。私が子どもの頃は、個人で乗用車に乗っている人はこの辺りで数えるほどしかいませんでしたから、自動車の往来はものすごく少なかったと思います。私が幼かった頃は、三輪トラックが木炭を焼きながら今治まで商品を配達していたことを憶えています。ダイハツミゼットやてんとう虫と呼ばれたスバル360といった自動車しか走っていませんでしたが、個人で買うにはそれらの自動車でも相当に高価でした。
 ここ数十年の間に酒屋もしょう油屋も金物屋もなくなり、ここら辺は全部変わってしまいました。大判焼き屋やパン工場もありましたし、散髪屋だけでこの通りに5軒もありました。私が小学生の頃、通りに鍛冶屋があって、作業しているのを座ってずっと見ていて学校に遅刻していったことを憶えています。
また、私の両親は商売で忙しくしていましたから、近所の自転車屋のお父さんとお母さんが、私やいとこの面倒を見てくれていました。当時とは比べ物にならないほど住宅は増えましたが、商店はなくなり、住んでいる人も変わっていってしまいました。」


参考文献
・ 久米村史刊行会編集部『久米村史』1965
・ 後藤信正『新生史』1970
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 久米公民館『国指定史跡白鳳の歴史ふるさと来住台地への道』2001