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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 久米の産業と人々のくらし

 本節で取り上げる久米地区は、松山平野のほぼ中央に位置し、北東部は山地をなし、南西部には平地が広がる。弥生時代や古墳時代の遺構も多く残されており、県内でも早くから農耕が発展した地域の一つであると考えられている。しかし、平地の中央部に流れる小野川やそのほかの小河川は水量が乏しかったため、古くから大小のため池や用水路が開発されてきた。
 交通の面では、古くから札の辻を起点として桜三里を通り、東予地方を経て、香川県につながる讃岐街道の通る地域であり、また、18世紀から盛んになってきた四国遍路の宿場町が形成された地域である。明治26年(1893年)には、伊予鉄道が久米駅を通って平井駅まで開通し、明治32年(1899年)には横河原駅まで営業運転を開始している。
久米地区の産業は農業が主であったが、旧国道11号の整備や自家用車の普及で、急速に宅地化が進み、松山市のベッドタウンとしての性格が強まり、農地の減少と離農が進んだ。
 久米地区では、製造業はあまり見られなかった。南久米町で酒造業を営んでいた後藤酒造は、慶長7年(1602年)創業の県内屈指の歴史を持つ酒蔵であったが、令和3年(2021年)3月、酒造業から撤退した。
 本節では、久米地区の農業とくらしについて、Aさん(昭和6年生まれ)、Bさん(昭和19年生まれ)から、久米地区の酒造業者であった後藤酒造の酒造りについてCさん(昭和23年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。