データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 久米地区の農業
(1) 久米の農業
ア 久米地区の米作り
「私(Bさん)は、昭和19年(1944年)に久米窪田で生まれました。学校を出た後は県外で仕事をしていましたが、定年退職後に地元に帰ってきて、現在まで農業を続けています。もともと父が久米窪田で米作りをしていましたが、今考えると一人ではとてもできないような大変な農作業をしていたのだと思います。
現在、私は米が中心で、コシヒカリを栽培しています。複数種類を栽培すると大変ですから、食味が良いコシヒカリのみを生産しています。作った米はJAに卸すのではなく、個人で販売していますが、その方が値段も良いです。今年(令和6年〔2024年〕)は米不足と騒がれ、価格も高騰しました。米の単価が上がったということは農家にとっては良いことに思えるかもしれませんが、消費者にとっては大変です。それに、物価も上がっているので、農家としても状況は大きく変化していません。肥料は以前と比べてとんでもない値段になってきています。また、今年になって突然そんなに米の値段が上がるのならば、今までもいつ高騰してもおかしくなかったのではないかと私は思います。
久米地区の場合は、作った米を個人で販売している人が昔から多く、JAに出している農家は多くはないと思います。やはり買う消費者の立場からしても安くておいしい米だったら買ってくれますが、スーパーマーケットなどで購入するといろいろな米が入っているので、味が全く違います。東北や新潟の方で作られたコシヒカリと久米で作られたコシヒカリとでは、同じコシヒカリでも米粒の艶が全然違いますし、味が全く異なります。おそらく水の違いや気温の寒暖差の違いが、味の違いに影響しているのではないかと思います。通常、米粒は透き通った色をしていますが、最近では米粒が白く濁ってきており、これは温暖化の影響だと言われています。
県内でも新しい品種の米が出てきて、久米地区でも鷹子、福音寺、高井などの地域で栽培している農家さんもいるそうですが、それらの品種を栽培するとなると、いつ種をまいて、いつ消毒をしてというふうにJAの指示通りにしないといけません。そのため、小規模で稲作をしている私たちのような農家は、関心があっても栽培できないという人が多いのです。」
イ 休耕田を生かす
「現在、この辺りでは休耕田が多く、そこを使って米作りをして欲しいと言われ、ある程度の土地を預かり、米作りをしています。私(Bさん)が稲作の請負を始めたのは平成30年(2018年)頃からだと思いますが、年々多くなっているように感じます。
農地を預ける側の人も、農業以外の仕事をされていたり、高齢になり農業ができなくなったりした人が多いのだと思います。今では農業だけで食べていくということは困難になっていますから、専業農家ではなく兼業農家が増えていますし、70歳くらいまで働く人が多い時代において退職後にほとんどゼロから農業を始めるのは、体力的にとてもできないのだと思います。昔は50歳代で会社を退職して就農する人もいましたが、退職する年齢が遅くなったということはその就農する層がいなくなったということです。
また、後継者もいなくなり、先代からの土地を手放すこともできず、耕作しない土地の管理もできなくなり離農するといった傾向が進んでいます。これらのような背景から、土地を借りて、耕作してもらうことを望んでいる地主さんが増えているのも最近の事情だと思います。
現在、私は家の近辺の農地を預かって農業をしていますが、1人で作業しているので全部で7反(約70a)強くらいが限界です。専業農家で周囲の休耕田を請け負っている農家さんは、ほとんどが私よりも若い人たちですが、それでも60、70歳代の人たちです。私のようにサラリーマンをしていて退職後に就農した人はほとんどおらず、ずっと農業を続けてきた人たちばかりだと思います。
この辺りの休耕田は、今では何軒かの農家に集約されてきています。久米窪田の中では28軒の農家が残っていますが、実際に稲作をしている人はその4割くらいしかいません。」
ウ 久米地区の野菜作り
「戦後、久米地区では稲作が主体でした。野菜作りはそんなに多くなかったと聞いています。ほとんどの農家が野菜は家庭で食べるほどの量しか作っていなかったと思います。中には専門的に野菜を栽培していた農家さんもいたようですが、米の生産調整が始まった頃に野菜作りに切り替えた生産者が多かったようです。また、一時期はハウス栽培も盛んだったようです。
しかし、野菜作りは稲作よりも手間が掛かり、人手も必要となるため、高齢化とともに生産する人もだんだんと少なくなっていきました。また、ここ最近の気温の上昇によって野菜の生育も悪くなり、害虫も増え、野菜作りも難しくなりつつあります。
現在、私(Bさん)が栽培しているのは季節に応じて、ダイコン、ハクサイ、キャベツ、ニンジン、ホウレンソウなどです。現在は、あまり多く栽培していないので出荷していませんが、ナバナを栽培していた頃は、JAに出荷していました。現在作っている野菜の中で、JAを通じて出荷しているのはタマネギだけです。」
エ 鷹子の果樹栽培
「私(Aさん)の家では、米のほか温州ミカン、イヨカン、カキ、キウイフルーツを主に栽培していました。昭和28年(1953年)、結婚して久米に来ましたが、本家から田畑を計8反(約80a)くらい分けてもらって農業を始めたことを憶えています。このうち、山沿いの田畑は果樹園として整地しました。加えて、数年後に、本家所有のカキ畑を4反(約40a)くらい買い取り、カキの栽培をしていました。その頃の鷹子では、2、3反(約20、30a)くらいの比較的小規模にミカン作りをしている農家がほとんどで、1町(約1ha)くらい大規模に栽培している人はいなかったと思います。近隣の農家も温州ミカンが中心で、早生(わせ)、中生(なかて)、晩生(おくて)のほか、イヨカンを少し作っているくらいでした。栽培する品種が増えると、消毒する時期が違うなど手間が増えるので、値段が良くても少ない品種を栽培する農家が多かったのだと思います。昭和30年代に入ると徐々に畑を開墾していって大規模にミカンを栽培する農家も増えてきました。
ミカン作りで最も苦労したのは、除草や摘果よりも薬噴き(消毒)です。梅雨から夏に掛けての時期に雨合羽(がっぱ)を着た状態で薬を噴く作業をしますから、汗はかきますし、霧状の消毒液が顔に付きます。気温の高い時期に、その作業をするのが最も大変だったことを憶えています。
キウイフルーツを栽培していたのは昭和50年(1975年)頃からで、ミカンが生産過剰となりほかの作物へ転作し始めた頃でした。キウイフルーツを作っていたのは2反(約20a)程度で、緩やかな斜面で日当たりと排水の良い土地が必要でした。キウイフルーツの栽培は、棚に茎を留めるために芽が伸びたら上を向いたままの姿勢で作業をするのが非常に難儀で、私が頸(けい)椎を痛めたのはその作業のせいではないかと思っています。キウイフルーツの栽培には本当に苦労しましたが、やめた後、その畑は隣接地とともに宅地に変わっていきました。
カキは富有ガキと愛宕ガキを栽培していました。カキは手作業で受粉をさせないといけないので、キウイフルーツ同様、非常に手間が掛かる作業でした。今になって考えると、当時の農業は本当に手間を掛けて作業していたと思います。私はもともと体力がない方で時折通院していましたが、農作業の合間にゆっくり休むなんてことはできませんでした。カキは収穫が終わっても、一つずつ選別して箱詰めし、その日のうちに荷造りして市場まで持っていっていました。カキは、土橋にあったマルセイ市場(後の温泉青果土橋市場)や国鉄松山駅の近くにあった温泉青果松山市場(後の松山中央市場)に持っていっていました。
また、モモは、非常に手間が掛かるので数本だけ栽培していました。モモが熟してくると、鳥も食べに来るのですが、蛾などの害虫も吸いにきて、実がぼこぼこになり腐っていきます。そのため、果実に1つ1つ袋掛けをしていく必要があり、非常に手間が掛かったことを憶えています。」
オ 共同農園の開拓
「昭和30年代中頃、久米の末広共同撰果組合(松山地方で初めての共同選果場で、後にJAに売却)が主体となって芝ヶ峠(しばがとう)を30町(約30ha)くらい造成して、共同農園ができたことを憶えています。峠を越えて東野地区に続く谷筋があり、その両側の斜面が全てミカン園に変わりました。それ以前は数軒の家が所有しているマツなどが広がる雑木林でしたが、造成した当時は松枯れが進んでいる状況でした。末広農園と呼ばれていたその農園では、柑橘(かんきつ)は、温州ミカンやイヨカンなどが栽培されていました。
共同で開発した農園は、最初、数十人の組合員が共同で栽培をしていましたが、急速な社会変化を背景に会社勤めをする人や農業をやめる人が増え、数年後には農園が個々の農家に分けられました。
開発当初からスプリンクラーが設置されており、道前道後用水の道後北部幹線用水路から水を引いていました。また、農園を造成する際にブルドーザーで整地して、リヤカーが通れる程度の農道も隅々まで整備されていました。畑自体が傾斜地ですから、収穫したミカンを運搬するには、一輪車のような台車に積んでみんなが何回も下りてはまた上って、本当に大変な作業だったことを私(Aさん)は憶えています。農園から家までの果樹の運搬のためにテーラーと呼ばれていた耕うん機の後ろに荷台が付いている乗り物を購入しましたが、後々に自動車が必要になりミゼットを購入したことを憶えています。
初めの頃は籠を肩に掛けて収穫をしていましたが、少しずつ経験を積んでくると、どうやって楽に作業するかを考え始め、木の上の方に籠をつるして負担を減らしていたことを憶えています。途中から設置したモノラックは現在でも残っています(写真2-2-1参照)。モノラックの設置で最大12杯のキャリーを一度に下ろしてくることができるようになりましたので農作業は随分楽になったのですが、山中あっちもこっちもレールを張り巡らせるので設備投資には結構な費用が掛りました。」
(2) 変わりゆく環境
ア 農業機械の普及
「私(Bさん)が子どもの頃は、農家の子どもが家の農作業を手伝うのは当たり前でした。同級生も多くは農家の子どもでしたが、農家でない友達がうらやましいと思ったこともあります。学校から帰ったら、田んぼに入って草をひいたり、稲刈りが終わったら稲ぐろ(わらぐろ)を作ったり、足踏みの脱穀機で脱穀作業を手伝ったり、朝早くから夜遅くまで本当に肉体労働ばかりでした。その頃と比べたら、機械化によって農作業は本当に楽になったと思います。
農業機械の導入は、私の父の頃から少しずつ始まりました。最初は耕うん機だったのがトラクターになったり、稲を鎌で刈って千歯こきや足踏み脱穀機を使っていたのがコンバインになったり、徐々に変わっていって現在の農業の姿になっています。昔は全て人力で農作業していましたから、農家の人たちにとってメリットは大きかったと思います。昔使われていた古い農具は、今でも地元の小学校にも展示されています。私が農業を始めた頃は発動機を使っている農家もありましたが、1990年代には全く見なくなりました。
30年くらい前、平成に入った頃から、さらに急激に機械化が進んでいったと思います。現在は、収穫した米は灯油バーナーで乾燥させて、機械で籾摺(もみす)りもしますし、耕うん機やコンバインなどの農業機械もどんどん新しい機械に変わってきています。しかし、農業機械が古くなって壊れてしまうと、最近の機械は個人ではもう購入することができないので、東温(とうおん)市のカントリーエレベーターに持っていって籾摺りをしています。機械の購入は非常に高額で、少し故障しただけでも数十万円の修理費が必要になってしまうこともありますから、農業だけでそれを返済していくことはできません。
久米地区では、若手の専業農家を中心に、数人が共同で休耕田を耕作していることがあります。そういう人たちの多くは、2町から3町(約2haから3ha)の比較的広い面積を専門的に機械で耕作していると思います。大型の農業機械は組織で購入しないといけませんから、兼業農家では同じような農業経営はできないのです。」
イ 宅地化の進展
「この辺りも国道11号バイパスが完成して、環境が随分変わりました。住宅地が急速に増え、その分、田んぼは急速に減りました。北久米、南久米、鷹子辺りの田んぼは随分減ってしまい、現在でも田んぼが広がっているのは、高井や南土居、南窪田、来住の一部地域だけです。全国的に耕地面積は減ってきていますが、久米地区全体では以前の半分以下になってしまったのではないでしょうか。
しかも、住宅が建つことによって分断されていった農地は、狭いところでは農業機械が入っていけませんから、農業経営も非常に効率が悪いのです。環境に配慮する面からも、農薬を使用してはいけなくなったり、野焼きをするのが禁止になったりと制約が増えてきました。農業に従事している人にとって、どんどん肩身の狭い世の中になってきているように感じます。
私(Bさん)が若かった頃、久米地区は見渡す限り田んぼで、その中に点々と家が建っているような風景でした。現在の久米小学校の校舎は建て直されたものですが、軍ヶ森(いくさがもり)神社の向かい側にあった久米窪田の田んぼから久米小学校が丸見えだったことを憶えています。現在では商店やマンションがたくさん建っており、景色も暮らしも随分と変わってしまいました。私が就職した昭和40年(1965年)頃は、米の値段も変化し農業だけで食べていくことは難しくなってきていた時期でしたので、私の父は農業を継ぐよりも県外の会社に就職する方が良いと言っていました。その頃から久米地区でもアパートなどの建設が少しずつ増えていきましたが、私の家が耕作していた田んぼは全て市街化調整区域でした。その結果、地元で父が農業を続けていくことになりましたが、土地をなんとか維持していくのが精一杯の時代だったと思います。
久米地区の農地に変化が現れ始めたのは、旧国道11号(現県道松山川内線)が整備されて、自動車の交通量が増え始めたことが大きなきっかけです。これに伴い、国道沿いの土地がどんどん住宅地に変わっていきました。北久米、南久米、福音寺などの住宅地がその典型例です。旧国道11号沿いや伊予鉄道沿線、久米小学校の北側は昔から住宅も多かったのですが、11号バイパスが完成してからバイパス沿いに市街地や商店が急速に広がっていき、南東方向に人口重心が移っていきました。」
ウ 貸農園という形態
「愛媛県内でも南予の西予(せいよ)市などのように広い農地で農業をしている地域もありますが、久米地区のように小規模な農地の間に住宅地が広がり始めたら、それまでの農業経営を続けていくことはもうできません。それに住民にとって、住宅地の隙間に田んぼが残るということは、農地の周辺で虫が発生したり、道路に土砂が出てきたりと、デメリットの方が多いと思います。
近年、この辺りの地域でも貸農園で作物を作る人が増えてきています(写真2-2-2参照)。貸農園という形態は、駐車場が用意されていて、小規模でも農作業ができる環境が整っており、利用者の多様なニーズに応えられるならば成立します。しかし、1坪(約3.3㎡)くらいの面積の土地で、趣味で家庭菜園や園芸をする延長線上にあるのが貸農園であり、産業としての農業とは異なると私(Bさん)は思います。
もちろん、ただ土地があるだけではなくて、住宅地の中ではどうしても排水などによって水は汚れてしまいますから、きれいな水がきちんと流れるといった環境が整っていることも必要です。土に関しては、久米地区は粘土層の上に上流から流れてきた土壌が乗っている地形ばかりですから、昔から肥沃な農業に適した土壌が広がっています。土壌は変わりませんが、水は宅地化によって変わってきています。」
エ ミカン山の変化
「鷹子では、昔から温州ミカンの栽培が行われていました。私(Bさん)が若かった頃は、収穫期になると山全体が黄色くなっていました。昭和30年代、40年代のミカンの値段が良かった頃は、キャリー1杯分のミカンを持って市内に行ったら1晩遊んで帰れるとか、『黄色いダイヤモンド』とか言っていたことを憶えています。米を作るよりもミカンを作った方がもうかっていましたし、立派な家がたくさん建った時期でもありました。
果樹栽培が衰退してきたのも、昭和の終わりから平成になった頃だったと思います。全国的にミカンをたくさん作るようになってくると、値段は下がってきます。特に九州でミカンを作るようになったことも、急激に値段が下がっていった要因の一つだと思います。
あれだけミカンを作っていた鷹子の山が、今では竹やぶや雑木林になってしまいました(写真2-2-3参照)。鷹子の選果場もなくなり、現在もミカン栽培を続けている農家は平井の選果場まで持って行かなければいけません。この辺りの山ではミカン栽培をやめた農家が増えたので、最近では山に入るとサルやイノシシと遭遇することが増えてきています。イノシシはブルドーザーで耕すくらい力が強いので、草木の根を食べるために見事に掘り返してしまいます。」
「農業の思い出はしんどいことがほとんどです。土曜日も日曜日もないような状態でした。特に収穫期には弁当も持って家族総出で行きますから、山で昼御飯も食べます。子どもは最初は一生懸命に手伝ってくれていますが、疲れたり飽きたりして途中で遊びながら、気が向いときにミカンを摘んでいたりしていました。また、学校が休みの日に山に行くと近所の農家の子どもが隣のミカン園に来ていたりするので、子どもらは一緒に遊んだりしていました。当時は面積の大小にかかわらず、この辺りに住んでいる人はどこの家も山でミカンを作っていました。特に収穫の時期になると、山中で声がしていて、非常ににぎやかだったことを私(Aさん)は憶えています。
昭和50年代頃から、勤めながら農業をする若者が増え、年配の人だけでは農作業ができなくなり、徐々にミカン作りをする農家が減っていきました。私も平成15年(2003年)頃にはミカン栽培を全てやめてしまい、農園も元通りの山になってしまっています(写真2-2-4参照)。今でもミカンを栽培している人が数人いますが、当時と比べると小規模にしか栽培していません。当時はみんなお金もうけのことを考えていろいろ工夫したりしていましたが、もう歳を取ってしまったのでほとんどの人がやめてしまいました。今から後を継いで果樹栽培をしようという人もいません。」
(3) 次世代に伝える
ア 赤米の栽培
「私(Bさん)は、コシヒカリを作っていますが、小学校とのつながりもあって赤米を少量だけ生産しています。当初、地域に誇りを持てるものを作ろうという提案がきっかけとなり、久米公民館が中心となって、平成7年(1995年)に来住廃寺祭りが始まりました。来住廃寺は白鳳時代の古代寺院跡ですから、その当時の原始米を久米米として再現して栽培してみてはどうかという案が出てきたのです。最初は、中学校の校長で久米まちづくり協議会の委員をされていた故岡田時晴先生が九州から赤米の種を持ち帰り、バケツで栽培を始めました。栽培が可能だというめどが立つと、平成15年(2003年)から久米小学校で赤米を栽培することが決まり、来住町の水田を借りて赤米作りの指導を開始しました。当初から赤米の栽培をされていた方が高齢になり、私が引き継いで現在まで続いています。
久米地区には久米まちづくり協議会という組織があり、学校と地域の中間に立って、お互いがしたいことやしてもらいたいことを調整し、両者の活動をつなげていく取組をしています。現在は、久米地区の農業を地元の小学校で伝承させていこうという目的で活動しています。例えば、久米小学校の児童に赤米の田植と稲刈りを体験してもらったり、窪田小学校では餅米を作って、できた餅米でお餅をついたり、それぞれの学校で特色のある活動を続けています。赤米を作るのは私にとって余分な仕事にはなるのですが、地域の農業を地元の小学生に体験してもらうことは貴重な機会だと思います。
最近は、ほかの地域から引っ越してきて家に田んぼがない家庭がほとんどですから、初めて田んぼに入る子どもばかりです。稲を触ったことがない、形が分かっていない子どもたちは、学校で習って初めて知識として稲を知る時代ですから、どのように農業をしているのかなんてことは全く分かっていないと思います。
当初は久米商工会などが中心となって、赤米を使った酒造りも行われ、おいしい酒が出来上がったそうです。しかし、少量生産で品質を安定させることが難しく、販売継続は困難だったと聞いています。赤米を使った酒造りはそのときが初めてで、これがうまくいけば大規模に製造することができるのではないかという期待はありましたが、お酒も種類が豊富で消費者の好みも多様化していますから難しいです。また、農業は自然が相手ですから、赤米も少量生産で毎年出来具合を安定させるというのは非常に難しいです。そうなると、一般的な酒造りでも毎年味が変わるのに、赤米からお酒を造るのは本当に難しかったのだと思います。
現在では、年2回程度、子どもたちが作った赤米を使った給食を出してもらっています。また、調理実習の授業において赤米を使った料理を作るときには、子どもたちと一緒に試食させてもらっています。そのほか、来住廃寺祭りや東道後温泉郷祭りでも、子どもたちが赤米の販売をしています。」
イ 里山の埴輪
「現在、小学校5年生が赤米を栽培していますが、6年生は埴輪(はにわ)を製作しており、私(Bさん)は、小学生への埴輪の製作指導にも関わっています。来住廃寺祭りが始まったとき、古代の焼き物を再現したらどうかというアイデアから、試行錯誤しながら焼き物作りが始まったと聞いています。当初は大型の焼き物がなかなかできず苦労されたそうですが、砂袋方式の芯抜きジグが考案されたことで60㎝の埴輪も製作できるようになったそうです。
その後、久米には古代の焼き物が発見された五郎兵衛谷古墳群があることから、平成16年(2004年)に子どもたちが埴輪を製作して、里山に飾る取組が始まりました(写真2-2-5参照)。これは地域の子どもたちにも実際に粘土を触ってもらいたいという思いと、小学校の卒業記念に埴輪を製作して里山に飾っておくことで、いつまでも故郷である久米を忘れることがないだろうという思いで始まりました。
昔、久米地区では製瓦業が行われており、地元の粘土を採掘して瓦に加工していました。現在、材料となる土は久米地区のものではなく、北条地区の土と香川県の土を持ってきています。昔は久米地区には瓦屋が数軒あったのですが、現在は1軒のみになっており、無理を言ってそこの瓦屋で埴輪を焼いてもらっています。
窪田小学校と久米小学校の6年生が、4月、5月に製作していて、毎年70体余りの埴輪が出来上がるので、里山の埴輪は今年度(令和6年度〔2024年度〕)で1,500体を超えるのではないでしょうか。この活動を始めてから20年以上になりますから、最初の頃の小学生は社会人になっていますが、最初の頃に作った埴輪は、どこに行ったのか分からないものもあります。イノシシが里山に下りてきて悪さをしたり、木が倒れて埴輪が壊れたりするので原型をとどめないものもあります。
埴輪を並べている里山はもともとミカン畑が広がっていたのですが、農家が廃業してしまったので公民館で借りて使わせてもらっています。公民館は運営することができませんから、NPO法人を立ち上げて運営しています。埴輪を製作して並べるのは小学生ですが、里山の管理を普段からしているのは元公民館長さんです。埴輪を並べるにしても下草を刈らないといけないのですが、世話をしてくれている人も高齢になっていますし、後継者がいないことが現在の課題です。
全国でも、このような取組をしている山はおそらくほかにないと思います。このような取組が継続できている久米地区の特徴として、公民館組織がしっかりと機能しており、各町内会長さんが協力してくださるから運営できていると言えます。住民は徐々に若い方が転入してきて増えていますから、昔のようにはできないことも少なくありませんが、みんなが集まって取り組むという力が残っているのは、この地域の魅力だと思います。
毎朝、黄色い帽子をかぶって子どもの見守り活動ができているのも、やはり地域の支えがなければできていないことですから、公民館を中心に地域住民がつながっています。新しく地域に入ってきた若い方でも、こういった活動や地域の在り方に興味を持ってくれている人は少なからずいますし、自分の子どもたちが地域と関わる中で、自分達もいずれは地域を支える側にならなければいけないと感じている人は少なくありません。そういう良い循環ができていくと、地域としては心強いと思います。産業としての農業は廃れていっていると思いますが、地域そのものは力強いと思いますし、これからも続いていって欲しいと思います。」
ウ これからの農業
「今、退職されてから就農されている人は、年金を受け取りつつ、半分趣味のように農業をしているのだと思います。作物の種一つ買うにしても決して安くはありませんし、田んぼや畑を維持することが目的で作物を作っている人もいます。もちろん、自分自身の健康維持のためでもあるかもしれません。私(Bさん)は年齢的にも車の免許を返納しようかと考えていますが、車の運転ができなくなれば現在の農業を続けていくことはできませんので、80歳くらいで農業を続けるのも限界かなと考えています。
久米地区の農地が狭い土地の集合体であることは変わりませんから、米作りが減っていくということは目に見えています。これだけ状況や環境が変わってきているのだから、これまでの考え方を変えないと農業は難しいと思います。
近年、若い農家は、機械化されたビニールハウスで作物を作ることで付加価値の高いものを作るという農業に変わりつつあります。例えば、県が小さい土地を借り上げて大きな面積にして、法人のような組織を作って人を雇って運営するといった方法でもすれば、まだ可能性があるかもしれないと考えることもあります。
現在、久米地区の農業は一つにまとまっていると言うよりも、久米という地域の中で個々の農家が農業をしているという方が適当だと思います。専業農家はどんどんいなくなっていますし、居住地域は違うけれど久米に農業に来ている農家もいます。農業法人やNPO法人が休耕地を管理したり、農業機械を保有したりして、そこで農業をしている人もいます。今は個人で農業機械を導入しようと思うと、7町から8町(約7haから8ha)くらいの大規模な経営をしないと採算が取れないと思います。肥料一つとっても、従来ならばJAで購入すれば安上がりに済むはずだったのですが、今は安くありません。
これだけ社会や生活が変化してきているので、これからは農業をする人が、時代に合わせてどうしていくのが良いのか、産学官で連携し、新しい技術の開発や新しい事業の創出、新しい製品の開発を模索していく必要があるかと思います。」
写真2-2-1 現在も残るモノラック 松山市 令和6年12月撮影 |
写真2-2-2 貸農園の募集 松山市 令和6年12月撮影 |
写真2-2-3 使われなくなった農道 松山市 令和6年12月撮影 |
写真2-2-4 現在の末広農園 松山市 令和6年12月撮影 |