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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 石井の産業と人々のくらし

 松山平野のほぼ中央に位置する石井地区では、明治22年(1889年)に東石井、西石井、天山、星岡、朝生田、和泉、今在家、井門、南土居、北土居、越智、居相、古川の13か村が合併し、久米郡石井村が成立した後、明治30年(1897年)には温泉郡に所属する。昭和37年(1962年)、旧石井村は松山市に合併した。
 石井地区は、重信川と石手川の合流する地域に広がる沖積平野にあり、両河川の間には小野川や内川が流れている。古くから米麦作が中心であったこの地域では灌漑(かんがい)用水が必要不可欠であり、これらの河川に井堰(せき)や水門を設けて給水してきた。また、近世以降に掘削された伏流水を利用する自然泉に加えて、大正期以降には動力を使った汲(くみ)上泉も開発されてきた。
 石井地区における集落の形態は多様で、和泉、星岡、天山などの水田地帯を背景とする塊村(かいそん)、居相、東石井、北土居などの椿神社の参道や土佐街道(現国道33号)に沿って発達した街村、また、今在家北、朝生田西組、古川の水安、西石井など比較的新しく開拓された地域には散村が見られる。
 松山市との合併後、急速な市街地の拡大に伴い、旧石井村の時代に大きな変動が見られなかった戸数と人口は激増の一途をたどる。昭和37年(1962年)の合併時に1,815戸8,302人であった石井地区は、昭和50年(1975年)には8,868戸28,739人、平成2年(1990年)には17,145戸51,348人、平成18年(2006年)には22,995戸57,403人にまで増加し、市内でも最も人口増加の著しい地域となっている。
増加の背景には、農村地帯であった石井地区が松山市のベッドタウンへと変化したことがある。また、自家用車の普及とともに昭和40年(1965年)には伊予鉄道森松線が廃線となり、その跡地は昭和48年(1973年)に国道33号の拡幅に利用された。それに伴い、農地と農家が激減し、大小の店舗や事業所が進出していった。
 本節では、石井地区の農業とくらしについて、Aさん(昭和7年生まれ)、Bさん(昭和13年生まれ)、Cさん(昭和28年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。