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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 海運業と人々のくらし

(1) 内航海運のあゆみと問題点

 ア 船腹調整

 「船腹生産の過当競争を防ぐために、内航海運業法と内航海運組合法の内航二法が昭和39年(1964年)に成立して船腹調整を始めた、昭和40年代に内航海運の歴史は始まったようなものです。その善しあしは別にして、そこから新しい形の内航海運の業界が成立して、現在の姿になっています。船腹調整は50年以上も続きましたが、今年(令和3年〔2021年〕)8月に終わりました。長期間、内航海運業界を守ってきましたが、『果たして本当に守ったことになったのだろうか』、『刺激を与えず、逆に業界の発展を阻害したのではないか』と反省の声も出ています。
 船腹調整は、『新しい船を造ろう(ビルド)と思ったら、代わりに船を廃棄しなさい(スクラップ)』というスクラップアンドビルド方式です。自分の船を新しい船に造り替えようとする場合、それまでの船を廃棄して造りますが、船を1隻余分に増やそうとする場合、まず他所から古い船を買ってきてそれを廃棄しなくてはなりません。船主を辞めて海外に売船した人は、船が日本籍を離れても、書面上で船の所有権が残ります。その所有権が営業権という投機対象となって高騰し、政府も対策に乗り出して船腹調整を廃止することにしました。いきなり廃止すると混乱するので、平成10年(1998年)から暫定措置事業として、船主を辞める人の営業権を日本内航海運組合総連合会(以下「内航総連合会」と記す。)が買い入れ、船を造る人は建造納付金を内航総連合会に金納することにして、相場で決まらない制度にしたのです。営業権の買い入れに必要な資金は、内航総連合会が金融機関から調達して建造納付金で返却していき、借り入れがゼロになったら暫定措置事業は終わることになっていましたが、今年8月で終わりました。
 これからは自由建造になり、それがどういう展開をしていくのか、私(Cさん)は大変興味があります。一方で、現在の内航海運業界はあまりにも船員不足で運賃も安いため、新たに内航海運業界に入ってくるところがあるのかという思いもあります。また、船腹調整をしている間、船を造る人は地域の船舶組合に必ず入り、組合長の認可を取るというのが、内航海運組合法で定められた建造条件の一つでした。これからは自由競争でその必要がなくなったため、今後どういう組合活動にしていくかが重要で、これから議論していく段階です。今までは組合に入っていないと船ができないため、組合に加入して組合費を払っていましたが、メリットがないのなら誰も組合に加入しません。『何をしてくれるのか分からない組織に金など払えない』ということで、全会員が組合に残るというのはあり得ないのではないかと思います。現在、内航海運の業界は大きな過渡期に入っています。」

 イ 船員不足問題

 「現在、内航船は船員不足が大きな問題となっていますが、20年ほど前から問題になっていました。その間、カンフル注射のようなことが2回あり、何とか持ちこたえてきたのです。まず東北の漁船が不況になって、漁船船員が内航船へ流れてきました。次に外航船が便宜置籍船(船籍を外国に置いて登録した船)を取り入れ、外航船に乗っていた日本人船員があふれて内航船へ流れてきました。しかし、現在の船員不足は本当に手の打ちようがないと私(Cさん)は思います。これをどうするのかが、業界としては一番の課題です。
 一部の人たちは『船員不足であれば、外国人を乗せたらいいのではないか。』と言いますが、昔からカボタージュという自国船主義がどこの国でも行われています。安定輸送や安全保障の観点から内航海運は自国籍の船で行うという原則で、自国籍の船には外国人を乗せないのです。それだけは守らなければいけないというのが業界の総論ですが、崩れそうになっています。内航船もこれからは外航船と一緒です。外航船はパナマなどの外国籍にして外国人を乗せる便宜置籍船という手法をとり、労務費を安くしてきたので、成り立ってきた世界です。それがなかったら、内航船と似たようなことになっていたかもしれません。一方で、外国人を乗せることによるいろいろなマイナス面が考えられ、そもそも外国人も、外航船に比べて労務管理のあまり良くない小さな内航船には乗りたくないと考えるかもしれません。制度的に外国人を乗せることが可能になっても、外国人が内航船に乗ってくれるかどうかは分かりません。」

 ウ 一杯船主

 「内航海運業界では、船主のうち60%から70%くらいが1隻だけ船を持っているいわゆる一杯船主です。そのため、政府は集約、合併させようとしていますが、船主側が乗り気ではありません。具体的には、船主の事業を集約して、運航管理や船員管理、営業活動を行う船舶管理会社の設置を進めようとしています。しかし、『現状よりも利益が出るのか』、『自分の大事な船を他人に管理されて事故でも起きたらどうなるか』といった不安が船主にはあり、私(Cさん)もその不安はよく理解できます。そういった不安から、なかなか集約・合併は進んでいません。」

(2) 船主として

 ア 内航海運業界に入る

 「子どものころ、私(Cさん)は父の経営する海運会社に興味がなくて、継ぐつもりはありませんでした。父も自分の代で辞める気で会社の整理をしていて、船を1隻だけ残していました。なお、私の世代から、波方船主の息子の中からも大学に進学する人が出てきました。それまでの世代は、中学校を卒業すると、すぐに船に乗っていました。また、私の世代から船主が船に乗らなくなっていったと思います。内航二法が成立したころ、この辺りでは波方船舶協同組合、波止浜船舶協同組合、今治船舶組合の三つの船主の組合があり、私の父は波止浜船舶協同組合で理事長をしていました。
 私は昭和52年(1977年)、37歳のときにそれまで勤めていた会社を円満退社し、内航海運業界に入りましたが、何も分かりませんでした。しかし、およそ3年後に父が倒れてしまったので、早くからこの世界に入りました。父が倒れると、しばらくして波止浜船舶協同組合の理事長に就任しました。波止浜船舶協同組合は途中で解散して今治船舶組合と合併し、その理事長も務めました。また、波方、今治、伯方島、菊間の船舶組合を集めた連合組合である今治地区海運組合の理事長も務めました。
 全国の内航海運の組合は五つあり、さらにそれらを統合する内航総連合会があります。私の会社は五つの組合のうち、全国内航タンカー海運組合の所属です。私は内航海運業界に入って間もないにもかかわらず、その全国組合の役員として組合活動をやらざるを得ない立場になりました。内航海運業界で愛媛船主は立場が強く、全国内航タンカー海運組合の四国支部は松山市にあり、ほとんどが愛媛船主です。全国組合の会合に参加すると、政策検討をするときに愛媛船主の立場が尊重され、『愛媛の人はどう思いますか。』と先に問われます。内航海運業界の経験が浅い若手の私でも、『あなたはどう思いますか。』と私の意見が尊重されるような雰囲気がありました。」

 イ 波方ターミナルの誘致

 「内航海運業界に入って間もなく、波方ターミナルの誘致にも関わりました。地元9社の造船会社が共同出資して設立した東予ドックの経営が立ち行かなくなりました。共同出資している複数の造船会社の社長や県議会議員から依頼され、私(Cさん)の父が東予ドックの社長を引き受けましたが、厳しい経営状況が続きました。そこで別の用途へ転換できないかと考えたところ、三菱商事が上関(かみのせき)(山口県)で造る予定のLPG基地が頓挫したため、代替地を探していたのです。話がまとまって売買契約に入るころ、父が倒れてしまいました。それでも、契約に至るまでの段取りの全てに父と一緒に立ち会った私と、当初から一緒に動いていた当時の波方町長が残っていたため、無事に契約が成立しました。
 37歳で内航海運業界に入り、40代になったころに、会社経営、業界活動や波方ターミナル誘致など何もかもが全て一緒になりました。東京にも月に2、3回は行っており、3回のうち2回は日帰りで、1回は1泊していました。いわば公職と自分の会社の同時進行のような形になりましたが、持ち前の正義感とバランス感覚のようなもので、頑張ってきた感じがします。それに加えて、農協の理事もすることになりました。そのように、私の40代は忙しかったですが、今になって考えるとよくしていたと思います。」

 ウ 船員管理を行う

 「私(Cさん)は内航船主として、自分の船員を手塩にかけて育ててきました。毎朝、船長に電話をして、『今日の船員の様子はどうか。』と確かめていました。地元のドックで船を修繕するために船が戻ってきたときには、船員に『家族を呼びなさい。』と声を掛け、家族を含めた親睦会を行いました。親睦会には、全ての船員ではありませんでしたが、何人かの船員は家族を呼んでいました。家族を呼べるかどうかで、船員の家庭が円満かどうかを確認していたのです。また船員が船で出ているときでも、船員の家族と一緒に食事会をすることもありました。そのようにして船員の家族と上手に付き合うことは、船員本人に対して行うよりも、ある意味で船員管理にプラスになります。船員の家族がこちらを信用してくれたら、例えば退職したいという船員の妻が『お父さん、辞めないで。』などと夫に声を掛けてくれるのです。船員の家族を大事にするという、細やかな気配りで船員の労務管理をしてきました。そのような細かな気配りは、船を5、6隻も所有する海運会社だと難しいですが、私の会社は2隻だったため可能でした。
 船長からの連絡は定時ではなかったのですが、毎日『次の行き先はどこそこに決まりました。』などと電話が掛かってきました。なお、私の会社で船舶電話を導入したころは、まず交換手に『どこそこ何番の船につないでください。』と伝え、そこを経由して船につながっていたため時間がかかっていましたが、しばらくしてから自動交換方式になり、船に直接つながるようになりました。現在は通話だけでなく、写真も送ることができるようになり便利になりました。以前は『どこそこの部品が故障している。』と電話で話されてもすぐに分からないことがありましたが、現在は『この部分がこのようになっています』と写真付きで送られてくるため、分かりやすくなっています。
 船長からの電話の内容で、一つでも不安要素があると、私は心配で居ても立ってもいられなくなり、訪船していました。内航海運業界は船主の訪船活動を大事にしていて、安全管理の面からも積極的に訪船するように指導しています。オペレーターが言う訪船活動は、船員に対して細かな決まり事を指導するということですが、私は指導ではなく、船員と接触の時間を持つことだと思います。そうすることで、船員は多少労働条件が悪くても、『この船主の言うことなら付いて行こう』となるのです。私は、どの会合に参加しても、『事故を起こさない秘訣(ひけつ)は何か。』と聞かれると、『それは船内の船員の和です。』と答えていましたが、誰が考えてもそれが一番だと思います。」

 エ ISMコードの問題

 「内航タンカーがISMコード(国際安全管理コード。人的要因に係るソフト面での安全対策を充実・強化することにより、船舶の安全運航を実現しようとするもの)を採用して、人災をなくすためにチェックリストを作らなければならなくなりました。もともとは外航船の10万t、20万tクラスのタンカーで導入されていたものを、そのまま内航船の600t、900tクラスが主流のタンカー全船に導入したのですが、無理があったと思います。船主は、もともと船員管理に気を遣っているにもかかわらず、『パソコンのチェックリストで確認しなさい』とされると、そちらに気を取られ、ある意味で船員管理が低下します。私(Cさん)はある会で、『事故が増えた原因はISMコードを採用したことだ。』と発言したところ、『ISMコードを否定する馬鹿な船主がいる。』と言われてしまいました。そもそも船員不足が問題であるため、チェックリストを作っても、船員は手が回らず面倒だと考えて、1週間分まとめて架空のチェックを行うような事態になります。船員は『命に関わるため事故を起こしてはいけない』という本能があるため、チェックリストがなくても、必ず身体に仕込まれた安全確認をするのです。ISMコードが導入されてチェックリストで確認するようになって、座礁などの新聞記事になるような大きな事故ではなくても、バルブ操作を間違えたといった小さな事故が、逆に大変多くなったと思います。」

 オ 船員不足対策に取り組む

 「私(Cさん)は全国組合の役員をしていたとき、真剣に船員不足対策に取り組みました。船員不足を広く訴えようと、費用を抑えるために関東版だけでしたが、日本経済新聞に意見広告も出しました。その後、東京の砂防会館で決起大会を開き、国会議員も12名ほど出席してくれました。ただし、今治地区の船会社は経営体質が強く、特に波方船主は他所の船主より資金力があり、他所より高い給料で船員をスカウトできるため、『それほど心配するな』という感じで、あまり協力的ではないこともありました。
 船員対策として、船員の人件費を確保するために、荷主側に運賃の値上げを求めました。当時よく言われていたのが、業界内の温度差です。船主側が『運賃を上げてください。』といくら要求しても、『船が動いているということは、経営として成り立っているということだから、協力できない。』という回答が返ってきます。船主側が『貧乏船主だ。船主経済が大変だ。』といくら説明しても、『船が止まるのなら考える。明日にでも船を止めてみなさい。』と言います。この基本的な食い違いは、永久に解決されないかもしれません。また、船主側は管理する国土交通省から安全運航を求められ、そのためのコストが次々とかさんでいきます。一方、荷主側は『1円でもコストを抑えたい』と考えています。賃上げはその会社の利益に食い込むことになるため、荷主側で運輸部を担当する役員は、『船が動いている以上は絶対に運賃を上げたくない。自分が役員の間は運賃を上げたくない』という心理になります。そういうやり取りを公の場ではしませんが、荷主側の役員と酒を飲むような場で本音を聞くことがありました。そのような経緯で『それならば船を止めるしかない』ということになり、私はストライキを実行するつもりはなかったのですが、抵抗手段としてスト権の集約をすることになりました。各船主は総論賛成という感じで、皆さん諸手を上げて賛成してくれました。しかし、いざストライキの同意書を作って判子(はんこ)を押すという段階になると、『判子を押したことが東京の荷主にばれると困る』と躊躇(ちゅうちょ)する船主が次々と出てきたため、ストライキは失敗に終わりました。
 そのころ、私が内航タンカー業界のトップリーダーになる話がありました。全国内航タンカー海運組合四国支部長は全国内航タンカー海運組合の副会長であり、船主部会の会長となります。つまり、業界のトップリーダーになるわけですが、『次はあなたがしてください。』と言われていたのです。しかし、組合の役員として、自分のできる限りの取り組みをしてストライキが失敗したため、『トップになって何ができるのか。できることは何もないのではないか』という思いがあり、引き留められましたが、その話を受けずに船主も辞めることにしました。船主をしている以上、金銭面や船舶事故、船員と三つほど心配事があり、人に任せても心配事は残るため、『この業界は65歳になったら辞めよう』という思いもあったので、ストライキの失敗を契機に船主を辞めることにしたのです。それまで会社は船主業と代理店業をしていましたが、代理店部門だけ残して船主業を辞めました。
 なお、私が船主を辞めるころに、あるオペレーターの社長が後継者の息子に、『お父さんが一番怖かった船主のCさんだ。』と私を紹介しましたが、私は誉め言葉だと受け止めました。私はオペレーターに対して温厚に接してきましたが、私が取り組んできた一つ一つのことに対して、そのオペレーターは『四国の船主は、次に何をするのだろうか』というある種の恐怖心を持っていたことを表現した言葉で、私の取り組みが評価されたのだと思います。」

 カ 船主を辞めて

 「船主を辞めてから、精神的にものすごく解放されました。代理店業だけになる前後で、やっていることにあまり変わりはありません。私(Cさん)は以前から地域との関わりを密にしていて、仕事と並行して、波方公民館長や文化協会の会長を務めていました。船主を辞めてからは地域活動を重視し、ライフワークとして来島保存顕彰会を始めて20年になります。また14、15年間、韓国との文化交流も行い、そういう意味で充実感がありました。波方船主、特に外航船の船主は、『自分たちは世界を相手に仕事をしている』と地域にあまり関わらないことが多く、私は波方では珍しい立場だと思います。」

 キ 外航船の三角関係

 「外航船は以前から自由建造で、信用と資金さえあれば船はいくらでもできるという環境です。海運会社は日本郵船、大阪商船三井、川崎汽船の大手3社に集約されましたが、大手3社、特に日本郵船は基本的に運航する船を自社で造っていました。すると、なかなか借り入れや支払いができなくなり、有利子負債を抱えて赤字で四苦八苦していました。しかし、愛媛船主に船を造る話を持って行くと、すぐに銀行が融資をしてくれて、造船所で船ができるという話が広まり、とにかく船のビジネス企画があったら愛媛県に持ってくるという流れになりました。愛媛船主の元に、東京から大手海運会社の営業が企画書を持ってきて、そろばんをはじいて儲(もう)かりそうだとなると、『この企画を蹴ると、ライバル船主の元に行ってしまう』と企画を引き受けるのです。そのため大手船主5社ほどは、どの船主も100隻近く所有しています。大きな船では1隻が100億円、200億円にもなるため、銀行は大きな貸し付けができます。また、大手海運会社の企画で信用があり、なおかつ船が担保になります。そのような魅力があるため、銀行間で貸し付け競争が起こりました。今治地区の大手船主5社から10社ぐらいに無条件で貸し付け、金利は銀行ではなく相手の入札のようなもので決まり、プライムレートよりずっと安い金利で貸し付けるようになったのです。船主、銀行、オペレーターのいずれにとってもメリットのある三角関係ができました。どこを探しても、このようなメリットのあるビジネスはないと私(Cさん)は思います。
 銀行は内航船にあまり興味がありません。外航船は1隻造る場合、100%銀行で資金を調達して造りますが、内航船の場合は、公庫などの融資制度で資金を7割ほど調達して、残りを自己資金で賄い、不足分を銀行から調達するため、銀行としては魅力が少ないのです。外航船が多い今治地区は、銀行にとって特色のある、大きな魅力がある地区です。普通ならば1億円を貸し付けるには大変な努力がいるわけですが、今治地区では何十億円単位で貸し付けることができます。
 こうした外航船の歴史というのは、ほんの20年ほどです。外航船では1年に船を5隻も6隻も造るようになり、私は『そんな馬鹿な』と思っていましたが、今はそれが当たり前になりました。」

 ク 波方船主の特徴

 「現在の銀行と波方船主の関係は良好ですが、過去には、船主が金を払えない、金利も払えないという時期が何回かありました。現役の船会社の社長でしたら、2回くらい経験していると思います。ただし、10億円や20億円でしたら銀行は担保を差し押さえに来て、その結果船会社は倒産しますが、100億円や200億円、ましてや1,000億円でしたら、絶対に銀行は担保を差し押さえに来ません。このような経験から、波方船主は『借り入れが増えたとしても、倒産しない』という度胸があります。
 波方船主の特徴というのは、船にしか関わらないことです。どんなに儲けている時期があっても、船を増やすこと、船会社を大きくすることが理念であって、他の産業に手を出すことは一切しません。一方、ほかの産業で儲けている企業が、船が儲かると手を出すことがあります。その場合、今まで何社も倒産しています。船でできた負債によって、本来優良であった本体企業の分を取られるのです。さらに波方船主は贅沢(ぜいたく)をしません。たとえ所有船が100隻になったとしても、1隻の船主と生活の違いはありません。数年前までは、どの船会社も、事務所は自宅を兼ねた小さな建物で、どの会社の事務所か分からないような感じでした。最近では、大手船主は膨大な船舶管理が必要となったため、従来の事務所では間に合わなくなり、外へ出て大きな事務所を構えています。
 波方で歴史のある何代も続く船会社は、『隣が船を造ったら、自分も造る』とか『あそこが1,000tの船を造るのならば2,000tの船を造る』という心理を持っています。ある船会社の社長は、とにかく隻数にこだわり、『100隻造る。』と言って100隻をオーバーしたら、『それでは200隻造る。』と言っていました。また、ある大手の船主は『よくよく考えてみると、なぜこんなに船を造っているのだろうと思うことがあります。』とも言っていました。なぜそこまで船を造るのか、私(Cさん)はよく分からず、『妙なことだな』と思っていましたが、『もしかすると、来島村上海賊のDNAがそうさせるのではないか』と考えるようになりました。現在の今治市が海事都市となっているのは、来島村上海賊のDNAが、500年の歴史を経て花開いているのだと思います。この考えを周囲の人に話すと、ほとんどの人が納得してくれました。これが私の来島保存顕彰会の最大顕彰効果と自負しています。」

(3) 船乗りとして

 ア 子どものころの記憶

 「私(Dさん)が子どものころ、年末になると150隻くらいの船が、正月を迎えるために波方の港に帰ってきました。次々と港へ船をつないでいき、港へ入り切らない船は沖で錨(いかり)を下ろしていました。どの船も、漁船の大漁旗のような、自分の船名を書いた幟(のぼり)を掲げていたので、波方港がにぎやかになっていたことを憶えています。正月の間、先に帰り奥につないだ船は、後から帰ってきた船が錨を上げないと絡んでしまうため、船が出るとなったらなかなか大変でした。
 波方では早くから、船の購入時に資金面で助け合う無尽が行われていました。父が中古の機帆船を購入する際、無尽を利用するとともに、母が一生懸命に金策をしていた記憶があります。当時、波方では中古船を乗り換えていくことが多く、新造船を購入することは夢のまた夢でした。船に乗り続けると、少しでも良い船が欲しくなるもので、『中古の良い船が出ているよ。』という話を聞くと、そちらに乗り換えるという感じでした。
 昭和34、35年(1959、60年)ころ、当時、中学生だった私が、初めて鋼船を見たときのことをよく憶えています。波方の人が中古の貨客船をどこかから買ってきて、波方の沖に停泊させていました。私たちは皆、『鉄船がいるぞ』と驚いて、沖に行って近くで見ることにしました。当時、波方の港にはどこかの船が帰っていたので、伝馬船が必ずあり、沖に行く際によく借りていました。友人と何人かで伝馬船に乗って沖へ行き、その鋼鉄の貨客船を初めて間近で見たときに、機帆船と全く違っていて大変驚きました。すると『上がってきなさい。』と船内に案内されました。機帆船の場合、剝(む)き出しの排気用パイプがエンジン室から上がって煙突になっているのですが、その船は、パイプを囲んだ化粧煙突で、私は化粧煙突だとは思わず、『やはり鉄の船は煙突が大きいなあ』と思いました。ところが、エンジン室に行くと『あれ、煙突が小さいぞ。あれは飾りなのか』と驚いたことを憶えています。」

 イ 船に乗る

 「私(Dさん)たちよりも前の世代では、波方の船乗りの息子は中学校を卒業したら船に乗るのが当たり前でしたが、私たちのころは高校を卒業してから船に乗るという人が多かったです。私が高校を卒業するころ、親が強い圧力をかけていたわけではないですが、『父親が船に乗って頑張っているのに、放っておけない』と、ほとんどの人が何の抵抗もなく『家業を継ぐ』という思いを持っていたと思います。私の同年代の人も、多くの人が船に乗りましたが、最近の若者は乗らなくなっています。また、昔は船主船長といって、船主が船長でしたが、規模が大きくなるにつれて船主が船に乗らなくなりました。
 船に乗り始めると、初めは何もできないため、飯炊きから始めて、次にエンジン室に入ります。昔は焼き玉エンジンで、1時間に1回くらいは油差しをする必要があり、エンジン室で油まみれになりながら仕事をしました。私もそのような実務経験を積みました。当時、波方は船の数が多かったですが、大きさでいうと、そんなに立派な船はなかったです。そのころから、大手商社の所有するような立派で大きな船では、船長が制服を着て、帽子をかぶっていました。一方、機帆船の船長は、腹巻きと鉢巻きをしてという感じでした。港に入り、立派な船の船員が制服姿で活動しているのを見て、『あれは格好いいなあ』と思ったことを憶えています。」

 ウ 資格を取る

 「波方では、後継者である息子たちの資格取得のために、講師を泊まり込みで招いての講習が、4月から5月にかけての2か月間行われていて、私(Dさん)も受講しました。波方では、ちょうどその時期は祭りの時期でしたが、『講習を受けている人間は、神輿(みこし)を担がずに勉強しなさい。』と言われていました。講習では、日曜日以外の毎日、波方公民館の2階の部屋に、実務経験を積んだ資格取得希望者が何十人も集まっていました。講師が波方に泊まっているため、分からない箇所があると、宿泊先に教えてもらいに行くこともあり、私はその講習期間は本当によく勉強したと思います。2か月の講習後、試験官が呉(くれ)(広島県)から出張でやって来て、筆記と口述の試験が行われ、合格すると資格を取得できました。
 私は乙種一等航海士の資格を取得しましたが、なかなか自分で責任を持って操船することができませんでした。自動車に乗っている初心者みたいなもので、最初は戸惑います。徐々に経験を積んで、岸壁に着けるテクニックが上達して操船に自信がついてきました。また、オペレーターにもらった海図を見ながら知らない港に入っていったり、ラジオの気象情報を聞きながら自分で天気図を完成させたりすることで、船に乗ることが面白くなって、自信もついてきました。最初は機帆船、その後、中古の鋼船に乗っていましたが、昭和46年(1971年)9月に当時としては大きな載貨重量約1,600tの新造船を購入しました。大変愛着があって、錆(さび)が出たらサンダーで削ってペンキを塗るなど、一生懸命に手入れをしました。」

 エ 船乗りを辞める

 「昭和48年(1973年)5月、経営上の判断で、私(Dさん)は船乗りを辞めることになりました。新造船を購入したころから、用船料が大きく下落していったのです。当時、採算ベースが1か月450万円くらいでしたが、200万円から250万円くらいになりました。自分のところだけではなく、ほかの船会社もそうだったと思います。船に乗っている現場の人間は、経営状態のことを知らずに頑張っていましたが、陸(おか)では『このままでは続けていけない』と売船の話が進んでいたのです。あるとき、陸から船に電話が掛かってきて『船を売ろう。』と告げられたときはがく然としました。しかし、売船をしたことにより、現在があり人生の大きな転機になりました。購入した新造船は、結局2年間で手放すことになりました。手放したときには購入時よりもきれいになったような状態で、新しい購入者は喜んだのではないかと思います。手放したときは、非常につらくて寂しかったです。現在、私の家は海が見渡せる場にあり、海を見ていると、船の往来により風景が常に違います。『ああ、いいなあ』と今でも船に乗りたい気分になることがあります。
 昭和48年から49年(1974年)にかけて、オイルショックで『トイレットペーパーがない』と騒動になりましたが、そのころには陸に上がっていました。49年4月くらいに用船料がいきなり値上がりし、『もう少し頑張っていたら』と感じたことを憶えていますが、それくらい海運業界は浮き沈みのある世界です。」

 オ 汚染されていた港

 「私(Dさん)が船に乗り始めたころ、どこの港も汚染されていました。船が出港するときに岸壁からロープを離しますが、海へ浸(つ)かったロープを引き上げると、油だらけになっていました。そのため、船を走らせながらロープを引っ張って、海水で洗うような感じにしなかったら引き上げられませんでした。北九州(きたきゅうしゅう)(福岡県)の洞海湾は入り組んでいて、湾の奥の辺りは特に汚染がひどかったと記憶しています。当時、若松で飲み屋へ行った際、『昔は洞海湾で海水浴をしていた。』と話を聞いて、『それほど急激に汚染が進んだのか』と驚いたことがありました。
 昭和48年(1973年)に船乗りを辞めるころには、環境規制が始まったことで水質が改善されてきて、港に魚が見えるようになったことを憶えています。港が汚染されていた原因の一つに、昔は平気で海へ油を落としていたことがあります。船内には多少海水が入りますが、特に機帆船の場合、12時間に1回は手押しポンプで排水しないと、船のエンジンが海水で浸かるくらいでした。船内に入った海水を海に捨てることを『淦(あか)(船底にたまった水)かえ』と言います。淦かえをしていくと、最後には油が出てきます。昔のエンジンは油がたくさん漏れていて、その油も全部捨てていたことが港が汚染される原因の一つだったと思います。」

 カ 各地へ積荷を運ぶ

 「私(Dさん)が船に乗り始めたころ、若松で石炭を積んで、大阪方面へ機帆船で運んでいました。波方から若松まで、今でしたら8時間くらいですが、当時は15、16時間くらいかかっていたと思います。私が船に乗るよりも前の時代には、石炭の積み込みに時間がかかるため、若松には波方の船が何隻も停泊していたそうです。炭鉱が次々と閉鎖されていくと、積荷は石炭から鋼材へ替わり、製鉄所のある港へよく行くようになりました。
 昭和47年(1972年)ころ、長崎県の五島列島から日立(ひたち)(茨城県)へ干しイモを運んだことがあります。当時、五島列島の港には荷物の積み下ろしの設備がなかったため、干しイモを積むのに3日くらいかかりましたが、日立では設備があったため荷上げが速かったです。そのとき、空船になって日立で積んだのが、福井県で建設中の原子力発電所のプラントでした。福井県の港に到着すると、造成がだいたいできていたのを憶えています。東日本大震災後、原子力発電所が問題になると思い出します。
 日立に行くことはめったになかったですが、同じ茨城県でも住友金属のある鹿島(かしま)(現鹿嶋市)にはよく行きました。太平洋側の港というのは思ったより波があり、特に夏は入港が大変で、鹿島もそうでした。ほかにも新日本製鉄の製鉄所がある釜石(かまいし)(岩手県)や姫路(ひめじ)(兵庫県)にもよく行きました。昭和43年(1968年)ころ、君津(きみつ)(千葉県)に初めて行ったとき、八幡に比べて、新設された君津の製鉄所の規模の大きさに大変驚いたことを憶えています。
 八幡に向かう際、本来ならば直行しなければならないところ、波方に寄ってから向かうことがありました。八幡には夜間は入港できず、朝、入港信号が山の頂上に上がると、沖に停泊している船が一斉に入港します。北海道や千葉県などで仕事が多く、波方になかなか帰れず、家族に会えないのですが、朝の入港時間に間に合えばよいため、波方に寄港し、少しの時間ですが家族とひとときを過ごすことは大きな喜びでした。入港信号が上がる前に港外に到着できるように余裕をもって波方を出港していました。現在ではオペレーターが許してくれないのではと思います。」

 キ 給油での失敗

 「1度だけ東京で燃料の補給をしたことがありますが、大変なことになりました。燃料補給の際、船長は特に用事はないので、私(Dさん)は近くに接岸していた知り合いの船を訪れていました。当時の船には両舷に燃料タンクがあり、A重油、B重油が入っていました。A重油は入出港時、B重油は航海中に使用していました。A重油ではエンジンが軽快に動き、B重油は粘度が高く、加熱が必要な燃料です。B重油の方が安価なので、そのような使い方をしていました。私が船を離れている間に燃料補給が行われましたが、一方のタンクが満タンになり、切り替えてもう一方のタンクに補給する際、両方のタンクともバルブを閉めた状態で補給してしまったのです。私が船に戻ってくると、ブリッジの前が油まみれになっていました。漏れたのがA重油だったことと、すぐに流出油処理剤を散布したり、オイルフェンスで囲ったりしたことで幸い大事に至らず、『何とか無事に済んで良かった』と、安堵したのを今でもよく憶えています。」

 ク 船員をまとめる

 「20代前半で船長になりましたが、船員が全員自分より年上で、私(Dさん)は少しつらかったです。船員を集めようとした場合、優秀な人が集まる船には、さらに優秀な人が集まります。一方で、だらしない人が1人入ってくると、悪い方に引っ張られてしまい、船の中の雰囲気が変わります。1度だけ航海中に船員を怒ったことがあります。燃料補給をした際、業者からビールを1箱もらったことがありました。それをエンジン担当の船員が『自分たちにもらう権利がある』と、航海中に勝手にエンジン室から上がって、機関長の部屋に集まって飲んでいたことがありました。『航海中に何をしている。しかも、もらった酒はみんなのものだろう。』と怒ったのです。
 今では船員は少数精鋭となり、そのような船員はいないと思います。昔は1隻の船員が15人くらいでしたが、私のころは8人くらいで、今は6、7人になっています。船員が減った大きな理由は、船が改良されて荷物の積み下ろしに人手が必要でなくなったためです。例えば、積荷が鉄材の場合、少しでも海水をかぶると、全部錆(さ)びてしまいます。そうならないようにするため、昔の船ではきちんとシートを掛ける必要があり、多くの人手が要りましたが、その必要がなくなったのです。人件費が経営を圧迫するため、船の性能が良くなり人手は減っていったのですが、現在の内航船では、船員の高齢化が進んで若手が少なくなり、船員不足が問題になっています。」

 ケ 船の性能の向上

 「私(Dさん)が船乗りを辞めたころに、『新しい船ができているから見に来ませんか。』と言われ来島どっくに見に行くと、最新の設備に大変驚かされました。まず、北緯何度東経何度といった自分の船位が分かりました。さらに、目的地を指示すると自動で向かっていくのです。今の船は、性能が良くなって操船が楽になり、居住スペースも快適で、船員同士の関係が良ければ、本当に居心地が良いと思います。
 私の船にも自動操舵(そうだ)はありましたが、真っすぐ進路を保つことしかできませんでした。ちなみに、その真っすぐ進む自動操舵が普及し始めたころ、ほかの船への注意を怠ることが増えたためか、瀬戸内海でも事故がよくあったと思います。船が少ない海域では、自動操舵が大いに役立ちます。当時、日本海側は船があまり多くありませんでした。当時の船に搭載しているレーダーでは最大で40海里(約74㎞)くらい先まで分かりましたが、当時の船の速度はおよそ10ノット(約18.5㎞/h)だったため、40海里先が分かるということは約4時間先が分かるということです。レーダーの電波を強くして『船が1隻もない』と確認できたら眠れるくらいでした。特に夏場の日本海はベタ凪(なぎ)で、島が見えず景色がほとんど変わらないので、退屈でしたが湖を走っているようなものでした。台風や時化(しけ)がなくてベタ凪の状態でしたら、船乗りほど楽な仕事はないなと思いました。」

 コ 事故

 「船ではとにかく事故を起こさないことが一番です。私(Dさん)は船に乗っていたときに、1度だけ高松(たかまつ)(香川県)の沖で他船と接触したことがあります。幸い両船とも無事で、大きな事故にはなりませんでしたが、大変驚いたことを憶えています。船舶の事故の原因の一つに過積載があります。昔は収入を増やすため、無理をして驚くほどの荷物を積む船も少なくありませんでした。荷物を多く積むと、それだけ船の浮力が少なくなります。1,500tの荷物を積むことができる船に1,000tの荷物を積む場合、まだ500t分の余力が残っていますが、1,000tの荷物を積むことができる船に1,100tの荷物を積むと、少し潮をかぶっただけで転覆してしまいます。実際に、過積載の船が転覆し、船員が行方不明になったことがありました。また、時化ている際に、『ほかの船は走っていないのに、自分の船は走ってきた』と、そのようなことが自慢になっていました。今は天気が早めに分かるため、そのような無理はしていないと思います。」

 サ 台風に遭遇する

 「台風が近づいてくると、港に避難しなければいけません。たとえ、港に避難して錨を下ろしても安全だとは限りません。潮岬の近くの串本(くしもと)(和歌山県)で私(Dさん)は怖い思いをしたことがあります。台風が近づいていたため、串本に避難をしました。多くの船が港に避難していましたが、前に錨泊していた船の錨が引けて、私の船に近づいてきたのです。錨鎖を一杯に伸ばして、動けない状況になり、警笛を鳴らしてその船に注意を促しましたが、そのときはぞっとしました。
時化や台風の際には、チェーンロッカー(錨鎖庫)の中で、錨をつないだ鎖が崩れて絡まることもありますが、なかなか気づけません。錨を下ろそうとしたら、『チェーンが出ないぞ。』と言うのでチェーンロッカーに行くと鎖が絡まっていて、それを直しながら海に落としたこともありました。また、強風で船の前方から次々と波が来ると、船首が波に突っ込む形になり、海水が乗り上げます。すると、鎖を下ろす穴からチェーンロッカーに向いて海水が入って、知らないうちにチェーンロッカーが海水で一杯になり、船倉へ海水が流れることもあります。私も1度だけ経験があり、驚いたことを憶えています。室蘭(むろらん)(北海道)で線材を積み大阪に向け航行中、冬の季節風が強くて御前崎(おまえざき)(静岡県)の港へ避難したところ、積荷の線材が濡(ぬ)れていました。最初は原因が分からなかったのですが、チェーンロッカーから漏れ出た海水だったのです。最近の船では鎖が出る穴に蓋をして海水の侵入を防ぐとともに、万一に備えてチェーンロッカーに排水ポンプを付けています。」

 シ 恐ろしい春一番

 「私(Dさん)が船に乗っているころ、春一番がいつ吹くのか予測できませんでした。現在は『春一番が吹きます。』と天気予報で前もって予測できます。当時は天気図を作成して気圧配置を確認しても、強い風が吹くとは予測できなかったのです。天気図を確認して、『低気圧はあるが問題ない』と船を走らせていると、突然吹いてくる感じでした。塩竈(しおがま)(宮城県)から東京湾へ航行中、春一番に巻き込まれて大変だったことがあります。夕方4時ころ、鹿島の沖辺りで天気図を作成した際は、『この気圧配置では問題ない』と思っていました。ところが、暗くなるにしたがって、南寄りの強い風が吹いてきて、ものすごい波になったのです。犬吠埼から南には避難する港がありません。勝浦(かつうら)(千葉県)の港があるものの、昼間は何とか入っていけますが、夜は危なくて入っていけませんでした。さらに荷物を積んでいたら良かったのですが、空船だったため、波で船首部分が立ち上がって、海水がぶち当たるウォーターハンマー状態になりました。立ち上がったまま、そのまま進むとさらに海水に当たるため、エンジンの回転を下げ速力を落とし、船の状態が水平に戻ったらエンジンの回転を上げ、船首が立ち上がったらエンジンの回転を下げる、そんなことを繰り返して野島埼(海図上の表記。国土地理院の地図上の表記は「野島崎」)を通過し、伊豆大島の近くの比較的波が落ち着いている所まで進みました。そこで進路を変えている最中に横から大きな波を受けないように、サーチライトで海面を照らして波の状態を確認しながらタイミングを見て、『よし行ける。回すぞ』と進路を北へ変えました。北向きに進路を変えると、後方から風や波を受けることになり、それまで何時間も苦労した状態が嘘(うそ)のように船が安定し、『ああ、良かった』とほっとしたことを思い出します。朝、君津の沖に停泊していると、夕べはいなかったはずの私の船に気がついた、波方の知り合いの船から電話が掛かってきました。『お前、どこにいた。』と言うので説明すると、『昨日帰ってきたのか。東京湾でも大変だったのに。』と驚いていました。『大変だったな。よく帰ってきた。』と言うので、『おう、死ぬ目に会った。』と冗談で答えました。当時、春一番での事故は珍しくなかったような記憶があります。」


参考文献
・ 大西町『大西町誌』1977
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)』1986
・ 波方町『波方町百年-町政施行三十周年記念誌-』1990
・ 愛媛県生涯学習センター『臨海都市圏の生活文化』1995
・ 波方船舶協同組合『波方海運史』1997
・ いよぎん地域経済研究センター『調査月報 IRC Monthly №217』2006
・ 今治市ホームページ『今治を支える産業』(https://www.city.imabari.ehime.jp/kaiji/sangyo/)