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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 造船業と人々のくらし

(1) 来島どっく時代

 ア 来島どっく進出前

 「来島どっく大西工場ができる前、旧大西町では働く所が少なく、長男は農家の跡を継ぎますが、次男、三男は外へ働きに出なければなりませんでした。現在の大西中学校の北側には若狭団地や新来島どっくの駐車場がありますが、私(Bさん)が子どものころにはレンコン畑が広がっていて、その横を通って大井小学校(現今治市立大西小学校)へ通学していたことを憶えています。」

 イ 来島どっくで働く

 「来島どっく大西工場の建設は昭和36年(1961年)から始まり、翌年、私(Bさん)は中学3年生でしたが、建設工事がまだ行われていたことを憶えています。なお、来島どっく大西工場が建設された場所は、住友傘下にあった来島どっくの前身である波止浜船渠が、戦時中に造船所の建設を開始したものの終戦によって中止された用地の跡地です。
 私は中学校卒業後、進学のために地元を離れ、県外で就職しました。昭和44年(1969年)に地元で働こうと、7年ぶりに戻ってきましたが、『大西はすっかり来島どっくの町になった』と実感しました。大西だけでなく、浅海(現松山市)、菊間、波方、玉川など周辺部からも、高収入を求めて多くの人が来島どっくへ働きに来ていて、汽車で通勤していました。午前7時過ぎ、大西駅から来島どっく大西工場へ、歩いて向かう人の長い行列ができていたのを憶えています。工場では、女性もたくさん働いていたので、行列の中には女性の姿もよく見られました。」
 「私(Aさん)は兵庫県出身で、大阪で働いていましたが、スモッグや騒音がひどかったことを憶えています。昭和48年(1973年)、30歳のときに、家庭の事情で妻の実家がある旧今治市に移住することになりました。なじみのない土地で不安でしたが、空気がきれいで、目の前に広がる瀬戸内海の景色も素晴らしく、『良い土地だ』と思いました。就職先を探したところ、多くの求人があり、特に造船関連が多かったことを憶えています。そのとき、来島どっくは大型船建造のために多くの従業員を募集していて、給料も良かったため、私は来島どっくで働き始めました。当時の来島どっく大西工場の従業員のうち、3分の1ほどは私のように旧大西町以外の出身だったと思います。」

 ウ 住宅団地の造成

 「来島どっく大西工場の発展に伴い、町の事業で田畑を埋めたり山を削ったりして、多くの住宅団地を造成しました。私(Aさん)は大阪から移住してきた当初、旧今治市内に住んでいたのですが、旧大西町で土地を購入し、家を新築して生活を始めました。私のように、大西工場で働くために他所(よそ)から来て、そのまま旧大西町に定住した人も多いと思います。私が住む団地では、地元の人たちが『役員をする人がいない。』と言っていたため、『私がしましょうか。』と言うと、すぐに役員をすることになりました。その後も、私たち他所から来た人間が、よく役員を引き受けていたと思います。旧大西町は住み心地が良く、徒歩で行ける範囲で買い物、通院などが間に合い、仕事帰りに一杯やることもできます。このような場所は、旧今治市周辺の旧町村ではなかなかないのではないかと思います。」
 「来島どっくの関連会社が造成した住宅団地もあり、そのような団地に住んでいるのは地元の人ではなく、ほとんどが来島どっく関係の人です。住宅団地が造成されると、あっという間に家が建ち、各地から来た人々が旧大西町で生活を始めました。そのころ、仲が悪かったというわけではないのですが、他所から来た人が地域の役職をなかなか引き受けてくれなかった気がします。現在はそのようなことはありませんが、当時は、他所から来た人と地元の人との間で小さな溝があったのではないかと私(Bさん)は思います。」

 エ 松山刑務所大井造船作業場

 来島どっく大西工場では、昭和36年(1961年)に、受刑者の開放処遇施設である「松山刑務所大井造船作業場」が発足し、「塀のない刑務所」と呼ばれている。昭和43年(1968年)には3階建ての寮舎「友愛寮」が完成した。松山刑務所大井造船作業場について、次の方々が話してくれた。
 「友愛寮ができたころは多くの受刑者が働いていました。朝礼は軍隊式で、その後、各箇所へ配置され、必ず看守さんが定期的に回ってきていました。私(Bさん)は受刑者と仕事をしたことはありませんが、受刑者は一般従業員と一緒に仕事をしていて、造船所の戦力になっていました。受刑者という目で見るのではなく、一緒に仕事をしている仕事仲間として見ていました。受刑者は真面目にしないと出所時期が延びるため、一生懸命に働いている人が多かったと思います。」
 「来島どっく大西工場で働いた受刑者の中には、出所後、働いていた当時の幹部に『お世話になりました。結婚しました。』と挨拶に来る人もいました。一般の従業員と仲良くなり、服を取り替えることもあったそうです。私(Aさん)たちが朝礼をしているとき、受刑者の軍隊式の掛け声が聞こえてきましたが、工場中に響き渡るようなすごい声だったことを憶えています。受刑者は以前は友愛寮に寝泊まりしていましたが、現在は松山刑務所から送迎しているそうです。」

 オ 景気のピーク

 「来島どっく大西工場の生産力や景気のピークは、ちょうど私(Aさん)が入社した、昭和48、49年(1973、74年)ころだと思います。従業員もどんどん増えていた時期で、私が入社したときには、当時この辺りで最も高層であった11階建て社宅が、10号棟から12号棟まで、3棟とも建っていました。」
 「来島どっくの景気が良かった昭和40年代後半は、給料の上げ幅が大変大きく、月に1万8千円から1万9千円くらい上がったこともあり、私(Bさん)は大変驚いたことを憶えています。当時の来島どっくは、坪内社長の強力なリーダーシップで運営されていました。
昭和48年に、大型フェリーのさんふらわあを建造しましたが、これを契機に来島どっくは広く知られる造船会社になったと思います。来島どっく大西工場では、さんふらわあ5、7、11の3隻が造られ、私もエンジンの据え付けなどに携わりましたが、最後のさんふらわあ11のエンジンは、当時、世界でも最新鋭のものでした。3隻のさんふらわあは、国内で使用された後、海外に売船されたようです。また、同じころ12万重量トンのタンカーも建造しました。来島どっく大西工場では、全ての受注に対応し、フェリーやタンカー、自動車運搬船などあらゆる船種を建造しました。船種ごとに図面を描き直さなければならず、基本設計の人は大変だったと思います。」

 カ 昭和50年代の造船不況

 「造船不況を受け、来島どっくでは昭和50年(1975年)から合理化が始まり、多くの従業員が出向する苦難の時代となりました。私(Aさん)も広島、岡山の関連企業へ次々に出向し、大変苦労しました。また、造船業だけでなく、新聞社や銀行、保険会社など異業種へ出向した人もいました。ちなみに私の知り合いには、出向先で出会った人と結婚し、こちらに帰ってきた人もいます。また、この造船不況が叫ばれたころ、来島どっくはトヨタ自動車のかんばん方式をいち早く導入しましたが、それが、その後の会社の発展につながったと思います。造船所は流れ作業で生産しますが、かんばん方式により、工程に合わせて生産が進み無駄を抑えるとともに、しっかりとした管理体制が構築されたのです。
 昭和50年からの造船不況で波止浜湾内の多くの造船所は倒産しましたが、来島どっくが生き残ったのは、これらの合理化、かんばん方式導入による管理体制の構築が大きいと思います。」
 「造船業では3年くらい前に受注するので、景気の後退は全体よりも遅れてきます。日本全体の景気は、ニクソンショックなどで昭和40年代の終わりころに低迷していましたが、造船不況が本格化したのは、昭和51、52年(1976、77年)ころです。来島どっくは生き残りのために、多くの従業員を出向させました。例えば、5人しか必要でなくなった職場に10人もいると、会社として利益が落ち込みます。そこで、余分な従業員を、受け入れ可能な、あるいは必要とする職場へ出向させたのです。私(Bさん)も高知、広島のグループ造船所へ出向しましたが、自動車会社へ出向した人もいました。当時、人間関係などの精神的な面や肉体的な面で、口では表せないほど大変苦労しました。こうした従業員の苦労によって、このときの造船不況を乗り越えたのです。」

(2) 新来島どっく時代

 ア 新来島どっくの成立

 「昭和53年(1978年)に坪内社長が佐世保重工業の経営を引き受け、数年で経営再建を果たしたことで、多くの企業を傘下に入れました。その後、新来島どっくになって、従業員の意識が向上したと私(Bさん)は思います。」
 「新来島どっくになり、それまでのワンマン経営体制から集団経営体制になりました。来島どっく時代の長所を吸収しつつ、過去の反省の上に立った経営が行われるようになったと私(Aさん)は思います。従業員の福利厚生が充実し、地域の行事にも積極的に参加するようになりました。
 現在、新来島どっくには全国から人材が集まっていて、独身寮の駐車場には九州、関東方面などのナンバープレートの車が停(と)まっています。来島どっくの時代から、各地から集まってきた人たちが、家を建てて定年後も住み続け、地域の住民として歴史を積み重ねてきています。最近では20代、30代の若い人たちが次々と家を建てています。そのため、旧大西町は周辺と比べて高齢化率はそれほど高くありません。
 新来島どっくでは、大手の重要な人材を迎えてその長所を吸収するとともに、船型研究所などを設置して独自の技術力を地道に高めています。現在、製造の主力船種はケミカルタンカーと自動車運搬船で、特に自動車運搬船は業界で大きなシェアを占めています。こうした会社の発展は、この辺りが来島村上海賊の領域であったという歴史も関係があると思います。」

 イ 外国人研修生の受け入れ

 「平成14年(2002年)ころから、会社の方針で中国人研修生を積極的に受け入れ始めました。最近は中国人が減り、フィリピン人やベトナム人など東南アジア出身者が多くなっています。中国人が減ったのは、中国の経済発展と、それに伴う国内賃金の上昇が原因だと思います。このように、大西工場では多くの外国人研修生が働いているため、旧大西町は、ちょっとした国際都市のようになっています。当初は、文化の違いからトラブルになることもありました。以前、私(Aさん)の娘が高校生のころ、娘が窓を開けて受験勉強をしていると、近くにある大西工場の社宅から煙が入ってきました。何事かと思って見てみると、社宅に住む外国人がゴミを燃やしていたのです。その外国人にとってゴミは燃やすものであり、ゴミを分別して捨てるという概念がなかったためでした。私は、大西工場の担当管理者に抗議し、文化の違いを踏まえた指導をするようにお願いしました。その後は研修が行われるようになり、そのようなトラブルはなくなりました。」