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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 窯業と人々のくらし

 旧菊間(きくま)町は高縄半島北部に位置し、西は旧北条(ほうじょう)市(現松山(まつやま)市)、南は旧玉川(たまがわ)町、東は旧大西(おおにし)町(いずれも現今治(いまばり)市)に接し、北は瀬戸内海に面し、海岸線は11㎞に及ぶ。藩政時代には松山藩に属していたが、明治22年(1889年)の町村制施行により、歌仙(かせん)村、亀岡(かめおか)村、菊間村の3か村が成立し、明治29年(1896年)には越智郡に属することになった。明治41年(1908年)には菊間村に町制が施行されて菊間町となり、菊間町は大正14年(1925年)に歌仙村を合併した。その後、昭和30年(1955年)に菊間町と亀岡村が合併した。
 町域は中世には京都の上賀茂神社の荘園であり、毎年10月に開催される加茂神社のお供馬の行事は広く知られる。近世には製瓦業が栄え、その品質の良さは現在でも全国に知られている。また、製瓦業の発達とともに瓦の輸送や原材料の運送の必要性は海運業を発展させた。
 菊間に製瓦業が発達した理由としては、温暖で冬でも粘土や水が凍らず年中作業ができること、雨の少ない気候が瓦の焼成に適していたこと、原料の粘土やマツが周辺から豊富に供給されたこと、船による製品や原材料の輸送に便利だったこと、一枚一枚磨いて良質な瓦を生産する技術が伝統となったことなどがあげられる。
 菊間瓦の歴史は弘安年間(1278年~88年)に遡るともいわれるが、江戸時代になると松山藩の保護を受け生産が本格化した。浜村の瓦業者は、安永6年(1777年)に26株からなる株仲間を結成したと伝えられている。当時の瓦業者は西海岸地区と岩童子地区に限られており、狭い範囲に集中していた。瓦の船積みや原料の粘土の陸揚げのために海岸に集中していたものと考えられる。明治時代になり株数制限が解かれると新規業者が増加し、皇居造営の際には御用瓦として採用され、菊間瓦の名が全国に広まった。
 本節では、旧菊間町における窯業と人々のくらしについて、Aさん(昭和11年生まれ)、
Bさん(昭和28年生まれ)、Cさん(昭和35年生まれ)から話を聞いた。