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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業21 ― 今治市① ― (令和3年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 造船業・海運業と人々のくらし

 旧大西町は、来島どっくの企業城下町的様相を呈していたが、来島どっくの前身である波止浜船渠(せんきょ)は、明治35年(1902年)に設立され、波止浜湾の近代造船工業の始まりとなった。波止浜船渠は、昭和15年(1940年)には住友の傘下に入ったが、終戦とともに住友から離脱した。昭和24年(1949年)に同社は解散、来島船渠を設立したが早々に経営が悪化し、同年には工場閉鎖に追い込まれた。昭和28年(1953年)、松山(まつやま)市の興業主坪内寿夫が来島船渠の社長に就任し、再建に乗り出した。来島型標準船と呼ばれる499総トンの中型船を流れ作業ブロック工法により低船価で販売するとともに、零細な個人業主に船を売るために業界で初めて月賦販売を導入するなど、独特の経営方式で新船発注の潮流に乗って急成長していった。
 昭和36年(1961年)に旧大西町へ進出、昭和41年(1966年)に来島どっくと改称した。来島どっくは昭和50年代初めの造船不況以後、県内外の経営不振に陥った造船企業を次々と傘下に収めていわゆる「来島グループ」を形成し勢力を拡大したが、慢性的造船不況の中で経営環境は急速に悪化した。昭和61年(1986年)にグループは解体され、坪内社長は代表権を返上し、造船事業などは昭和62年(1987年)に新たに設立された新来島どっくに事業譲渡され、現在に至っている。
 海運業は、国内のみで貨物輸送を行う内航海運と海外との貿易を行う外航海運に分かれる。なお、内航海運物流は「オペレーター」と呼ばれる運送事業者と「船主(オーナー)」と呼ばれる貸渡事業者によって成り立っている。オペレーターは荷主と結んだ運送契約に基づいて、実際の輸送業務を行い、船主は船舶と船員を保有し、オペレーターとの間で用船契約を結んで船舶を貸し渡している。
 海運業のうち今治市の内航海運の船腹量は、国内の6%、海運王国愛媛の中でも50%のシェアを占め、外航海運においても、日本の外航船の約46%を市内の船主が保有しており、日本一の座を誇っている(令和元年〔2019年〕実績)。旧波方町はその今治市の中でも中心となっている。
 波方海運が発展する歴史的契機は、明治時代初期、波止浜塩田に必要な資材を運ぶ船が発達したことにある。一方、菊間瓦の需要が高まると、瓦用の粘土を運ぶ「土船」と、瓦製造から出る素灰を運ぶ「素灰船」が発達した。明治30年代から大正、昭和初期にかけて、内航海運は石炭輸送の黄金期を迎えた。昭和になると、これまでの帆船から機帆船の時代を迎え、昭和15年(1940年)ころ波方の船は、ほとんど機帆船になっていった。戦後の内航海運は、石炭輸送を中心として戦後復興の波に乗り、特に朝鮮戦争の特需景気で息を吹き返した。波方をはじめ内航海運業界に大変革をもたらしたのは、昭和30年代における機帆船から小型鋼船への切り替えであった。愛媛県では、旧波方町、旧伯方(はかた)町(現今治市)を中心に小型鋼船への移行が早かったため、「愛媛船主」の名が全国的にとどろくようになった。愛媛における小型船建造の特色は、地元の造船所と金融機関が全面的に船主を支援したことにあった。このような金融機関と造船所の協力体制は、「愛媛方式」と呼ばれた。
 日本経済の高度成長に伴い、波方を先頭として愛媛の内航船主は、積極的に近海船の分野に進出したが、昭和40年(1965年)から同44年(1969年)にかけて続いた近海船ラッシュにより船腹が増加し過当競争となったため、昭和47年(1972年)から2年間にわたり、近海船の市場が悪化した。このため波方の船主も、中古船の売船利益を基に遠洋船の分野に進出し、世界の海を舞台に活躍するようになった。
 本節では、来島どっくを中心に造船業と旧大西町の関わりについて、Aさん(昭和18年生まれ)、Bさん(昭和21年生まれ)から、旧波方町の海運業について、Cさん(昭和15年生まれ)、Dさん(昭和22年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。