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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 子どものくらし

ア 国民学校のころの思い出

 「戦争(太平洋戦争)の終わりころ、私(藤野光央さん)の通っていた国民学校(松前国民学校)では、児童は午前中に2時間授業を受けた後、塩屋(しおや)海岸で塩田作業に従事していました(図表1-1-2、写真1-1-4参照)。塩田では、砂をじょうれんに入れて指定された場所まで運ぶという作業の繰り返しでした。夏のことですから、作業中は汗もたくさんかいて、本当にしんどかったことを憶えています。当時、塩田は海岸に沿って長く続いていて、海岸の近くにはモモやウメの木がかなり植えられていました。」

イ 子どもの遊び

 「私(藤野光央さん)が子どものころは、メン割といって、立っている物を倒す遊びやパッチン、ラムネといった遊びをしていました。ラムネは、土間にビー玉を並べて、自分の玉を上から相手の玉に当てて外へ出せば取ることができるという遊びでした。また、国民学校にはプールがなかったので、夏になると、先生に引率されて海岸で泳いだことがありました。私は自分から海へ泳ぎに行ったことはあまりありませんでしたが、近所には、夫婦橋から海へ飛び込んで遊ぶというような、とても活発な子どももいました。昭和40年代から50年代は、今の企業団地辺りの海岸には砂浜が広がっており、そこで子どもたちが泳いでいたことを憶えています。」

ウ お手伝い

 「私(藤野光央さん)は中学校(松前町立松前中学校)を卒業後、松商(愛媛県立松山商業高等学校)に進学しました。高校生くらいまでは、手伝いといえば店の前の通りに打ち水をしたり、庭に水をまいたり、お店の商品を運んだりするくらいのものでした。本村に水道がまだ通っていなかったころは、自家用の井戸の水をつるべで汲(く)んでバケツに入れて、通りに打ち水をしていたことを憶えています。」
 「当時、家の井戸水は金気(かなけ)(水中に溶けて含まれている鉄分のこと)が多かったのですが、他の地域と比較することもなかったので、それが当たり前だと思っていました。また、私(藤野美智子さん)が子どものころには石けんにも不自由していたので、親が米ぬかを煎ったもので体を洗ったり、家を磨いたりしていたことを憶えています。今でも米ぬか石けんが商品として販売されていますから、『昔の人がしていたことは間違いなかった』とつくづく思います。私が子どものころは、稲刈りの時期になると親が、『稲刈りを手伝いに来い。』と言って、田んぼで私の帰りを待っていました。稲刈りの日が学校の中間試験の期間中と重なったことがあり、私は試験が終わると田んぼまで走って行ったことを憶えています。昔は田植えや稲刈りも全て手作業で多くの人手が必要であったため、農繁期には学校が3日間くらい休みになっていました。」

エ 亥の子

 「かつては本村でも亥(い)の子の行事が行われており、11月の亥の日に5人くらいが縄で縛った亥の子石を持って各家を訪ねて回り、亥の子唄を歌いながら亥の子石をつかせてもらったお家から御祝儀をもらっていました。亥の子に参加していたのは、上は今の中学生の年代から、下は小学校の3年生くらいの男子で、女の子は参加することができませんでした。私(藤野光央さん)は国民学校初等科の4年生から6年生のころに亥の子に参加していました。当時、御祝儀をどのくらいもらっていたのかよく分かりませんが、年上の人が御祝儀のお金で飴などを買って、みんなで分けていたことを憶えています。」

 (2) 金物店を営む

ア さまざまな商品

 「私(藤野光央さん)の家は、昔は材木の商いをしていたという話を聞いたことがあり、金物店を始めたのは終戦後からだったと思います(図表1-1-3の㋞、写真1-1-5参照)。私が昭和36年(1961年)に結婚してからは、母と妻の2人でお店を営業していました。」
 「昭和36年にこちらに嫁いで来てから昭和47年(1972年)までは、お店の切り盛りは義母がやっていて、私(藤野美智子さん)は手伝うくらいのもので、その後は私1人でお店をするようになりました。お店では鍋や釜、七輪、くどなどの日用品のほか、植え木の剪定(せんてい)ばさみ、大工道具、建材などさまざまな商品を扱っていました。昔の釘(くぎ)は量り売りで、お店では50㎏の樽(たる)に入れていました。釘が大小一通り揃っていて、『かすがい』や『かんな』なども売っていたため大工さんがよく利用してくれました。お店では、ちりとり、ほうき、さらえ、じょうれんなどの清掃用品も扱っていましたが、さらえは竹製で傷みやすいのでよく売れていましたし、冬になると練炭火鉢もよく売れていました。また、鍬(くわ)やコロガシ(除草機の一種)といった農具も販売していて、狭い店内によくあれだけ多くの商品を並べていたものだと思います。」

イ 商品の仕入れ

 「お店の倉庫が狭く在庫品をそれほど置くことができないので、卸問屋さんには頻繁に商品の注文をしていたことを私(藤野美智子さん)は憶えています。卸問屋さんから売れ筋の商品の情報を聞くと、それもお店に並べて、売れると追加注文するということを繰り返していました。当時は松山の卸問屋さんの営業担当者が注文を取りに来て、翌々日くらいには配達に来てくれていました。当時、卸問屋さんの営業担当者はバイクで来ていましたが、会社には営業担当者に車を1台ずつ割り当てるだけの台数がなかったのだと思います。卸問屋さんから品物が届いて店頭に並べておくと、お客さんが買いに来てくれました。お客さんの注文を受けて配達することもたまにはありましたが、通常はお店に並んでいる商品をお客さんが買いに来ていました。大口の注文としては結婚式の引き出物として鍋の注文を受けたり、公民館で使用する大きな台所道具の注文を受けたりしたことがありました。私は車の運転ができないのですが、当時は卸問屋さんが10軒くらいあり、どこかの卸問屋さんが商品を届けに毎日こちらの方へ来ていましたから、その人に頼んで配達してもらうこともありました。」

ウ 早朝から開店

 「大工さんが仕事の行きがけに道具を仕入れようと、朝7時ころにやって来てお店の戸を叩(たた)いていました。私(藤野美智子さん)は子どものお弁当を作って学校へ送り出さなければならなかったため、朝5時に起きていたのでは準備が間に合いませんでした。そのころは義母が元気だったので、きちんとお店の準備をしてくれていました。義母は、『夜が明けてからでなく、暗いうちに掃除をしないといけない。』と言って、お店の前を掃除してから打ち水をして、きれいな状態でお客さんを迎えていましたが、私には真似(まね)ができませんでした。」

エ 多忙だった年の暮れ

 「お店では金物の修繕も行っていて、お客さんから穴の空いたアルミ製のお鍋の修繕を頼まれ、鉛製の釘のようなものを叩いたりして修繕していたことを私(藤野美智子さん)は憶えています。昔はそのように物を大事に使っていたとは思いますが、その一方では、お正月には何でも新しい物を揃えて良い年を迎えよう、という時代でもあり、衣類も新しい服を着て新年を迎えるという人が多くいました。」
 「お店は年の暮れの1か月で半年分くらいの売上があったので、『2人だけでは人手が足りない』と思って、私(藤野光央さん)は帰宅すると商品の値札付けなどの手伝いをしていました。昔は、古いものを新しいものに取り換えてお正月を迎えることで、人生の中の一つの区切りを積み重ねていったのだと思います。」

オ 幼稚園などでの出張販売

 「毎年、春になると松前町の幼稚園・保育所では、新しく入園・入所する子ども向けの靴や制服などの販売が行われていました。それぞれの専門の業者の方に交ざって、私(藤野美智子さん)も遠足の水筒やお弁当箱などの販売に行っていました。その時期は学校がちょうど春休みに入っていたので、息子にお店の留守番をさせていました。私の家には車がなかったので、自転車で販売に行っていたのですが、販売する品物がたくさんあるときは、普段からうちと取り引きのあった卸問屋さんが協力してくれて、大変ありがたかったことを憶えています。」

カ 閉店して思うこと

 「うちのお店を利用するお客さんは、東レの社員の方も含め、夫婦橋より北の方に住む方が多かったように思います。私(藤野光央さん)が東レに勤めていたころは近くに社宅や寮がたくさんあった関係で、多くの社員の方にうちのお店を利用していただき、本当にありがたかったです。」
 「私(藤野美智子さん)はお店をやっていたおかげで、勤めに出ることなく子育てをすることができました。お店は平成22年(2010年)に閉店しましたが、松前町で営業を続けている金物店は少なくなり、この辺りでは新立にある金物店くらいになっています。この通りにあった店舗の多くは移転もしくは営業をやめてしまっており、一部のお店しか営業していません。お客さん用の駐車場を設けるだけのスペースがあまりないため、ここで商売を続けることが難しくなっていると思います。」

 (3) 東レでの勤務

 かつて東レ愛媛工場に勤務されていた藤野光央さんから、当時の会社での仕事にまつわる思い出について話を聞いた。

ア 入社したころの思い出

 「私は高校を卒業した後、一時期はお店の手伝いなどをしていましたが、そのころにちょうど東レの求人募集があり、入社試験に合格して昭和31年(1956年)に入社しました。(写真1-1-6参照)。
 最初は経理課に配属され、その後、炭素繊維の事務の部署に移り、定年まで勤めました。私が入社したころ、高校卒業の新入社員には工場での実習が義務付けられており、私もそこで三交替制勤務を経験しました。三交替制の勤務時間は、午前7時から午後3時、午後3時から午後11時、午後11時から翌朝7時となっており、工場は24時間操業でした。実習期間は1か月余りでしたが、『これは大変な仕事だな』と思ったことを憶えています。今ではほとんどの作業工程が機械化されているため、社員が行っている作業は計器を点検するくらいになっていると思います。」

イ 多かった社宅と寮

 「私が入社した当時は、紡績や織布、加工といった部門の工場があって多くの社員が働いており、女性社員だけで1,000人余りもいました(写真1-1-7参照)。この辺りのお店は、東レの社員の方たちがあちこちに立ち寄って利用してくれたおかげで、かなり繁盛していたように思います。
 そのころの東レには多くの社宅と寮があり、社宅には家族持ちの、寮には独身の社員が入っていました。寮には男子寮と女子寮があり、それぞれ『男寄(だんき)』と『女寄(じょき)』と呼ばれていました。また、各寮には『青雲寮』や『双葉寮』などの名前が付けられていて、それぞれ寮母さんがいて門限などの規則も比較的厳しかったようです。昭和30年(1955年)から昭和40年(1965年)ころにかけては、社員の総数が最も多いときで3,000人くらいいました。社宅や寮に住む社員も多くいて、社宅に1,500人くらい、寮に500人くらいが住んでいたと思います。一方、自宅から通勤していた社員は1,000人くらいでした。」

ウ 慰安旅行とサークル活動

 「毎年、秋になると会社から社員一人一人に380円が支給され、その金額の範囲内で旅行しても構わないし、遠方へ行くために少しお金を足しても構わないことになっていました。一種の慰安旅行のようなもので、社員の間では『サンパチ旅行』と呼ばれていました。この慰安旅行は、課または係くらいのグループ単位で行っていたことを憶えています。
 また、会社には、俳句、謡曲などの文化部と、サッカー、ラグビー、バレーボール、野球、ソフトボール、柔道、剣道などの体育部があり、一通りのサークルがありました。会社では年に1回対抗試合が行われ、同じ繊維業の会社で東レとも交流のあった帝人(現帝人株式会社)などとバレーボールや卓球などの試合をすることもあれば、社内のグループ同士で試合をすることもありました。本格的な活動を行っている部もあり、柔道部には九州の方の出身で国体にも出場した人が2、3人いたと思います。
 私は、たまたま、謡曲に詳しい社員の方から、『謡曲のサークルをつくるので、一緒に活動してみないか。』と誘われたのがきっかけで謡曲のサークルに入り、4、5年くらい活動していました。サークル活動では、謡曲の家元のお弟子さんが京都から教えに来られて指導を受けたことや、松山市民会館などで開かれた謡曲の愛好者による発表会に出たことなどが思い出として今でも記憶に残っています。」

 (4) 地域の行事

ア 蛭子神社の夏祭り

 『松前町誌』によると、本村にある蛭子(えびす)神社は、日本の神話でよく知られている大国主命(おおくにぬしのみこと)の子の事代主命(ことしろぬしのみこと)を主祭神とする歴史の古い神社である(図表1-1-3の㋟、写真1-1-8参照)。慶長年間(1596年~1614年)に正木(松前)城主加藤嘉明が神殿を再建し、さらに安政年間(1854年~1859年)にも再建され、村落鎮守、海上安全、漁労の神として現在も人々の崇敬を集めている。
 「毎年7月中旬の土曜日に蛭子神社の夏祭りが行われます。蛭子神社の夏祭りは、本村の漁師の代表者と地区の代表者が主体となって運営しています。お祭りの日には、朝8時ころから玉生(たもう)さん(玉生八幡大神社のこと。図表1-1-2、写真1-1-9参照)の宮司さんによって神事が執り行われ、漁師の代表者と本村の役員が集まって魚や野菜、果物、お酒を神様にお供えし、初穂料を宮司さんにお渡ししています。私(藤野光央さん)たちは夏祭りのときにお参りすることはあまりありませんでしたが、何回かはお参りをしたことを憶えています。また、お祭りの日の夜にはカラオケ大会が行われて親睦を深めています。」

イ 秋祭り

 (ア) 神輿の鉢合わせ

 「松前町の秋祭りは毎年10月13日から15日にかけて行われますが、14日の夜には、小中学生が高張(たかはり)という提灯(ちょうちん)を掲げて、保護者と一緒に提灯行列を行います。
 14日には夫婦橋で、15日には玉生さんの境内で本村と新立の神輿(みこし)による鉢合わせが行われ、神輿の出ない地域では獅子舞などが行われます(写真1-1-10参照)。本村の神輿は普段は蛭子神社の倉庫に納められていますが、お祭りが近づくと神社で水洗いをしたりペンキを塗ったりして準備を行い、10月13日にはロープを巻いて喧嘩(けんか)神輿をつくります。そして、14日の11時ころから神輿をかき始め、夫婦橋で神輿の鉢合わせが行われます。以前はお昼ごろから午後3時ころまでやっていましたが、今は1時間余りで終わります。私(藤野光央さん)が子どものころは、神輿が出たと聞くと、夫婦橋の近くの川崎屋のねき(そば)まで見に行き、神輿についているロープを引くお手伝いをしたこともありました。夫婦橋で1時間から1時間半くらい鉢合わせをした後、神輿は氏神である玉生さんまで移動し、その途中で1回くらい鉢合わせが行われることもあります。昔は警察学校(愛媛県警察学校)の辺りはレンコン畑が広がっており、そこでよく鉢合わせが行われていました。鉢合わせが行われると、神輿の上に上がっている人が倒れてレンコン畑に落ちていたことを憶えています。昭和30年代くらいまでのお祭りは、今よりも随分にぎやかに行われていたように思います。昭和50年(1975年)くらいからだんだん神輿をかける(担ぐことができる)くらいの年代の人が減ってしまったので、今はほかの地域からも応援に来てもらって、10人から15人くらいでかいていると思います。神輿が重いため、夫婦橋から玉生さんまで移動するときには、神輿を台車に載せて移動しているようです。」
 「私(藤野美智子さん)がこちらに嫁いで来たころはお祭りも随分にぎやかでした。神輿の鉢合わせのときには、よそからも多くの見物客が来ていて、夫婦橋からうちの店の前くらいまで人だかりができていたことを憶えています。また、夫婦橋での鉢合わせの際には、海へ落ちる人が何人も出て、救急車が来ることもありました。」

 (イ) 子ども神輿

 「本村には大人神輿とは別に子ども神輿があり、小学5、6年生から中学生までがかくことになっています。私(藤野光央さん)の2人の息子も、昔はよく子ども神輿をかきに行っていました。神輿をかいて本村の各戸を回り、家の敷地内へ入れさせてもらえると、その家の人から金一封の御祝儀があり、その御祝儀をみんなで分けていました。」
 「今では本村でも高齢者の割合が高くなり、子どもの数が少なくなっていますが、私(藤野美智子さん)の息子が小さいころは50人くらいの子どもがいました。息子は御祝儀のお金を楽しみにしていて、『よその地区は何ぼもらったのに、うちらはこれだけじゃ。』とよく言っていました。お祭りの翌日には、もらった御祝儀のお金を持って子ども同士で松山へ買い物に行っていましたが、それが当時の子どもたちにとっての楽しみだったのだと思います。今は、愛護部が御祝儀のお金を管理するようになっていて、そのお金で図書券などを購入して子どもたちに渡しているようです。」

 (5) 電話とテレビの普及

ア 電話

 「現在はほとんどの家が電話を設置していますが、昭和36年(1961年)ころ、電話のある家は限られていたことを私(藤野光央さん)は憶えています。仕事柄、医院や商店では早くから電話を設置していましたが、当時、一般の家庭では電話はそれほど必要ではなかったように思います。」
 「私(藤野美智子さん)が昭和36年(1961年)にこちらへ来たとき、家には電話がまだ設置されていなかったので、義母は、家の前にあった医院までよく商品の注文の電話を掛けに行っていましたし、医院の看護婦さんが、『電話が掛かっとるよ。』と呼びに来てくれていました。私の家で電話を設置したのは昭和37、38年(1962、63年)ころだったように思いますが、そのころ、一般の家庭で電話を設置している家はあまりなかったと思います。」

イ テレビ

 「私(藤野美智子さん)が学生のころは自宅にテレビがなく、近所で最初にテレビが入った家の友人から、『テレビを見においで。』と誘われて、放課後にテレビを見せてもらいに行ったことを憶えています。私が昭和36年にこちらへ嫁いできたとき、家には小さな白黒テレビがありました。そのころ、病院や医院では早くから待合室にテレビが設置されていましたし、食堂や理容店など、お客さんの出入りの多いお店にも設置されていました。当時はテレビもまだ高価で、それほど多くの家庭には入っていなかったと思います。」

 (6) 戦後の青年団活動

 「戦後の青年団の活動としては、神社やお寺の清掃、盆踊り大会、研修旅行、青年団主催のダンスパーティー、ソフトボール、公民館での講習会などが行われていたそうです。青年団に加入できるのは中学校を卒業してからだったと思います。私(藤野光央さん)も若いころには、青年団活動に参加するよう誘われていましたが、結婚して家庭を持ったり会社勤めをしたりしていると活動に参加する時間をとることが難しいため、それほど参加していませんでした。昔の青年の多くは結婚する年齢も早かったので、青年団での活動期間は長い人でも8年間くらいだったと思います。」

参考文献
・ 松前町『まさき町勢要覧』1969
・ 松前町教育委員会『まさきのくらし』1973
・ 朝倉書店『日本図誌大系 四国』1975
・ 松前町『松前町誌』1979
・ 平凡社『愛媛県の地名』1980
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1985
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済4 商工』1987
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門『松前町の風土と人々のくらし』2017


写真1-1-5 かつての金物店付近の現況

写真1-1-5 かつての金物店付近の現況

平成29年9月撮影

写真1-1-8 蛭子神社

写真1-1-8 蛭子神社

平成29年12月撮影

写真1-1-9 玉生八幡大神社

写真1-1-9 玉生八幡大神社

平成29年12月撮影