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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 新立の町並み

 新立(しんだて)地区がある松前(まさき)町浜(はま)は同町の西部に位置し、東側を県道326号と伊予鉄郡中線が並行して走り、西側は伊予灘に面している。古くは松前浦と称し、「恐らくは、平安期のころに、漁労に巧みで、船を自在に操り、製塩の技法を身につけた人々の集団が、定着して浜村(藩政時代から明治22年〔1889年〕までの村名)の礎を築いた(①)」という。このことから、この地域の人々が漁業を中心に廻船業や商業などに従事しながら生計を立てていたことが分かる。
 文禄4年(1595年)に加藤嘉明が松前城主になると港の大改修が行われ、城下町の軍港、港町、漁港として活況を呈し、全盛期を迎えた。このころの軍港は現在の港よりもかなり広く、慶長2年(1597年)の朝鮮半島への出兵の際にはここから2,400名余りの兵を率いたという。しかし、慶長8年(1603年)に嘉明が松山(まつやま)に城を構えて政治・経済・軍事の機能を整え、松前在住商人とともに移転すると、これまでの勢いは次第に失われていった。
 このような事情はあったが、藩政時代を通じて漁港としてはもちろん重要港湾としての役割は継続され、松前の漁民たちが公儀御用の水主(かこ)(船頭のこと)を務めるとともに米の積み出しを行い、その功績から領内ならどこでも勝手に漁獲してもよいという特権も与えられた。また、浜村は大洲(おおず)街道(県道伊予松前港線)と砥部(とべ)街道(県道八倉松前線)が交差する位置にあり物資の集散地となること、元禄年間(1688年〜1704年)以降の新田畑の開発によって農家が移り住んだことなどもあり、人口が次第に増加していった。
 新立地区は加藤嘉明時代の軍港の一部を埋め立ててできたと言われているが、その時期は明確ではない。『松山叢談(そうだん)(二下)』に、「然(しか)るに文政の頃(1818年〜1829年)より漁人此處(ここ)へ一軒二軒と来往して今百数十軒の一郷をなし浜村の枝村たり、(中略)是全く松前浦の漁猟の繁昌(じょう)によれり(②)」と述べられていることから、文政年間以降の戸数の増加に伴い、土地造成が行われていったと思われる。
 明治時代に入ると、近郷での行商だけでなく遠隔地行商として砥部焼を主とした「からつ船」による陶磁器行商が始まった。当初は砥部焼のみの販売であったが、明治13年(1880年)ころには、砥部で製造された陶磁器の全てを松前のからつ船が各地へ搬出するようになった。砥部と松前が砥部焼の販売に関して密接に結びついた背景については、「松前に古くより行商の伝統があり、また、伊予水軍の伝統を引く操船技術が、砥部焼の販路拡大には是非とも必要なものであった(③)。」と山本典男氏が『松前史談第10号』に寄稿した「砥部焼と松前の唐津船」の中で述べており、道路や鉄道が未発達の時代においては、船が物資を大量かつ遠方まで運べる運搬手段であった。その販路は、瀬戸内沿岸はもとより、山陰や北陸、九州方面にも及んだという。こうして、販売規模の拡大と販路の開拓によって新立地区はさらに賑(にぎ)やかになり、明治末期には「陶器問屋は40軒、からつ船は50隻、行商日数も3か月から6か月に及んで盛況をきわめた(④)」という。
 しかし、明治30年(1897年)を境として国内の道路網が急速に整備され、海上交通においても大型の機関船が使用されるようになると、時代の要請に応えられなくなった松前港からの陶磁器行商は次第に衰退していった。なぜなら松前港は小帆船を主体とした漁港であり、港内は浅くて狭いために大型船による大量輸送には向いていなかったからである。こうして、「昭和恐慌時に少量にして、しかも単一商品の転送販売業が成立し得なかった(⑤)」ため、昭和7年(1932年)には陶器問屋の数が明治末の40軒から10軒に減り、松前港から郡中(ぐんちゅう)港(現伊予(いよ)市)へと砥部陶磁器の発送地が移っていった。新立地区の住吉神社には、砥部の窯元全員が松前商人への感謝の念を込めて神社改修費を寄付した記念碑が建立されており、往時の様子を現在に語り伝えている(写真1-2-1参照)。
 本節では、戦前の松前港の様子と昭和20年代ころまでの新立地区の町並みについてAさん(大正15年生まれ)から、人々のくらしについて、Aさん、Bさん(昭和12年生まれ)からそれぞれ話を聞いた。

写真1-2-1 砥部焼窯元寄付者芳名記念碑

写真1-2-1 砥部焼窯元寄付者芳名記念碑

明治20年(1887年)の社殿改修時のことである。平成29年8月撮影