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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 商店街のにぎわい

ア 郵便局と医院

 「私(藤野光央さん)が子どものころ、本村の通り沿いに郵便局があり、戦前の一時期、祖父が郵便局長をしていました(写真1-1-1参照)。郵便局は後に移転し、その跡地には叔父が医院を開業したので、私の家では、病気になるといつもそちらで診察してもらっていました(図表1-1-3の㋐、㋑参照)。
 この辺りには、本村出身の方が開業した医院や県外出身の先生が開業した医院、東レ内の病院に勤務していた先生が退職後に開業した病院など、さまざまな病院、医院があり、合計すると6軒ほどもあったので、重い病気は別にして風邪程度のことであれば困ることはありませんでした。」

イ 食堂

 「私(藤野光央さん)が子どものころ、夫婦橋(めおとばし)の近くに川崎屋という食堂がありました(図表1-1-3の㋒、㋓参照)。当時50歳くらいの御夫婦でお店を営業されていて、うどんがおいしいと評判だったので東レの若い寮生の方たちがよく利用していました。後に川崎屋は割烹(かっぽう)、仕出しのお店となって現在も営業を続けています。また、双葉食堂もうどんがおいしいと評判で、現在の店主で3代目になります(図表1-1-3の㋔参照)。私の子どもがお盆やお正月に帰省したとき、双葉食堂のうどんを食べるのを楽しみにしていたのに、たまたまお店の休日と重なっていて残念がっていたことがあったことを憶えています。」

ウ 食料品や日用品のお店

 「食料品のお店としては、昭和30年代から近くに鮮魚店や精肉店があり、理容店の横の道を入った所には八百屋さんもありました(図表1-1-3の㋕参照)。また、三叉路(さんさろ)の所にスーパーマーケットがあり、そこへ行けば大抵の品物は揃(そろ)っていて、私(藤野美智子さん)は子どもに歩いてお使いをさせたりしていました(図表1-1-3の㋖、㋗参照)。そこのスーパーマーケットは、ある程度まとまった量の買い物があるときに電話で注文をすると、すぐに家まで配達してくれたのでとても便利でした。スーパーマーケットの隣には牛乳屋さんもありましたが、昭和50年(1975年)くらいに旧国道56号の方へ移って行きました(図表1-1-3の㋘参照)。また、化粧品は向かいにあった化粧品店で買っていましたし、そのほかにも通り沿いには時計やタバコ、洋服などさまざまな種類の商品を売っているお店があり、日常生活に困ることはありませんでした(図表1-1-3の㋙、写真1-1-2参照)。
 私が若いころは洋服などを買ったことはなく、自分の服は布を買って来て、自分で仕立てていました。また、子どもたちの服もなかなか買うことができなかったので、自分の服をつぶして子どもの服を仕立てたりしたこともあり、急ぐときには夜なべをして仕立てたこともあったことを憶えています。通り沿いにあったお店は小さなお店がほとんどでしたが、松山まで出て行かなくても十分に生活できていました。」

エ お菓子

 「かどや製菓店は、地元のテレビ局の取材でも何回か取り上げられたことのある老舗です(図表1-1-3の㋚参照)。年の暮れになると、多くのお客さんが餅米を持って来て、お店でお餅をついてもらっていたことを私(藤野美智子さん)は憶えています。今でも、松前町の行事等でお餅が必要なときには、かどやさんのお餅が使われていることもあるようです。」
 「近所の雑貨店では文具と駄菓子を売っていて、私(藤野光央さん)は子どものころにはそこへよく通っていました(図表1-1-3の㋛参照)。そのお店は昭和40年(1965年)ころも営業を続けており、私の息子もよく利用していました。」

オ 理容店

 「近所に4代続いている理容店があり、私(藤野光央さん)は2代目の店主の方に小さいころから散髪をしてもらっていました(図表1-1-3の㋜参照)。私は4、5歳のころ、散髪があまり好きではなく、泣いたりすると、お店の人に飴(あめ)をもらったりしてあやしてもらった記憶があります。2代目のときは洗髪をする女性従業員を雇っていて、それ以外は店主が1人で散髪などをしていたと思います。昔は、散髪に行ってもお店が混んでいて待たされることが多かったので、店主に、『店がすいたら教えて。』と言って、一旦家に帰ることがよくありました。この辺りのほとんどの方がそのお店で散髪をしてもらっていましたが、店主は本当に仕事熱心で努力家でしたし、人柄も良かったので、お客さんが多かったのだと思います。」
 「近所の理容店は散髪の技術がとても上手だったので、お店には固定客がかなりいたように思います。私(藤野美智子さん)の夫が若いころは、理容店がそれほど多くなかったこともあって、お店は混んでいることが多くありました。最近は、非常に安い価格で散髪してくれる理容店が増えてきて、そうしたお店を利用する方もいるようです。」

カ 行商の記憶

 「この辺りは元々漁師町で、昔は漁師さんが5、6軒ほどいらっしゃいました。漁師さんが獲(と)った魚をおたたさんが、『魚はいらんかえ。』などと言いながら、この辺りの各家に売り歩いていました。また、伊予鉄道に乗って岡田、余戸(ようご)、土居田(どいだ)、松山市駅などで降りて行商に行っていて、なかには道後(どうご)(松山市)の方まで行っていた人もいたそうですが、おたたさんの間では販売する区域が縄張りのように決められていました。おたたさんは本当に元気な人が多く、朝5時くらいから出かけてお魚などを売り歩いていたことを私(藤野光央さん)は憶えています。」
 「昭和36年(1961年)から昭和38年(1963年)ころには、垣生(はぶ)(松山市)や北伊予の方から農家の方が自分の畑で作った野菜などをリヤカーに積んで行商に来ていたので、私(藤野美智子さん)はよく買っていました。」

キ 東レ社員の往来
 
 「昭和36年(1961年)ころ、通りには今のように車も通っておらず、リヤカーを引いて品物を運んでいた人もいました。当時は、電車で通勤していた大勢の東レの社員の方たちが松前駅と会社の間を行き来していたので、道路の砂ぼこりが上がらないようにという意味もあって、私(藤野美智子さん)は道路に打ち水をしていました(写真1-1-3参照)。昭和40年代くらいからだんだん車社会に入りましたが、歩行者が通りを通行しづらくなったのは、平成に入ってからのように思います。私は普段、自転車をよく利用していますが、通りは車の離合が難しいくらい道幅が狭いため、自転車から降りて押して歩いています。」
 「当時、松山市や伊予市の方から通勤していた東レの社員の多くは電車で通勤していました。松前町に住む社員でも、会社から遠方の人の中には自転車で通勤する人もいましたが、多くの社員は徒歩で通勤していたため、朝夕は本通りと裏通りを通る社員がとても多かったことを私(藤野光央さん)は憶えています。現在も電車で通勤している社員はいますが、ほとんどの社員は自家用車で通勤しています。最初は、会社の筒井寮の裏にあった広場を仮の駐車場にしていました。かつて会社の正門に向かって右手の方には社宅が建ち並んでいましたが、現在は駐車場になっています。」

ク 鉄道とバス
 
 「私(藤野美智子さん)は普段は1人でお店をしていたので、松山へ出かける機会はあまりありませんでした。派出所と商店の向かい側辺りにバスの停留所があり、松山方面にも伊予市方面にも行くことができ、昔は1日の本数もまずまずありました(図表1-1-3の㋝参照)。しかし、バスは出発予定時刻に遅れることも多く、家から伊予鉄の松前駅まで徒歩で10分くらいだったので、たまに松山へ出かけるようなときには、私はバスよりも電車を利用していました。」

ケ 人々の楽しみ

 「この辺りでは、テレビが普及するまでは娯楽といえば映画とラジオくらいのものでした。松前町には第一大坪座という映画館と、第二大坪座という芝居専門の劇場がありました。第二大坪座には、旅回りの役者さんがよく来られていて、この辺りの人たちはよく観(み)に行っていました。第一大坪座の最後のころは、映画を2本立てで上映することが多かったように思います。私(藤野光央さん)は高校2年生のときに父を亡くしてからは、母を助けようとしてあまり遊ぶ暇がありませんでした。映画館へも時間つぶしに行く程度で、家族で観に行ったことはありません。会社からの帰宅後や休日には、お店の納品や商品への値札付けなどを手伝っていたので、それほど遊びに行く時間はありませんでした。」


図表1-1-3 昭和40年ころの本村の町並み

図表1-1-3 昭和40年ころの本村の町並み

聞き取りにより作成

写真1-1-3 松前駅前から浜交差点を望む

写真1-1-3 松前駅前から浜交差点を望む

平成29年12月撮影