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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)路傍の神仏②

 新城では、昭和35、6年ごろまであった町道沿いに、お堂が2か所あった。北側のお堂をオクヨウサマ(お供養さま)と言い、南側のお堂をオジゾウサマと言う。この道を歩く人が休むのに使うとか、お堂の近くにいる人が骨休めに使うとかしていた。むら全体で拝むということはなく、近所の人や通り掛かりの人が拝んでいたそうである。圃場整備のためにこの町道がなくなるので、オジゾウサマはお祓(はら)いをしてお堂を県道筋の現在地に移転したという。オクヨウサマは農道沿いにあったためそのまま残されている(写真3-2-35参照)。
 また、集落の中ほどで、県道から少し入ったところに新城集会所があり、並んで阿弥陀堂がある。**さんの少年時代の思い出話によると、「そこにはムクノキなど大きな木があった。阿弥陀堂と同じ敷地の中に居宅があって、キョウデンサンという山伏・行者がお堂を管理していた。知識者で、田之筋中の人から尊敬されていた人なんでしょう、実は、わたしの兄弟7人の名付親なんです。」**さんは現状を次のように語る。「4月8日に甘茶を供える人がある。新城全体での行事はない。近辺の人がオヒカリ(灯明)をあげ、拝むことはしとんなさる(していらっしゃる)。お堂はむらで修復し、管理している。」と語る。
 このほかに、農道の脇にビシャモンサマ(毘沙門さま)が祭られている。例年7月1日の山開きで、烏殿に登らない年はこのビシャモンサマにお供えし、拝礼することになっているそうである。また、むらがかかわりをもつものとして**さんは、「リュウオウサマ(竜王さま)が夫婦(めおと)池の端の出島にあって、むらが管理しとります(写真3-2-36参照)。また、その東北に当たる山の中にヤマノカミサマ(山の神さま)が祀られています。このリュウオウサマとヤマノカミサマにはむら人がお参りに行くことはないが、年行事が年末におしめ飾りと餅を供えることになっとります。」と語る。

 イ 共同祈願

 共同祈願とは、むらの成員の利害が一致したものについて行う呪術的行為で、毎年定期的に行われ、災難が降りかかったときには臨時に行う。雨乞い、天気祭り(長雨の際、晴天を祈る祭)、虫送り、風(かざ)祭り(風を鎮めるため二百十日前後に行う祭)などがある(⑩)。

 (ア)大三島町明日

 大山祇神社の火取神事、土用参りともいう虫除けの火縄(*41)について、皆さんの話をまとめると次のようである。夏の土用(立秋の前18日間)には、むらの総代が、隣の宮浦に鎮座する大山祇神社(写真3-2-37参照)に行き御祈禱を受け、本殿に燃え続ける常灯の火から持っていった火縄に火種をいただく。総代がむらに立ち戻るのを、むら人は現在の農協のところで待ち受け、火種の付いた火縄をもらう。**さんの話。「火縄は総代場で構えて(準備して)いて、10cmほどに切って小分けしてもらう。遠い人は長く、近くの人は短く切ってもらう。火縄はヒノキの皮をたたいて、縄にしているんでなかなか消えんのです。それを家に持って帰って、手に持つと危ないけん、先を割った竹にはさけて(はさんで)、田の縁を回ったり、田へ持って入ったりした。」
 時代を超えて変わらないという虫送り行事がある。今年(平成10年)は5月10日が虫送り、11日が念仏の結願(けちがん)、12日が農休日であった。虫送りの当日は、昌福寺で住職の読経と参拝者の数珠繰りの虫祈禱をしてもらった後、一人がわら舟(毎年決まった人に小麦のわらで作ってもらう。)を一輪車に乗せて、一人が鉦をたたいて舟の来たことを知らせながら、明日中を回る。舟は小麦わらで作り、舶先(へさき)に「虫送丸」と記した帆柱(半紙)を立て、左右の舷側(げんそく)にはジャガイモとタマネギに顔を描き、半紙を切り抜いて作った人形を乗せている。鉦の音を聞き付けた人たちは、スイカ・ナス・カボチャなど虫の食った野菜の葉を数枚大きい葉で包み、舟に乗せる。明日中を回り終えた二人は、午後1時ころ、海辺に出てこの舟を沖へ流す。虫送りは明日全体の行事として行われているが、虫祈禱や舟の流しにはむらの人は直接にはあまり参加していないそうである(⑪)。
 雨乞いについては、大山祇神社へ参けいしたほか、元気な人が昼夜交代で大滝山山頂にあったリュウオウサン(竜王さん)の祠にも出向いていた記憶があるという。

 (イ)北条市猿川原

 かつては例年9月1日に、猿川原全体で参加できるものが出る五社参りがあったという。まず朝から、猿川原の紀貫之神社を振り出しに、北条市高田の高田神社、北条市八反地(はったんじ)の総氏神である国津比古命(くにつひこのみこと)神社、ついで隣接の櫛玉比売命(くしたまひめのみこと)神社などに参り、最後に北条市辻の鹿島(かしま)神社(写真3-2-38参照)に参けいして、お神酒をいただくとのことである。隣村の尾儀原や才之原では今日でもやっているとのことであるが、猿川原では戦後になってやめてしまったという。**さんは、「戦時中は、武運を祈るため、五社参りや八社参りを盛んにやりよった。月に一遍ずつやっていた。松山の還熊(かえりぐま)八幡(神社)などにも行きました。」と語る。八社とは、先の五社に北条市磯河内にある宇佐八幡神社などを加えたものであるという。
 つぎに、虫祈禱・虫送りの行事について思い出を語ってもらった。例年、土用の入りの日に、虫祈禱・虫送りを行っていた。この日はむらの大人が全員蓮生寺(写真3-2-39参照)に集まって念仏をする。12時、本堂で住職による虫除けの祈禱がある。この大人たちの勤めが終わるころまでに、子供たちは寺の境内に集まってくる。祈禱のために他の寺から来ていた僧侶が孝行息子の話などの法話をしてくれたそうである。大きい子供が太鼓を担ぐ。その太鼓と鉦をたたいて、子供たちは、「イネノムッシャー オークッター(稲の虫は送った) ダイコノムシャー シンダー(大根の虫は死んだ) ナンマイダー ナンマイダー」と唱えながら、寺から田んぼの中を通って、尾儀原との村境まで笹(ささ)を運び、笹を川に流した(写真3-2-40参照)。笹の先には、ワラで作ったさや(さやの形をした入れ物)を付け、その中に虫の弁当になるというおにぎりを入れてつるしていた。「帰りに後ろを向いたら、虫が付くんじゃとか言いよった。」行って帰った子供には煎餅(せんべい)が配られた。その1斗缶の煎餅をもらうのが子供たちには大層楽しみであったという。虫がいなくなり、子供も煎餅などでは喜ばなくなってきたことからか、20年くらい前にやめてしまったそうである。虫祈禱はこれより先の30年くらい前にやめたそうである。**さんは語る。「農薬(パラチオン)が出てきてから、『大三島へ行って火種もろうてきて田で振ったりしても虫は死ぬるか、農薬やれば一遍に死ぬるわい。』と言って、火種も虫祈禱もやめいということになった。けど、祈禱米集めて渡しよるはずじゃから、祈禱は昔からしよるんじゃけん、住職に委せて拝んでもらうが、ただ皆が寄って虫送りやかせいでもええが(虫送りなどはしなくてもよいのではないかと)言うて。」
 雨乞いについても**さんが語る。「昭和6年(1931年)、7年と続けて干ばつがあった。水がないのは堰(せき)が悪かったからでもあった。その時やった雨乞いが猿川原では一番最後じゃった。子供たちが中心で、鉦(各組にある念仏講用のもの)と太鼓(氏神用)をたたいて、蓮生寺から氏神様へ上がって行った。大人は竜王神社(所在地は現在の松山市五明)へ水もらいに行ったと言いよった。」

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 窪における共同祈願の事例を挙げると、まず、現在でも行われているものとして病気ゴモリがある。**さんは、「どこかの家で病人が出て危篤に近いというようなときに、各家から一人くらいの人が出て、金毘羅さまへ行き、太鼓をたたいて病気平癒のお願いをやります。」と語る。次に、昭和6、7年(1931、2年)くらいまで行われたものとして、虫送りの行事があったという。「大人が中心になって、たいまつをこしらえ、元気な人は皆、鉦をたたいて田の畦道(あぜみち)を通り、河原まで行ってたいまつを投げ棄てて燃やした。」とも語る。この虫送りについて、昭和初期に窪で少年時代を過ごし、**さんや**さんが親しくしていたという友人の回想記の一部を紹介する。「夏の中ごろから終わりにかけて数回虫送りの行事がむら中総出で行われました。窪では奥の溜池(ためいけ)よりさらに奥にある山田から松明(たいまつ)に火をつけて虫を引き寄せながら川沿いに下りました。人家近くになって田んぼが広くなってくると、人数を増やし松明の行列を数列に分けて、鉦を打ち鳴らしながら、伊崎との境を流れる岩瀬川(写真3-2-41参照)を下っていきました。そして松明の残りを堰(せき)の上の草むらに投げ棄てておしまいでした。帰りは真っ暗で手探りで帰りました。鉦は念仏踊りの鳴り物に使う真鍮(しんちゅう)でできた直径20cm余りの丸いものでした。その鉦の音は遠くまで響き、ぼくはその鉦の音を聞くたびに、なぜか寂しく物悲しくなりました。(⑫)」
 また、**さんが経験者としての雨乞いを語った。「戦後の昭和21年(1946年)か22年かに大干ばつがあり、雨乞いをわたしらもやりました。お伊勢山の山頂まで太鼓や鉦をかたいで(かついで)上げてたたき、そこでかがり火を焚(た)いて、お太夫さんを雇うて御祈祷をしてもらう。一昼夜ですけんな。晩方上がって、明くる日の晩に下りる。雨が降らなんだら降るまで続けるんですな。」窪のお伊勢山は集落の東背後にある小山である(口絵参照)。
 「雨乞いは、常定寺の人は真向かいの伊勢山に登りよりました。しかし、わたしが常定寺に来てからは記憶にありません。」と**さんは記憶をたどるが、虫送りについても記憶がないという。常定寺の伊勢山は窪の西方、伊崎にあって、烏殿(からすでん)(写真3-2-42参照)と連なって稜線(りょうせん)を形成する山である。
 新城でもかつて雨乞いをしたと**さんが経験を語る。「むらの人がかがり火を持って烏殿に登り、頂上で鉦や太鼓をたたいてナンマイダを唱え、朝までやって雨が降らなんだら昼までやる。終戦前のわたしが17、8歳のとき、おやじの代わりに雨乞いに行った記憶がある。終戦後は、まず最初に夫婦池の近くのヤマノカミサマ(写真3-2-43参照)で祈禱して、雨が降らんときに山へ上がりよった。昭和42年(1967年)の干ばつのときはわたしは副区長やった。わたしは『もうそないなこと(雨乞いをすること)いけるかや。』言うて、松山市ヘパイプを買いにいき、補助金をもらってエンジンを買い、井戸の水をくみ上げた。その時にある人が『今ごろの若い者はがいなのう(いいかげんなものだ)。ナンマイダすらへんぞ(さえしないぞ)。』と言いなはったのを覚えている。」虫送りについては格別の記憶はないそうである。


*41:竹・檜皮の繊維または木綿糸を縄にない、これに硝石を吸収させたもの。

写真3-2-35 オクヨウサマ

写真3-2-35 オクヨウサマ

堂の左奥から右奥に延びる草地が、かつての町道の一部である。平成10年11月撮影

写真3-2-36 リュウオウサマ

写真3-2-36 リュウオウサマ

奥に見えるのが夫婦池である。平成10年11月撮影

写真3-2-37 大山祗神社

写真3-2-37 大山祗神社

式内社で伊予の一宮、旧国幣大社であった。平成10年10月撮影

写真3-2-38 北条市辻の鹿島神社

写真3-2-38 北条市辻の鹿島神社

沖合いに浮かぶ鹿島。左山ろくに鹿島神社がある。平成10年11月撮影

写真3-2-39 蓮生寺

写真3-2-39 蓮生寺

山門と本堂。平成10年9月撮影

写真3-2-40 立岩川と小山田川との合流点

写真3-2-40 立岩川と小山田川との合流点

左から小山田川、右からは立岩川が合流。笹を流した村境である。平成10年9月撮影

写真3-2-41 岩瀬川

写真3-2-41 岩瀬川

村境の恵比須橋より上流を見る。川の正面奥は、岩瀬川(左)と深山川(右)の合流点であり、集落は宇和町田野中である。平成10年11月撮影

写真3-2-42 烏殿

写真3-2-42 烏殿

左奥の集落は新城の一部。平成10年11月撮影

写真3-2-43 ヤマノカミサマ

写真3-2-43 ヤマノカミサマ

平成10年11月撮影