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愛媛のくらし(平成10年度)

(1)路傍の神仏①

 ア むらの神仏

 むらの生活は寺や神社といった宗教施設を中心に行われている。しかし、寺がないため小規模の堂、庵(いおり)(俗にいうお堂)を中心にして活動しているところもある。そのほか、小さな祠(ほこら)や石像、石仏など村人が祀(まつ)る多様な神仏がある(⑩)。

 (ア)大三島町明日

 むら人の大部分が集落のほぼ中央部の和田条に位置する曹洞宗昌福寺の檀徒である。
 氏神は、集落の西端の浜条にあって、宮浦港に南面する小高い地点に鎮座する明日八幡神社である。例祭は旧暦の8月14、15日、祭礼の方法は頭組(とうぐみ)という宮座が構成され、頭屋または宿と呼ばれる世話役の家を設けて、祭礼が行われている。慣例として、宮座は6軒1組で順に回るしきたりであり、「頭屋の宿」は6軒の内から1軒が選ばれる。選ぶには、屋敷地の広さ、家柄、顔役などさまざまな条件でみたり、くじ引きをするなどいろいろだという。宿には青竹に御幣(ごへい)、しめ縄が設けられる。子供みこしと、獅子舞(ししまい)が軒別に巡回する。宿はその賄いに当たる(⑪)。
 大三島町の玄関口、宮浦港の港務所から直線で約600mの所にイツクシマサン(厳島神社)がある。かつてはここが海岸線であったという。昭和53年(1978年)に海岸の堤防が決壊したとき、そこまで海水が入ったことがあるという。月に1回は、大山祇神社から神職が来て祝詞をあげている。大山祇神社の飛地境内(とびちけいだい)神社である。**さんの話、「明日は田の多い方で新田が5町ですね。いっときは、そのイツクシマサンまで米を作りよった。明日は割合米があったのに、米が少なかったのは隣の大見です。」
 ミコノミヤサン(御子宮神社)も大山祗神社の飛地境内神社である。ここにも太夫さんが月に1回祝詞をあげに来るそうである。ハジゾウサン(歯地蔵さん)は、宮浦境との歯象にあって、干拓地に沿った小道の脇に祀(まつ)られている(写真3-2-25参照)。かつては祠があったそうだが今はない。昔から歯の神さんとして歯が傷むときは拝んでいたそうである。そこには「四十九の墓」から転げ落ちてきたという墓石の類も並べられている。明日としての格別の祭りはないという。
 ガンジャ条に「お堂」の跡がある。今は個人の所有地である。明治の終わりころ、神仏混淆(しんぶつこんこう)をやめるので1か所に集めたとか、財政問題があったとかいう。お堂は昌福寺境内に移され、9体の木造仏が安置されている。お堂は寺の境内にあるが寺は関与せず、建物などはむらが管理している。かつてはこの建物が老人たちの集会所であったという。現在、四十八夜念仏講のときだけお参りをするという。
 特異な信仰としてあったゴロクサンについては先に触れたので省略する。

 (イ)北条市猿川原

 むら人はほとんど、集落の中心奥にある真言宗醍醐(だいご)派の蓮生寺の檀徒である。氏神は堂ノ山にある紀貫之神社である。
 むらの本谷地区に入ると、道角の家屋に付設したような小さな地蔵堂があって、3体の地蔵が祀られている。両端の2体は子育て地蔵、中央にあるのがシュンダカ地蔵である(写真3-2-27参照)。地蔵堂はかつては、近くに今も残る常夜灯の横に四本柱のお堂として独立していたが、道路の拡張工事のために取り壊されたため、現在地にお堂を設けたとのことである。
 その地蔵について、**さんは祖父(明治元年〔1868年〕生まれ)から次のようないわれを聞いている。「昔、腕白小僧らが遊び場がないんで、お地蔵さんとこで遊びよった。そして男の子らが、お地蔵さんの頭に、『シュンダカ、シュンダカ』言うて、小便をかけよったんですと。それを母親が見つけて、『罰当たりのことする、ここでは遊ばれん。』言うて、遊びに行かさなんだら子供に熱が出た。お地蔵さんが夢枕に立ってね、『あれはわしに名前を付けてくれよるんで、わしは子供が好きじゃけん、遊びによこしてくれ。』言うた。熱が3日たっても下がらんかったんが、お断りをして遊びに行かしたら熱が下がったいうてね。それでシュンダカ地蔵と呼ばれるようになった。」また、**さんも、「私も同じ話をこの蓮生寺のおばあさんから、子供の時分に聞いた。このごろ若い人の災難が多いので、わしはなんとかして元のように常夜灯のへりに四本柱建てて、あの地蔵さんを祀らないかんと今に思うんですが。」と語る。
 むらの南方、堂ノ山にオセキドウサン(お石堂さん)が祀られている。8月24日のうら盆にはむらの人が集まって念仏をする。修復されたお堂の中に、五輪塔(*35)3基、宝篋印塔(ほうきょういんとう)(*36)2基が納められている(写真3-2-28参照)。付近に紀貫之神社があるところからか、地元では古くから紀貫之さんの墓という伝えがあったようである。『伊豫国風早郡地誌』には、「墳墓 紀貫之ノ墓 村ノ南方弍町弍拾弍間字堂ノ山ニアリ、墓ニアリ、各五輪塔ヲ設ケ文字ナク莓苔(ばいたい)(こけ)之ヲ蝕シ執(いず)レカ貫之タルヲ知ラス、傍(かたわ)ラニ一小墳アリ、亦(また)何者ノ墓タルヲ知可(しるべ)カラス」とある。しかし、今日では、『宇和旧記(*37)』が伝え、『伊豫温故録(*38)』が述べている「俚諺(りげん)集に云ふ、宇和郡土居村甲森城主紀實平、都より下向の時猿川原にて病死す、遺骨を土居村に送り下谷という所にて一社に祭りけるよし、此の村にて貫之といへるは實平の事を聞惑て伝えるや」の説をとって、紀貫之の墓ではないとしているようである。
 むらの西方、舟ヶ谷にセンゾサン(先祖さん、千人塚ともいう)が祀られている。ここでも、8月15日にむらの人が集まって念仏をする。「ここはもともと古戦場で、999人の兵士が死んだが一人足りんので、馬1頭入れて、千人塚にしたところということを聞いとる。」
 「刀やつぼがだいぶ出るし、もともとは古墳で塚穴があったんです。」
 「今はミカン山になっとりますが、もともと古墳が事実あったんです。崩れたもんで、石を山のように集めている。8月15日にむらとしてお祭りしている。」
 「子供の時分、首なし馬が出る出ると言いよった。たくさん血が流れとるけん、あそこの水は飲まれん、飲んだら腹が痛くなると言うとった。舟ヶ谷は飲まずの谷とも言うんです。」
 むらの中央、王子ヶ原にオフドウサン(お不動さん)が祀られていて(写真3-2-30参照)、うら盆の8月24日にやはり念仏をする。
 以上のほかに、先述のように村境を示すものとして、六地蔵が2か所にあって、むらで管理している。
 そこで、**さんに現在のお祭りの状況について語ってもらった。「お祭りは1か所、1か所ですべてでやるんじゃなしに、全体の部分を何か所かに分けてそこそこお参りしたとしてやります。お祭りまでに組長が当番でそれぞれの所を掃除する。むらの行事としては、8月13日、14日に蓮生寺でお祭りします。場所はお寺でするんだけど、そこそこにお参りしたとして何か所(むらの墓と6か所の地蔵)か含めてやりますよという意味でやります。15日の朝にセンゾサンでやり、17日は寺の行事があって、24日のうら盆の日には、オセキドウサン1か所で、何か所かの分(オフドウサン、シュンダカ地蔵など)を申し上げる。」

 (ウ)宇和町窪・常定寺・新城

 窪では、むら人の大部分は南隣に所在する常定寺の檀徒である。氏神は金刀比羅神社(写真3-2-31参照)、祭礼は春と秋にあるが、辻に幟(のぼり)を立てることだけである。以前は太夫さんを雇ってきてもらっていたが、祭事もなくなり、親戚を招待することもなくなったという。氏神が金刀比羅神社になったいきさつについて、**さんが次のように語る。「もともとは氏神さんは熊野神社だったが、明治の終わりごろ、金刀比羅神社に合祀(ごうし)(*39)したんです。ところが、昭和18、9年(1943、4年)の戦時中に無格社(*40)ではお祭りができんということで、お上(かみ)からの指示があって北隣の平野にある三島神社(村社)に熊野神社の御神霊を合祀した。それで、窪と平野が金出し合うて三島神社の財産をこしらえたんです。田が2反余り、米が10俵取れるけんな。その財産からの収入でお祭りをすることになった。わたしがやったんです。年に2回春と秋に太夫を呼んで、社寺係が賄いをして、むらの人はお参りしよりました。終戦後の昭和24、5年(1949、50年)ごろに御神霊を連れて帰ってまた金刀比羅神社に安置した。財産分けもしたんですわい。この田も農地改革で処分したんです。」
 また、総氏神は宇和町東多田にある八幡神社である(写真3-2-32参照)。古くから氏子としての勤めを果たして祭りに参加しており、戦前は盛大な祭りであったという。戦後も昭和24年ころまでは、お練りのオナガイ(4mくらいの毛槍)10本をかついで中山寺(ちゅうさんじ) 越えして祭礼に参列していた。しかし、社殿の再建の寄付や祭りの費用負担などを求められ、それをきっかけに経済負担が大きいことやむらに氏神があることなどで、独立しようということになって氏子をやめて今日に至っているとのことである。刀や衣装など立派な練りの道具があった。一時、宇和町野田に貸し出していて、オナガイの棒だけ戻ってきたという。
 常定寺地区はほとんどが常定寺の檀徒である。氏神は三島神社で春と秋の年2回祭礼がある。総氏神は窪と同じ東多田の八幡神社で、**さんは子供のころ祭礼に1、2回行ったことがあるという。
 新城は、むら人の大部分が南隣の明石(あげいし)に所在する明光(めいこう)寺の檀徒である。氏神は新田神社で、祭日は11月17日である。昔は大勢の参拝があったそうであるが、今はただ会長と二人の神社総代が参列し、総氏神三島神社から来てもらうお太夫さんが太鼓をたたいて祭事をして、その後、直会(なおらい)をするだけになっているという。供物などは年行事が用意するとのことである。村人は祭りのごちそうのことをオモシと言っていた。例えば「今晩はオモシじゃけん。」という具合である。
 総氏神は宇和町卯之町にある三島神社である(写真3-2-33参照)。「三島神社の祭りは10月22日で、そのときにはそれぞれ地区ごとに役割があるんですよ。新城は昔から五つ鹿をやってきた。ところが戦後、金がかかるんで五つ鹿をやめて、氏子をのいとったんですが、またどうしても出てくれということになって、鉾(ほこ)かつぎをすることになった。しかし、やっぱり五つ鹿もないと寂しいぞということになって、有志(保存会)に出てもらうようになった。最近は、五つ鹿は復活して盛んになった。」という。
 窪には金刀比羅神社の門前に昭和30年(1955年)ころまでお堂があった。建物は朽ちて取り除かれ、今そこには、宝暦7年(1757年)の銘がある台石の上に石造の地蔵が祀られている。さらに、そこから奥に入るとオヤマノカミサマ(お山の神さま、写真3-2-34参照)、さらに奥へ入るとギュウバノカミサマ(牛馬の神さま)が祀られている。**さんが現役の村役であったころは、それぞれ別々にオコモリをしていたそうだが、今はまとめてヤマノカミのオコモリとして、1月にむら中が集まってやるそうである。なお、このオヤマノカミサマには、むらの人が古くなった守り札とかしめ飾りを積み上げている。ほかに上組の祭り神がある。昔は上組で祀り、窪中でオコモリをしていたそうだが、いつしか絶えて、今は**さんが主にお祀りしているとのことである。
 常定寺には、旧町道の道端に祠のあるオジゾウサンがあった。昭和58年ころ隣家の人が家を建てるときに、拝んでもらってお寺(常定寺)に移したという。


*35:地・水・火・風・空の五大(ごだい)にかたどった五つの部分からなる塔。供養塔、墓碑塔として用いられる。
*36:宝篋印陀羅尼を納める塔。供養塔、墓碑塔としても建てられる。
*37:天和元年(1681年)に宇和島藩士井関盛英が編述した地誌。中世における宇和西園寺氏及びその家臣の統治範囲ごとに
  区分し、郷村の状況、寺社及び旧跡の由来等について述べたもの。
*38:宮脇通赫が明治27年(1894年)に刊行した地誌。社寺の由緒、伝記、旧跡、名所、古城、古墓等の伝説及び詩歌その他
  地方古老の口碑、伝聞等を収集している。
*39:二柱以上の神を一社に合わせまつること。
*40:神社の格式の一つ。明治4年(1871年)の太政官布告は、大・中・小の官幣社、別格官幣社、大・中・小の国幣社、
  府・県・郷・村社及び無格社に分けた。昭和20年(1945年)に廃止された。

写真3-2-25 ハジゾウサン

写真3-2-25 ハジゾウサン

木の根元にあるのがハジゾウサン。平成10年10月撮影

写真3-2-27 シュンダカ地蔵

写真3-2-27 シュンダカ地蔵

3体のうち、中央がシュンダカ地蔵。平成10年9月撮影

写真3-2-28 オセキドウサン

写真3-2-28 オセキドウサン

平成10年9月撮影

写真3-2-30 オフドウサン

写真3-2-30 オフドウサン

左から水路、右から小川が交わる台地上に祀られている。平成10年9月撮影

写真3-2-31 窪の氏神、金刀比羅神社

写真3-2-31 窪の氏神、金刀比羅神社

中央奥が本殿。平成10年11月撮影

写真3-2-32 宇和町東多田の八幡神社

写真3-2-32 宇和町東多田の八幡神社

拝殿(右)と本殿(左)。岩崎山にあって、岩崎八幡とも呼ばれる。平成10年11月撮影

写真3-2-33 宇和町卯之町の三島神社拝殿

写真3-2-33 宇和町卯之町の三島神社拝殿

もと当地の領主西園寺氏の氏神、社地を示す旧神領村の丘にある。平成10年11月撮影

写真3-2-34 オヤマノカミサマ

写真3-2-34 オヤマノカミサマ

岩陰に祀られ、付近には守り札が置かれている。平成10年10月撮影