データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛のくらし(平成10年度)

(2)頭屋(とうや)の一年

 頭屋とは、神社の祭りや同族神、講などの神事や行事の世話人またはその家のことで、当屋とも書く。オトウ、オトウヤともいう。一般に祭祀を頭屋制で行っているのは、今治市、東予市、越智郡、周桑郡地域に特徴的な習俗である(⑦⑬)。
 ここでは、東予市周布(しゅう)にある「周敷(すふ)神社」の例祭における頭屋制について探ることとした。なお、当地では、頭屋のことをトウモト(当元)と称している。
 **さん(東予市周布 大正7年生まれ 80歳)
 **さん(東予市周布 昭和2年生まれ 71歳)
 **さん(東予市周布 昭和7年生まれ 66歳)

 ア 周敷神社の例祭

 周敷神社は、周桑平野の中央部、中山川の左岸に形成された扇状地の扇端部に位置する穀倉地帯にある、東予市周布字本郷に所在する。この地域は古くから開けた所で、太政官道(だいじょうかんどう)の一つである南海道(*42)の周敷駅や郡家(ぐんけ)(*43)がこの社の付近にあったと推定されている。周敷神社は『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)(*44)』にある桑村(くわむら)郡三座のうちの一社である(⑭)。
 『式内県社周敷神社御由緒調査書』によると、「享保7年(1722年)4月西條藩ノ格社ニ列セラレ、新居(にい)郡伊曾乃(いその)神社(現西条市)、宇摩(うま)郡村山神社卜共二六社ト称ス 時ノ藩主松平左京太夫頼安高二石ヲ寄付セラレタリ」とあり、その後藩主が在国のときには社参し、毎年の例祭には藩主の代参が行われたと記されている(⑭)。
 例祭は、現在は10月15、16日であるが、記録を見ると、江戸時代には9月11日に行われ、明治以降終戦までは旧暦の9月11、12日に行われている(⑭)。
 周敷神社は、明治5年(1872年)郷社となり、明治14年(1881年)県社とされた。氏子は旧周布村と旧北條村西光寺で(いずれも現在は東予市)、『西條誌(*45)』には315軒とあり、現在は約500戸あるという(⑭)。
 **さんの説明では、現在行われている例祭は次のとおりである。

   周敷神社例祭次第(現行のもの)

     6:30   例祭式(本社)
     7:00   宮出し
     7:20~  行宮(あんぐう)式(御旅所(おたびしょ)式)
     8:00~  御巡幸
     12:00   トウモト(当元)の式
     13:00~  御巡幸
     18:00   宮入り(御入社式)


   周敷神社例祭次第『大正3年周敷神社日記』より作成

     早旦    例祭
     10:00   出御式
     12:00   行宮式
     15:00   御駐輿式
     18:30   還御式


 「できるだけ祭祀は変わらないようにしている。しかし、昔の記録を見ると、全体の時間帯が短いんですね。明治32年(1899年)の記録では、12時に宮出しをして御入社が18時で、6時間で終わっとるでしょう。年によって若干は違いますが、お巡りになる道路の関係や氏子の数が少ないことで行程が短かった。今は回りかねとるん(回るのに苦労しているの)ですが。戦前、私が例祭を最後に見たのは昭和14年(1939年)ですが、神輿(しんよ)が今のより大きかったし、農道は狭いし、畦道(あぜみち)からはみ出して田へ入り、イネを踏み倒したりした。昭和25年ころから見ると、道はようなったが家数が増えた。家の門(かど)まではずっと回ることになっとる。それで時間がかかるんです。」

 イ トウモトの決定

 「昔は、トウモトは家柄とか財産とか条件があったらしい。終戦後は民主化した。」と**さんは語る。現在は、氏子の組織は旭(あさひ)・本郷(ほんごう)・久枝(さえだ)の三つの大部落単位に分けられており、その単位で各年順番にトウモトを一人選出する。なお、旭には周布新出(しゅふしんで)・富岡(とみおか)・貝田(かいだ)・横田(よこた)・天神(てんじん)の五つ、本郷は東本郷・西本郷の二つ、久枝には久枝・幸(さい)の木(き)の二つのそれぞれ小部落がある。
 平成10年6月、神社総代会が開かれた。会では、今年トウモトを出すのは旭の順番であるが、とくに旭のうち富岡・横田にしぼってトウモトを人選するようにと、同地区から出ている総代に人選を一任したそうである。**さんはトウモトを引き受けたいきさつについて次のように語る。「総代さんは最初、富岡在住のある人へ頼んでいったようなんよ。ところが、ちょうど祭りのころは稲刈りの時期になるんで忙しいと言うて断られたらしい。それで二番手で私のとこへお鉢が回ってきた。7月の終わりのころだったと思う。すぐには返事ができだったん(できなかった)ですけどね。人がいろいろ来て話をしてくれたんで、1週間くらい考えてやらしてもらおうかと思いまして、引き受けを決心した。私は2、3年前に家を新築したんです。聞くところでは、家を新築した所へ地区の宮総代さんがお願いに来るらしいんよ。」ちなみに、**さんは横田在住である。古く明治のころに**さんの母親の実家では、トウモトをしたことがあるそうである。お盆前の8月初めに、**さんは今年のトウモトになることを承諾したという。
 トウモトになることはたいへん名誉なことだといわれるが、一方では経費の負担が多く、たいへんな役であるともいう。**さんの家では、大正時代(1912~26年)に曾(そう)祖父、昭和4年(1929年)に祖父、昭和25年(1950年)に父、平成元年には**さん自身と4代4回にわたって、このたいへんな役であるトウモトを務めてきている。**さんはとりわけ、父がトウモトをした昭和25年当時のことについて、強い印象を持っているようである。それを回顧して語ってもらう。「トウモトのとこへは車太鼓(くるまだいこ)とだんじり(楽車)と神輿のかき手が全部来るわけよね(写真3-2-46参照)。うちが昭和25年にやったときには、全部で120人くらいおっとろうか、それを賄うたね。お菜がいる。おこわ(赤飯)やおすしを握ってのう、食わしよったんよ。準備は貝田の人に手伝ってもらう。場所は当時家には広さが幅3間(1間は1.8m)に長さ10間の倉庫があったんで、そこへござ敷いて100人くらい入ってもろうたんです。そやけん(そうだから)、昔は資産家で家屋敷も広いという家をトウモトに選んだわけよ。昔はだいたい決まっとったんじゃね。」また、**さんは、「巡幸に参加する人たちにお賄いするんがトウモトの当たり前の責任じゃった。だから、『トウモトするんじゃったら、田へ一畝(ひとうね)作っとかな(経費用に余分にイネを植えておかねばならないという意味)。』と年寄りは言いよったものよ。」と続ける。
 しかし、現在では、こうしたトウモトの役割は大幅に簡素化されているようである。「それまではトウモトが賄いしよったけど、だれでもがトウモトができるようにと昭和30年(1955年)ごろ改革したように思う。」と**さんが顧みる。
 この背景には、祭りを担うむら社会の変化がある。農地改革によってかつての資産家、地主層が姿を消したこと、家族制度の解体と核家族化、祭事を担う若者組・青年団の衰退、神社祭祀に対する意識の変化など様々な要因が挙げられよう。祭りの様相の中にその変化を具体的に見ると、まず、昭和30年過ぎに神輿のかき手がむら全体の青年団から部落回し(神輿の入った小部落ごとにその住民が神輿を担ぐ)に変わった。昭和25年当時の話、「その当時青年団というのがあってね、むら全体で60人くらいおったと思うんじゃ。それを神社の前に背の高い順に並ばしてね。16人1班で3班に分け、巡幸全部神輿をかきよったからね。神輿が部落回しになったんは昭和30年過ぎくらいからか。」と**さんが言う。当時青年団員であった**さんは「神輿の前を8人、後ろを8人でかきよった。幹部は腕章が違うとったね。肩の弱い人がいると、幹部が助けに入ってくれたりした。終戦後までは、盆がすんだら『神さんかかないかんけん、肩鍛えとかんといかん。』言うて、塩田作業に行きよったですが。昭和30年過ぎごろじゃなかろうか、高校へようけ行きかけたんじゃ。それで青年団に入らず、青年団員は順々に少ななるしね。」と直面した変化を語る。**さんもまた、「青年団がかつぐときは、お宮入りのときにお旅所との間の参道を何回も行き来してなかなかお宮へ入らなかった。今もお巡幸ではほとんどかきますがね、かき手の少ないむらでは小さな台車を付けて押していきます。」と話す。
 神輿巡幸に随行していたお道具持ちも簡素化した。お道具とは祭神がお使いになる諸道具類(膳(ぜん)・櫃(ひつ)・敷物・長刀(なぎなた)・朱塗傘(しゅぬりかさ)など)と随身(ずいじん)の神像の総称で、宰領(さいりょう)を含め23人が担当する(写真3-2-47参照)。担当者は、前年にトウモトを出した大部落から、オクジトリ(神前でくじ引きをすること)によって選ばれる。このお道具持ちが神輿巡幸の全行程に随行する慣行を取り止め、鳥居前にお旅所(行宮)を設けるが、神社からそのお旅所までの参道の間を随行することに改めた。巡幸の神輿のかき手の変化、お道具持ちが随行を短縮してトウモトに立ち寄らないことは、大がかりの賄いをする必要をなくした。

 ウ 例祭の諸準備

 10月の初めに、総代会(10人)・自治会長会(6人)と宮司が入った合同会議が、宮司の社宅で開催される。会議の内容は、諸準備、神輿巡幸の時間帯や経路などについての細部の打ち合わせである。神社総代と自治会長は例祭の当日、終日にわたり祭式や巡幸に携わることになっている。
 まず周敷神社での例祭の諸準備について、戦後、例祭が10月15、16日となると準備の日は10月11日と決められた。しかし、その後例祭日の1週間程度前の大安吉日を選ぶこととなり、現在はそのころの日曜日を選んで実施している。ちなみに、平成10年は10月11日である。神社では神社総代が指揮をとって終日諸準備を行う。「お宮掃除」といって、お宮からお旅所までの参道を氏子が掃除することになっている。また老人クラブが出て、境内社やお旅所にしめ縄を張ったり、大幟(おおのぼり)や幟を立てたりする。なお、巡幸路についてはそれぞれの地域で整備するようである。
 一方、この日にトウモトの家においては、シメアゲ作業とシメアゲ式が行われる。

 エ トウモトの諸準備とシメアゲ式

 前回のトウモトからの引継ぎは格別ないとのことである。いろいろ参考になる話を聞きに行く程度のことであるという。今年のトウモトである**さんは準備を進める。「シメアゲ用にモウソウタケを用意する。わら縄を自分が機械で編みます。タケを組んで鳥居のようにするんです。シメアゲの当日、立てるのは横田の人で、もし人が足りなければ隣の富岡に頼まないかんのです。」と言う。
 平成10年10月11日の午前8時ころから、横田の氏子たちによってシメアゲの作業が始まる。まず、周敷神社境内にあるモウソウタケ、長さ12、3mのものを2本、6、7mのものを2本、3mほどのものを4本を切り出して、トウモトの屋敷地内に運び込む。最も長いタケ2本を約4mの間隔に開け、差し渡しに中ほどのタケを2本重ねて結びつける。差し渡すタケは、柱のタケを立てたときに地上から6mほどの高さになるようにし、笹のついた先が左右に分かれるよう重ねる。その渡したタケにしめ縄を張る。土を掘り下げて2本のタケを柱として立て、その根元を土で巻き、側面に俵を巻き、中に砂を詰め込んで根元を固める。立てたタケを三方から縄で引っ張って支える。縄は切れないように2本の縄をよったものを使う。次に、短い笹竹を四囲に立て、しめ縄を張って、祭場を設営する。盛り砂をし、幣(みてぐら)(神に奉献するもの)、供物机を置き、ござを敷き、設営が終わる。トウモトが神饌(しんせん)(神に供える酒食)を供える。
 正午前後に準備が整ったころ、宮司がトウモトの家に出向く。その屋敷の中で「神様のお泊りの場所が決まりますから、お祓いをします。」ということで、その祭場でシメアゲ式が行われる。着座するのは、神官、神社総代とトウモト及びその家族である。式は、修祓(しゅうふつ)(みそぎを行うこと)、祝詞(祭りの儀式に唱えて祝福することば)を申し上げる、玉串(たまぐし)(サカキの枝に紙をつけて神前にささげるのに用いるもの)を謹んで供えるなどの行事が行われる。式終了後は、祭場から式典用の道具類を撤去して、盛り砂に紙四手(かみしで)(神前に供する玉串やしめ縄などに垂れ下げる紙)のついたサカキを立て、神籬(ひもろぎ)(神の宿るところ)とする。その後、トウモトの座敷において神官と作業に従事した人たちに酒食が振る舞われる。
 トウモトが経費として負担するものは、第一がシメアゲ式における神饌・供物、神官及びシメアゲの設営に当たった村人に提供する酒食、第二には例祭の当日には、事前に用意し愛護班に渡しておく菓子・ジュース類(子供だんじり、樽みこしなどのかき手用)、神前への神饌・供物、神官・総代・自治会長へ提供する吸物、御飯類などだそうである。なお、神官・総代・自治会長には別途に神社の方から折り詰めが提供されることになっているという。
 **宮司の話では、記録によると用意するものに塩水が出てくるとのことで、自身の記憶でも、「例祭の前日、トウモトさんが1升瓶に海水をくんで持ってきた。その塩水で、当日宮司がみそぎをした。」とのことであり、食事についても「おトウモトヘ父親の宮司の弁当を持って行きよった。」という。また、**さんは、昭和25年(1950年)に父親がトウモトを務めた際、自身で海岸へ行って1升瓶に海水をくんできたことがあったと語る。

 オ トウモトの式

 平成10年10月16日が例祭の当日である。午前6時30分から本社拝殿において例祭式が行われ、7時過ぎに神輿の宮出しとなる。この例祭式における一連の儀式の中で、トウモトは玉串を奉って拝礼をする役がある。神輿は137間(約250m)という長い参道を出て、鳥居の脇のお旅所に至る。神輿にはお道具や車太鼓などが随行する。そこで行宮式が挙行される。この式の中においても、トウモトは同じく玉串を奉って拝礼を行う。また、式典では、浦安(うらやす)の舞(*46)や獅子舞(ししまい)が奉納される。行宮の周辺には車太鼓、だんじり、子供みこし、樽みこしが居並んでおり、大勢のむら人が集まってにぎわう。
 式典終了後、予定の経路をたどって旧周布村の中を神輿巡幸となるが、トウモトは自宅に帰り、神輿を出迎える準備に取り掛かる。祭場に神饌を供え、ござを敷いて待つ。正午過ぎ、車太鼓やだんじりなど多数のむら人が待ち受けるトウモトの家に、神輿が迎え入れられる。神輿はあらかじめ設(しつら)えられていた祭場の中央に据えられる。3人の神官とトウモト及びその家族が着座して、トウモトの式が始まる。
 まず太鼓が奏され、修祓、祝詞、トウモトの拝礼、浦安の舞と展開する。式が終わって関係者に酒食が供される間に、だんじりがシメの下をくぐり抜け、庭先に入って祝う。また、奥庭では獅子が乱舞する。恒例の行事が終わると、神輿は再び担がれてトウモトの家を出て、午後の巡幸へと向かう。神輿がトウモトの家にとどまる時間は約1時間である。神輿の宮入りは午後6時過ぎである。
 なお、シメの撤去は翌17日の予定であったが、天候と人手の関係で変更し、当日の午後一挙に行ったということである。これで平成10年のトウモト、**さんの長くて重たい責務は滞りなく終了したのである。


*42:律令制下の行政区画である五畿七道の一つ。紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の六か国の称。都から各道別に道を
  通じた。
*43:郡司またはその役所のこと。7世紀末には全国に設定され、郡の政治経済の中心地となった。
*44:神々の名称を記した帳簿。延喜式巻九・巻十の神名式をいい、毎年祈年祭(としごいのまつり)の幣帛にあずかる五畿
  七道の神社3132座を国郡別に登載する。
*45:西条藩領の地誌。藩命により西条藩儒官日野和煦が編述したもので、天保13年(1842年)に完成。
*46:神事舞の一つ。紀元二千六百年祝典(昭和15年〔1940年〕)の際に作られた。上代の手振りをしのぶ荘重典雅な舞で、
  扇の舞と鈴の舞がある。

写真3-2-46 神輿・だんじり・車太鼓

写真3-2-46 神輿・だんじり・車太鼓

周敷神社の行宮所前にて。神輿(右)、だんじり(中央)、車太鼓(左)。平成10年10月撮影

写真3-2-47 お道具類

写真3-2-47 お道具類

右の建物の側に並べ、あるいは壁に立て掛けている。周敷神社行宮所にて。平成10年10月撮影