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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)進取の気質

 ウワテの暮らしについてお話を聞いた**さんに、「珍しいものがありますが、ご覧になりますか?」と誘われ、彼のあとに続いた。

 ア 三机銀行

 最近新築して引っ越したという**さんのお宅にお邪魔して見せてもらったのは、押し入れの中に鎮座する旧三机銀行の金庫と、当時窓口にあったというランプであった。「創立何周年といった銀行の記念行事の時には、いつもこのランプと一緒にお貸しし、展示されるんです。」という金庫は頑丈そのもので、現在も**家の財産を守り続けている(写真3-2-11、写真3-2-12参照)。
 **さんの夫人**さん(大正7年生まれ 74歳)は、三机村第12代村長伊達兼蔵氏の娘である。「父は、代書業(現在の司法書士に近い仕事)をしておりました。法律などには明かるかったようで、資金はなかったのですが、村の有志に声をかけて、銀行の必要性を説いたようです。」と、話してくれた。伊達氏をはじめ三机の有志が、明治40年に資本金10万円で設立したのが三机銀行である。佐田岬半島の経済の中心地として、三机はもとより遠く貸付のため三崎方面にも支店を出すほどの勢いだったそうで、「三崎のダイダイが今日あるのも、三机銀行のお陰だそうですよ。当時の開祖が、三机銀行から借りた60円を元手に苗木を導入したのが始まりだと聞いております。」と、**さんは金庫をなつかしそうに眺めながら語ってくれた。

 イ 水道組合

 **さんが次に倉庫から取り出して見せてくれたのは、クランク状に継がれた金属製のパイプ(写真3-2-13参照)で、先に古めかしい蛇口がついている。「家を壊したときに、取っておいたんですよ。」といって、ニコニコ顔で手渡してくれた。
 瀬戸町の水道の歴史は古く、アメリカから水道技術を持ち帰った先駆者によって導入されている。大正10年(1911年)に高野宇平氏が大江に、また大正12年(1913年)には山本安吉氏が三机に、それぞれ水道組合を設立している。流水を砂利などで濾過したものを各戸へ配管するという、当時としてはかなり進んだシステムであった。「山本安吉氏の孫にあたる**さんが近所に居りますから、ご案内いたしましょう。」と言った彼は、家を出て数軒先の**さんの家へ導いてくれた。
 **さん(大正12年生まれ 69歳)のお宅の庭先には、布設当時の配管と蛇口が今なお現役で利用されていた(口絵参照)。「当時のままで使っているのは、町内ではおそらくこれが最後でしょう。なんでも、当時伝染病がはやっていたようで、飲み水を衛生的にしなければならないという使命感で、祖父は水道に力を入れていたそうです。当時の水道組合の資料などは、倉庫に残っていたのですが、何年か前に処分してしまいました。こんなことで役に立つのであれば、保存しておけばよかったですね。」と、申し訳なさそうに頭を下げられた。
 また、「物心がついたあとから何度も聞かされた当時の苦労話ですが、祖父は二つ違いの私の姉を背中におぶって、『雪が降っても、鉄管にお湯を掛けてはいけません。少しずつ流し続けてください。』と言いながら、町を歩いたそうです。」と、なつかしそうに語ってくれた。
 **さんによれば、「まだこの当時、日本には鋼管を引き抜いて製造する技術はなかったんです。板状のものを曲げ、丸めて継いだ管にしかできませんでした。だから、このパイプはみな英国製なんですよ。」とのことで、ずいぶん進んだ技術を早々と導入した先見性に感銘を覚えた。

 ウ 電気

 電気が通じたのも大正12年(1923年)という。もっともこれは、佐田岬の灯台をともすために引かれたものであるが、副次的とはいえかなり早い時期から先端技術の恩恵に預かっている。当時の様子について、「電柱や電線は珍しい存在でしたが、時代を先取りしたような嬉しさもあったようです。当時の人々は『電線2本が電波を出すので、これからは化物はいなくなる。』などと言っていたとも聞いております。」と、**さんが説明してくれた。

写真3-2-11 三机銀行のランプ

写真3-2-11 三机銀行のランプ

平成4年11月撮影

写真3-2-12 三机銀行の金庫

写真3-2-12 三机銀行の金庫

平成4年11月撮影

写真3-2-13 三机水道組合の配管

写真3-2-13 三机水道組合の配管

平成4年11月撮影