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宇和海と生活文化(平成4年度)

(4)商家町の心意気

 地名の由来や町の繁栄の歴史からも、三机の由緒正しさが感じられる。この風土が育てた「三机人間」の誇りと心意気を、**さん(大正6年生まれ 75歳)に聞いた。
 **さんの生家は町のよろず屋で、戦争直前には統合された新聞の販売店も引き受けていた。**さんは8人兄弟の上から2番目で、学校を出ると親の知人に連れられて大阪に行儀見習いに出た。昭和6年当時、三机から長浜・三津浜へは定期船があり、船に乗せられて行ったのは覚えているが、「まだ子供の頃ですから、どこをどう行ったのやら、さっぱり覚えていません。」とのことであった。
 同郷の友人などから聞いた当時の標準的な給金は月2円ほどだったのに対して、彼女の場合は「作法を身に付けてもらうだけでもよい」と頼んだらしく、半年で5円しかもらえなかったという。当時の奉公は「口減らし」ができれば何よりというのが一般的な状況であったが、その差があまりにも大きすぎる。5・6年はそこで辛抱したが、20歳になった年、試験を受けて大阪市電の車掌になった。
 女性の車掌は花形の職業で、8人しかいなかった。**さんは当時のことをふりかえって、商人の自信を満面に浮かべて語ってくれた。
 「大阪の町は八百八橋といって、停留所を覚えるのが大変でした。それに、満員のときに切符をさばくのが難しかったんです。それでも私は生まれながら商売人ですから、客扱いはよかったんですよ。顔なじみのお客さんから、お中元やお歳暮用に回数券をまとめて買ってくれる商店を紹介してもらったり、『あの車掌は親切でよかった』と投書してくれる人がいたりで、何度も表彰され報奨金もいただきました。高等学校卒の事務員の月給がだいたい25円でしたが、私は残業手当なども合わせて42円ももらったこともあります。」
 もともと学校の先生になりたかったという**さんだが、弟や妹をかかえる状況では進学はままならなかった。逆に、弟や妹を大阪へ呼び寄せ、学資の面倒をみたそうだ。
 「私が学校へやった弟は戦争で死にました。妹は、優秀な成績で、卒業後はタイピストになったのですが、戦争が始まると三机に帰り処女会長になりました。遠見山に軍の監視所があって、そこまで水を汲んであがるのが処女会の仕事でした。これがきつくて病気になり、『もう一度生かしてくれるなら、お姉ちゃんと過ごした大阪での暮らしがしてみたい。』と言い残して、とうとう死んでしまいました。また、『あんたは、人の子を学校へやるために、この世へ生まれてきたような人やね。』と、亡くなる直前に母は言ってくれました。」
 妹さんと前後して、故郷に戻った**さんは、翌年お父さんが病気になったのを機に店の経営を引き継ぎ、新聞各紙を統合した三机の販売店の初代所長にもなった。昭和40年に愛媛新聞に連載された『三崎半島』にも、「人気のある雑貨商」としてその活躍ぶりが取り上げられている。そして現在も、息子さんに譲った店で元気に手伝っている。
 **さんに、三机という町の性格について話してもらった。
 「この町は、藩政時代から文化の栄えたところでございましょう。参勤交代では、上りの際には宇和島の文化、下りの際には江戸や上方の文化が、入ってきましたから。『三机のお羽織衆』といって、文化レベルの高さを今でも誇りに思っておりますのよ。例えば、イリコひとつとっても、三机のものはちょっと違ったんです。この辺の漁師は、賃に雇われてからだを持っていきましたので、捕れたイワシは、網元から一括してイリコ製造専門の人たちに送られ処理されました。小振の浜は砂ではなく小石ですから、天日で乾燥してもきれいに仕上がったんです。」と、笑顔で語ってくれた。たしかに、先に述べたウワテの集落でのイリコ製造法とは異なり、産業経済システムが確立されていたことが分かる。
 往年の面影はずいぶん薄れたらしいが、「十七軒屋敷」(写真3-2-15参照)と呼ばれる商家の並んだ通りに象徴されるように、町並みも他の集落とは異なって、かつての「交通都市」のにぎわいが感じられる。
 その分生活も派手だったようで、「結婚式の祝儀もよそで3,000~5,000円が相場だったころに1~2万は包んでいましたんですよ。三机村と四ツ浜村との合併のときも、『三机のお羽織衆と一緒になったら食いつぶされる。』といって反対した人もいたと聞いております。もっとも、合併してもそんなことはありませんでしたけれど…」と、ほほえんだ。

写真3-2-15 現在の「十七軒家敷」(三机)

写真3-2-15 現在の「十七軒家敷」(三机)

平成4年11月撮影