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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)むらで集う①

 ア コミュニケーションの場「共同風呂」

 共同風呂は入浴施設を利用者が共同で所有し、世話や利用も共同で行い、湯を沸かす必要のない温泉地の共同浴場(共同湯)とは異なった施設である。この共同風呂は気楽で開放的なため、東宇和(ひがしうわ)郡宇和町(現西予(せいよ)市宇和町)では広い地域で見られた。その数は6地域92か所にも及び、約1,050戸、5,200人以上の人々が利用した。経済的でコミュニティーづくりにも一役買ったが、昭和40年代にはほとんど姿を消した。

 (ア)郷内地区の共同風呂

 西予市宇和町郷内(ごうない)地区の**さん(昭和8年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和5年生まれ)に、共同風呂について聞いた。
 「郷内地区には五つの集落があり、5か所の共同風呂がありました。最も古いのは庵之谷(あんのたに)集落のもので明治30年(1897年)ころに作られたそうです。現在、風呂の建物が残っているのは河附(かわつき)集落と今西(いまにし)集落の2か所だけです。  
 最も大きかったのは城之川(しろのかわ)共同風呂で、32戸、120人ほどが使用していました。入り口を入ると土間の奥が板間の脱衣場となっていて、ロッカーが3段並んでいました。浴槽は長方形のコンクリート製で1.5坪(約5m²)ほどあり、水は湧き水の出る貯水池から手押しポンプで汲(く)み上げていました。月1回ぐらい回ってくる当番のときは非常に忙しかったのですが、子どもたちも薪集めや水汲み、風呂焚(た)きなどよく手伝ってくれました。
 共同風呂は裸の付き合いで本音で話ができて、理解が深まったり、助け合いの心が育っていったと思います。また子どもが良いことをしたときには、地域の大人がみんなで褒(ほ)めてやり、悪いときには分け隔てなく叱(しか)って注意をしたため、子どものしつけの場としても良い環境でした。
 河附共同風呂は23戸、90人あまりが使用していました。風呂の建物は横4間(約7.2m)、縦3間(約5.4m)で、入り口を入った土間と脱衣場には4段のロッカー(写真3-7参照)があり、脱衣場には腰掛けや乳児用のベッドも置かれていました。浴場内の側壁には入浴心得が板に書かれて打ち付けられていました。
 当番の日は子どもたちもよく手伝いましたが、風呂焚(た)きをしながら、トウキビやサツマイモを焼いて食べるのを楽しみにしていました。衛生面の心配はあまりなかったのですが、トラコーマ(伝染性の結膜炎)にかかった子どもは母親が夜遅く連れて行くなど、各自が他人に迷惑をかけないように心掛けていました。多人数入るので、水をどんどん足(た)して夜の10時ころまで沸かし続けていました。残り湯は翌朝女性が洗濯に使いましたが、ここはまた楽しいコミュニケーションの場になっていました。
 今西共同風呂は大正時代に作られましたが、古くなり浴槽も増やしたいので、昭和14年(1939年)に建て替えられました(写真3-9参照)。コンクリート製の角い浴槽と五右衛門風呂(ごえもんぶろ)2個がありましたが、焚き口から最も奥の浴槽は非常に沸きにくくて困りました。
 『嫁さんをもらうなら共同風呂へ行ってもらえ。』とよく言われていましたが、共同風呂に行くと風呂水を粗末にしていないかとか、エチケットが守れているかといったことなどを見て、女性の性格や家庭のしつけなどがよく分かりました。しかしこのように個人の情報が分かり過ぎる欠点はありました。また他所から来たお嫁さんは、恥ずかしがって夜遅く姑(しゅうと)(夫の母)と一緒に入ったり、田植どきに山間地からやってきた女性の田植えさんは、やはり入りにくいので遅くなってから入っていました。この女性たちは混浴の共同風呂に入るのを嫌がり、次の年から田植えに来てくれなかったのには大変困りました。
 そのうち家を建て替えたとき個人風呂を作ったり、薪の工面がつきにくくて組合から脱退する者が出てきて、昭和47年(1972年)ころ自然に廃止になりました。」

 (イ)別所地区の共同風呂

 西予市宇和町別所(べっしょ)地区の**さん(昭和7年生まれ)、**さん(昭和5年生まれ)、**さん(大正12年生まれ)、**さん(昭和6年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)に共同風呂について聞いた。
 「別所地区には共同風呂が1か所あり、昭和初期から昭和53年(1978年)ころまで使用しました。建設された当時個人風呂のあるところは、40戸ぐらいの集落のうち4戸でした。風呂のない家ではもらい風呂や行水などで済ませていたため、垢(あか)だらけの子どもなどもいました。共同風呂は最初6戸くらいで始めたようですが、便利で経費の節約にもなり、農作業で汗をかいた後毎日入ることができて気持ちが良いので、次第に広がっていったようです。
 共同風呂は集落の中心地にあり、2.5間(約4.5m)四方の建物でした。入り口は格子戸になっていて、天井はなく、破風(はふ)のところは湯気が抜けるように穴が開いていました。屋根は最初はトタン屋根だったのですが、昭和30年(1955年)ころにセメント瓦に葺(ふ)き替えられました。煙突は大きくて煙がもくもくと出ていました。風呂水は井戸水をポンプで汲み上げ、2本のタケの樋(とい)で釜に入れました。年寄りがポンプを押していると、若者が気をきかせて交代してくれることもあって助かりましたが、ポンプのパッキン(気密・水密の目的で入れる材料)がよく傷むのには困りました。後には山水を貯水槽に溜(た)め、エスロンパイプで送ったので楽になりました。この簡易水道は今でも7戸が利用しています。
 風呂釜は丸い五右衛門釜で直径が1m近くあり、大きくて大人が一度に3人入れました。鉄の釜は熱いために底板を使いますが、うまく沈めないと浮き上がってしまい、釜に足が当たって飛び出したことも度々ありました。朝早くからたまっている灰などを長い柄の掻(か)き出しを使って出し、掃除をして風呂を沸かすのは女性の仕事でしたが、お年寄りもよく沸かしていました。子どもも小学校の高学年くらいになると、大人があら沸き(ほとんど沸いた状態)した後に続けて沸かすのを手伝いました。
 風呂は夏には1時間足らずで沸きますが、冬は1時間半ほどかかりました。年寄り連中は風呂に入るのを楽しみにしていて、沸くのを待ちかねて早くから入っていました。夜の10時ころまでは当番が沸かしますが、終わりの時間は決まっていないので、焚物(たきもの)を置いておき、遅く入る人は自分で沸かしてから入りました。
 風呂場では年寄りの背中を子どもが流したり、子どもの多いお母さんがいると近所の人が子どもを洗う世話などをして、家族同様の付き合いをしていました。ときには釜の中で話が弾んだり、女性は板間に座りこんで近所の病人の心配をしたり、お菓子の作り方や漬物の漬け方、着物の縫い方などを上手な人から習ったりして、情報交換や学習の場にもなっていました。
 入浴時間はだいたい決まっており、女性や子どもは夕食を終えて遅く入っていました。しかし、混浴のため他所から来たお嫁さんは、『混浴の共同風呂と知っていれば嫁入りしてこなかったのに。』と言って嫌がったり、中学生くらいになった子どもは先生が入っていると恥ずかしがり、『後で入る。』と言って先生が帰った後で入ったりしていました。またときには赤ん坊を入れている最中に排泄物(はいせつぶつ)が浮き、急いでお湯を抜いて新しい水と入れ替えて沸かすというハプニングもありました。
 近所の女性は翌日の当番が風呂の掃除を始めるまでに、バケツを持って行って残り湯を持ち帰り洗濯に使いました。大きなものは風呂場で洗わせてもらいましたが、当番には迷惑をかけないように気を付けました。
 当番の日には、『湯が少ないが今日はどこが当番だ。』とか『今日はあそこが当番か。まだ風呂が沸いてない。』などといった苦情が出ないように注意を払いました。足拭(ふ)きや底板を毎日干したり、排水箇所はぬるぬるするので掃除にも特に気を遣いました。
 共同風呂は人間関係が深まり、地域づくりに役立ったり、当番が月に1回程度で済むために農家の人々が遅くまで農作業に従事することができたり、情報交換や教育・学習の場として心のふれ合いや信頼関係が深まっていくという良さがあったと思います。信念を持って共同風呂の良さをアピールすることができますが、経済情勢や社会的事情の変化によって、『友達の家でも個人風呂を造ったので、うちも造ってほしい。』などと娘からせがまれたり、他のいろいろな理由で1戸抜け、2戸抜けしていくうちにメリットがなくなり、昭和53年(1978年)ころに廃止になってしまいました。」

 (ウ)岩木地区の共同風呂

 西予市宇和町岩木(いわき)地区の**さん(昭和9年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(昭和5年生まれ)、**さん(大正7年生まれ)、**さん(大正13年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)に共同風呂について聞いた。
 「岩木地区でも永らく続いたもらい風呂や行水から、大正末期になると共同風呂を利用する生活に変わりました。共同風呂は12か所にあり、3戸から15戸が隣近所で運営しながら昭和40年(1965年)ころまで利用しました。
 共同風呂は道端にあり、格子戸で中が見えるため恥ずかしかったのを覚えています。風呂釜は1、2個あり、中には直径70cm、深さ60cmほどの小さな風呂釜のところもあったようです。しかし内部の脱衣場や洗い場は、他の集落のものとほとんど似た構造になっていました。風呂水は谷川の水をタケの樋や鉄管で引いて、タンクに入れて使用しました。
 当番は午後3時ころから沸かし始め、5時ころに沸くと拍子木で知らせましたが、何か事のときは午前中から沸かしていました。薪にはダイズやナタネの殻なども使いましたが、養蚕農家はクワの枝や株を使用していたようです。しかし農家でない人は焚物(たきもの)を集めるのが大変で、苦労していました。
 風呂ではお互いに背中を流し合いながら、田畑の農作物や収穫量のこと、病害虫のために行う消毒剤のこと、近所の病気や怪我を負った気の毒な人のこと、子どもや孫の話などをして情報交換の場となっていました。また戦前にはこの共同浴場で出征兵士の連絡などもしていました。
 当番が回ってくると、冬には湯が冷めやすいので気をつけて焚(た)いたり、身体の大きい人が入ると湯があふれ出し、釜の湯が減ってしまうので気を遣いました。焚き口に屋根がないところがあり、雨が降りそうなときは早く焚かないといつ降ってくるか分からないので大変でした。
 共同風呂は互助精神や勘弁(物事をうまくやりくりすること)な心が育ち、組内の人々がうちとけることができるのが長所ではないでしょうか。大正時代に個人風呂を持っていた家で風呂の火が原因の大火があり、これも共同風呂のできた理由の一つになっているといわれています。」

 (エ)伊賀上地区の共同風呂

 西予市宇和町伊賀上(いがじょう)地区の**さん(昭和13年生まれ)始め10名から、共同風呂について聞いた。
 「伊賀上地区の共同風呂は、1~3区、中(なか)組、嶽(たけ)の岩の5か所にあり、52戸、280人ほどが使用しました。4~7区には共同風呂はなかったようです。
 風呂の建物は木造で古く、屋根は3区だけがトタン屋根でしたが、その他は瓦(かわら)屋根でした。風呂釜は五右衛門釜が2~3個ありましたが、利用戸数の少ない嶽の岩共同風呂だけは釜は一つでした。風呂水は井戸水をつるべやポンプで汲み上げ、バケツで運んだり、タケの樋を使って入れました。風呂が少し高かったので上がり段があり、洗い場はコンクリート製でした。また2区では1か月に2回しか当番が回ってこないので、忘れることがあるために、かまぼこ板の表側に黒字で氏名を書き、裏側には赤字で書いてぶら下げておき、当番の日は赤字にしておきました。
 どこの共同風呂も男性は仕事から帰るとすぐに入り、遅く行くと女性ばかりでしたが話が弾んでいました。翌朝子どもを学校に出した後、たらいと洗濯板を持って行って風呂の残り湯で洗濯をしながら、いろいろな世間話などをしました。
 結婚してここに来て慣れるまでは大変抵抗がありましたが、慣れるに従って共同風呂のありがたさがよく解かり、組内の老若男女のふれあいや人間関係の深まり、地域づくりに役立ったと思います。今では懐かしい思い出になっています。」

写真3-7 河附共同風呂の脱衣場

写真3-7 河附共同風呂の脱衣場

西予市宇和町郷内。平成17年7月撮影

写真3-9 今西共同風呂

写真3-9 今西共同風呂

西予市宇和町郷内。平成17年7月撮影