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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)まちで集う

 ア 芝居、映画で心を潤す 

 松山(まつやま)市は昔から遊芸やけいこごとが盛んなところで、演劇や映画を楽しんだり、習いごとをする人々が多くみられた。太平洋戦争前には旧松山市内に二つの劇場と五つの映画館があったが、空襲ですべて消失した。しかし、昭和21年(1946年)ころから劇場や映画館も復興し始め、娯楽に飢えていた多くの市民は演劇や映画を再び楽しむようになった。その後大衆娯楽の中心が演劇から映画に変わるにつれて、劇場も映画館に変わっていった。最盛期を迎えた昭和27年(1952年)ころには映画館は35館を数えたが、テレビの普及とともに、昭和40年代後半になると急速に衰退していった。

 (ア)劇場・映画館あれこれ

 松山市大街道(おおかいどう)で生まれ育ち、現在松山市歩行(かち)町に居住する**さん(大正12年生まれ)に大街道の様子や劇場・映画館について聞いた。
 「私は松山市大街道二丁目にあった饅頭(まんじゅう)店の長男として生まれました。子どものころは大街道をバスや車が走り、県下から買い物客がたくさん集まってきて大変な賑(にぎ)わいでした。当時は個人商店が多く、百貨店は『ヤママン百貨店』だけでした。
 中学生(昭和12年)のころになると以前ほどの賑わいはなくなり、その後統制が厳しくなって米や砂糖などが配給制になったため、私の家でも饅頭を作ることができず商売ができなくなりました。
 大街道ではほとんどの商店が木造2階建ての建物でしたが、一番町の角にあった鉄筋コンクリート造りの大阪商運ビルやレンガ造りで高い広告塔があった有田ドラッグ(薬屋)、1階が大浴場で、2階の大広間が劇場になっていたラジウム温泉、有楽座(ゆうらくざ)・弁天座(べんてんざ)の映画館など大きい建物もありました。しかし何といっても戦前の代表的な建物といえば劇場の新栄座(しんえいざ)でした。
 新栄座が小唐人(ことうじん)町(昭和5年から大街道に改称)に開設されたのは明治20年(1887年)で、連日満員を続けたそうです。大正2年(1913年)に改築されていますが、見物客が500人以上入ることができる豪華な歌舞伎座(かぶきざ)風の建物で、大阪以外では関西で最も大きい劇場といわれていました。木造2階建て入母屋造りで、屋根の上には太鼓櫓(やぐら)があり、興行のある日は朝から威勢良く櫓太鼓が鳴り響いていました。父の話によれば太鼓は、『ぜに(銭)もて(持って)こい。ぜにもてこい。おしばい(芝居)みせよう。ぜにもてこい。』と叩いているのだと言っていました。
 また改築されたときには食堂が作られ、御茶子(おちゃこ)と呼ばれる数人の女性が、日本髪に伊予絣(がすり)の着物を着て、赤いたすきと前垂れを付けたしゃれた姿で、当時としては流行(はや)り始めの珍しい懐中電灯を使って空席の案内をしていました。芝居や映画の幕間にはあんパンや煎餅(せんべい)・お菓子・ラムネ・たばこ・マッチなども売り歩いていました。御茶子は昭和10年(1935年)ころまでいたと思います。
 劇場への入り口は大街道と一番町からの2か所ありました。一番町からの入り口は本家といって上客の入り口になっていて、下足番が2階に上がる客の履物を預かっていました。劇場内には立派な回り舞台や花道(はなみち)(*1)がありました。見物席は2階が上客の席で、1階が庶民の席になっていました。1階の座席は枡(ます)席で5、6人が入ることができ、座布団が並べられていました。
 子どものころ歌舞伎を見に行ったことがありましたが、勧進帳(かんじんちょう)の山伏姿の弁慶(べんけい)が客席左後方から花道を奴凧(やっこだこ)が飛ぶような格好で六方(*2)を踏んでいたのを、おぼろげながら覚えています。その他に義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)の追手の藤太隊長のユーモラスなせりふやお岩怪談の恐ろしげな太鼓の音がうっすらと頭に残っていますので、子どものころから歌舞伎に対してある程度の親しみが養われたように思います。
 昭和5年(1930年)ころに三番町の国技座(こくぎざ)で日清戦争の連鎖劇(れんさげき)(*3)を見たことがありました。当時は映写フイルムが高かったので、表現の難しいところは映画で見せ、途中から芝居に変わって迫力をつけていました。映写フイルムが安くなるまではこの連鎖劇が大流行でした。国技座は新栄座よりだいぶん小さかったのですが、見物席はやはり枡席になっていました。映画は上映しないで、戦災で小屋が焼失するまで演劇だけで通していました。
 大街道二丁目には映画館の有楽座と弁天座がありました。有楽座は間口が25mほどで、観客は300~400人ほど入ることができたようです。弁天座は有楽座より少し小さく、200~300人ほど入れたのではないかと思いますが、建物はよくなかったです。
 映画は昭和初期のころまではフイルムが高く、無声のうえに短時間だったために魅力がなかったのですが、トーキー(映像と音声とを一致させて映写する映画)になって人気が出たのです。
 太平洋戦争により焼失した新栄座は、昭和21年(1946年)1月にバラック建てながら復興し、市民は久しぶりに映画を楽しむことができるようになりました。
 新栄座に続いて、昭和21年10月に湊町(みなとまち)二丁目に松山劇場が開館し、同22年9月には三番町にあった国技座が国際劇場と名を改めて復興しました。昭和24年12月には大街道一丁目にグランド劇場が誕生し、3本立て映画のアイディアで成功していました。同25年10月には市駅前(現千舟町五丁目)に4階建ての映画館オリオン劇場が誕生しましたが、これは戦前市駅前にあった大衆館という映画館の復活になりました。同年12月には有楽座が再興されました。
 他にセントラル劇場・タイガー劇場・ライオン館・本町劇場・銀映・ロマン座など大小の映画館が次々と開館し、昭和27年ころには映画は最盛期を迎えました。
 しかし昭和30年代になると映画館が増え過ぎ、1館当たりの観客数が減少するとともに改装や冷暖房装置に多額の費用がかかり、テレビの普及とあいまって、遊技場やマーケットに転業したり、閉館するところも出てきました。
 新栄座も建物はまだ立派でしたが、観客が少なくなったため、昭和32年(1957年)に明治20年の開設以来続いた70年の幕を閉じました。」

 (イ)映画館に通う

 松山市大街道で長年時計店を経営している**さん(大正15年生まれ)に、劇場や映画館について聞いた。
 「子どものころ国技座に友達がいたので、劇場に行っては奈落(ならく)(劇場の花道の下や舞台の床下の地下室)でよく遊びました。劇場内には回り舞台や花道、迫(せり)(*4)などがあり、客席は枡席や桟敷になっていました。中学校時代は映画を見ることが禁じられていましたので、高等学校時代には反動で友達と映画をよく見に行きました。戦前の新栄座には売店があり、塩エンドウや駄菓子を買って食べながら見ていました。終戦後に建てられた新栄座はバラックのような建物で、隙間(すきま)から太陽光線が入り、ごみやほこりが見えて空気が悪かったのを覚えています。
 映画館の有楽座は洋画が多かったように思います。椅子(いす)席で2階の正面が最も良い席でしたので、そこでよく見ました。子どものころは顔パスで入れてもらっていましたが、『映画がものを言い出す。』と言われて、その試写会に行った記憶があります。戦前には姿三四郎や加藤隼(はやぶさ)戦闘隊などを見ました。
 戦後三番町にあった銀映は洋画でレベルの高い映画館でしたが、狭くてすぐに座る席がなくなり、座席の後ろで立って見ることもたびたびありました。市駅前の第一大衆館は二番館で見落とした映画をよく見に行きました。
 戦後間もないころは娯楽の第一が映画でしたので、休みの日には映画館によく通いました。」

 (ウ)映画鑑賞を趣味として

 女学生のとき松山市内でよく映画を楽しんだという、松山市西長戸(にしながと)町の**さん(大正7年生まれ)と松山市吉藤(よしふじ)地区の**さん(昭和7年生まれ)姉妹に、映画館や映画鑑賞の思いなどについて聞いた。
 「女学校のときは北条から汽車通学をしていたので、学校の帰りなどによく映画を見に行きました。特に新栄座が多かったと思います。昭和7年(1932年)ころに見たオールトーキー映画の『マダムと女房』は、今でもよく覚えています。新栄座へは学校の授業でも映画鑑賞に行ったことがありました。座席は椅子式でしたが、木製で長く座っていると腰が痛くなりました。
 新栄座以外にも有楽座・松山東宝・銀映・松山劇場・東映グランド・セントラル劇場などへも行きました。昭和25年ころには入場料が50円でしたが、銀映は安くて30円くらいでした。『心の旅路』、『カサブランカ』などの作品は今でも忘れることができません。とにかく映画が好きで、邦画、洋画といわず手当たり次第に見たといった感じです。」
 松山市内の劇場・映画館は、大部分が昭和30年代後半から昭和40年代後半にかけて廃業閉鎖され、解体または他に転用された。現在、新栄座やセントラル劇場は遊技場(パチンコ店など)になり、国技座から改称した映画館の国際劇場やロマン座は駐車場、グランド劇場は大型電器店、銀映はホテル、オリオン劇場は保険会社ビル、有楽座、弁天座は商店となっている。

 イ 劇場・映画館に集う

 温泉(おんせん)郡北条(ほうじょう)町辻(つじ)地区(現松山市)は、今治街道筋の中心商店街であったが、その中に劇場の大正座があり、芝居見物や映画を楽しむために人々が集まり賑わった。

 (ア)大正座に楽しみを求めて

 松山市北条辻の**さん(昭和4年生まれ)、**さん(昭和5年生まれ)、**さん(昭和7年生まれ)に、大正座について聞いた。
 「大正座の建築時期ははっきりしませんが、開館は大正初期のころのようです。木造一部2階建ての建物で、見物客が500人以上入れる大きなものでした。劇場正面の2階の上には太鼓櫓(やぐら)があり、芝居のある日には昼間と芝居の始まる前の2回太鼓をたたいていました。太平洋戦争前までは、富屋百貨店を経営していた**さんが持っていましたが、戦後は升屋の**さんが営業主でした。
 劇場の内部は回り舞台や花道も備えていたのですが、回り舞台といっても手動で、裏側に次の出し物を準備しておき、舞台の下で数人の者が手かぎで引っ張って回していました。照明などの設備は一座の者が持って来て、花道のそばで使っていました。引幕は付いていましたが、緞帳は映画館の宝館になってから取り付けられたようです。花道の内側の見物席は枡席でござが敷かれていましたが、冬には座布団や火鉢を貸し出していました。また花道の外側には枡席より高く、舞台と同じ高さの見物席がありました。劇場の入り口には下足番がおり、履物を預けて枡席に上がりました。
 芝居一座がやってくると、ちんどん屋のおきびちゃんが鐘や太鼓で賑やかに宣伝をしていました。仕事のないときにきびだんごを売っていたので、みんながおきびちゃんと呼んでいたのです。
 戦前は時々興行し、芝居と映画が半々くらいでした。浪曲師もたびたびやってきては、終わった後で必ず薬やばんそうこうを売っていました。子どもの中に浪曲が好きな子がいて、しょっちゅう(絶えず)行っては最前列で見ていました。人形浄瑠璃(じょうるり)、歌謡ショー、マジックショーなどもやってきましたが、歌謡ショーには高田浩吉、鶴田浩二、田端義夫、杉村千恵子などが出演したこともありました。
 昭和初期には映画観賞料は25銭ほどだったそうです。当時は無声映画で、北条にも弁士はいましたが、だいたい松山から来ていたようです。子どものころには丹下左膳、鞍馬天狗、月形半平太などが登場する時代劇をよく見に行きました。
 戦後は映画が盛んになり、映画館が次々と開館しました。大正座は昭和27年ころに映画館となって宝館と名称を変更し、枡席の後ろにコンクリートの台を作り、映写機を置いて毎日上映していました。フイルムは数が少ないのでオートバイで松山・北条間を往復しながら、松山の映画館と掛け持ちで使用していたようです。古くなっているものが多く、時々燃えて焼き切れていました。映写機の横や2階にも座席があり、中には入場料を支払わないで2階の窓から入って見ている人もいました。
 われわれ3人の家は宝館の横隣と道路を隔てた前にあり、向う三軒両隣ということで入場料は無料でした。映画を見るのが楽しくて、昼夜掛け持ちで映画館に行くこともありましたが、週末などは3館とも満員でした。日本初の総天然色映画である『カルメン故郷に帰る』や『渡り鳥シリーズ』などは今でもよく覚えています。
 昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックのころになると、各家庭のテレビの普及率が進んで映画は廃れていき、宝館も昭和40年ころに閉館しました。」

 (イ)大正座・戎座の思い出

 前出の松山市西長戸町の**さんと松山市吉藤地区の**さん姉妹に、大正座や戎座(えびすざ)などの劇場の建物や内部の様子、二人が長唄や日本舞踊の発表会に出演したときの印象などについて聞いた。
 「私たちの実家は北条町本町(現松山市)にありました。昭和初期のころは家の前の道路を荷馬車が通行し、お遍路さんの姿もよく見られました。母は道路に縁台を出して、炊き込みのおにぎりやお茶、ミカンなどのお接待を続けていたのでよく手伝いました。
 祖母と母が遊芸が好きだったこともあってか、姉は長唄を、私は日本舞踊を習いました。日本舞踊の発表会は大正座が会場だったので、小学生と女学生のころに3回ほど舞台に立ったことがあります。この劇場は回り舞台や花道などはありましたが、古くてあまりよい印象ではありませんでした。舞台裏の化粧や着替えをする部屋も暗くて、畳や障子も古くなっていたし、舞台も足が引っかかるような感じでした。
 昭和10年(1935年)ころ、大正座では年の暮れに娘義太夫(ぎだゆう)が忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の通しを朝から晩まで上演していたし、人形浄瑠璃もよく行われていたので弁当を作って行き、昼から夜にかけて長時間見ていました。連鎖劇や地元の愛好家による素人義太夫、ちんこ芝居と称する少女歌舞伎などもしばしば上演されていたようです。
 映画は無声映画で、大手の東宝や松竹映画は松山までは来ることがあっても北条まではほとんど来ないので、極東映画などが上映されていました。
 また、隣の河野村(現松山市)の柳原(やなぎはら)地区にあった戎座(えびすざ)へ、祖母に何回か連れて行ってもらったことをよく覚えています。
 祖母はよそいきの着物に黒い羽織を着て、重箱に弁当を詰め、私を連れて数km離れた道のりを歩いてよく芝居見物に出かけました。学校に上がる前でしたので、昭和12年(1937年)ころだったと思います。近くの大正座だけでなく、遠くの柳原まで観劇に行ったのは戎座のほうに大歌舞伎が来ていたからだと思います。劇場の建物もきれいで大きく、芝居小屋らしい雰囲気がありました。
 戦後の大正座は、敗戦直後から活況を見せ始めていました。都市の劇場が戦災によって壊滅に近い状態となったことや食糧難のため、仕事の場があり、銀舎利(ぎんしゃり)(白米の飯)が食べられる地方へ有名な芸能人が巡演して回っていたようです。横山エンタツ・花菱アチャコ・高田浩吉・鶴田浩二・田端義夫・伏見直江・伏見信子なども出演し、女剣劇の杉村千恵子・リリー姉妹は大人気で、町内の若い女性が一座について行ってしまったことがありました。青空楽団(松山の人たちによる編成)が歌謡ショーを上演し、これも人気を得ていました。
 しかし、そのうちに都市の劇場や映画館が復興されるに伴って芸能人の出演も少なくなり、大正座も次第に映画の上映が主体になっていきました。
 映画が盛んになったため、本町に文化会館と辻町に風早(かざはや)劇場の二つの映画館が相次いで開館しました。大正座を含む3館ともそれぞれ100m以内の距離にあったので、競争が激しく、入場料は3本立てで10円でした。
 私の家から4、5軒離れたところの文化会館は、造り酒屋の酒蔵を改装して作られていましたが、毎日正午前から拡声器で大音量の流行歌を流していたため、騒音をまともに受けていました。でも近所の住民は不快に思っても文句をいうことはありませんでした。
 しかし、テレビの普及や人々の文化要求の多様化などにより、大正座は他の2館とともに消え去っていきました。」
 現在、大正座のあったところは病院に、戎座は歯科医院になっている。また、風早劇場は銭湯の駐車場に、文化会館は個人商店に変わり、北条地区に劇場や映画館はなくなっている。
 

*1:花道 歌舞伎劇場で、舞台の延長として客席を縦断して設けた俳優の出入りする道。
*2:六方 歌舞伎で俳優が花道から揚幕に入るとき、手を振り高く足ぶみして歩く誇張した演技。
*3:連鎖劇 劇の途中に映画を、また映画の途中に劇を上演するというように、舞台劇と映画とを組み合わせた演劇。
*4:迫 劇場で、舞台に床の一部を切り抜き、俳優または大道具を奈落からせり上げ、またはせり下げる機構。