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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)むらで集う②

 イ 石風呂でリフレッシュ

 今治(いまばり)市の大西(おおにし)町九王(くおう)地区や桜井(さくらい)地区、また、大浜(おおはま)町には石風呂(いしぶろ)があり、夏季には多くの人々が集い楽しんだり、農作業などの疲れを癒した。
 九王地区は大西町の北部に位置する。石風呂は斎(いつき)灘に面し、「船上継ぎ獅子(じし)」で知られる龍(りゅう)神社の近くに作られていた。
 今治市大西町九王の**さん(昭和3年生まれ)、**さん(昭和9年生まれ)と**さん(昭和9年生まれ)夫妻に石風呂の経営やそこでの作業、宿泊する貸し部屋や納涼台、石風呂の身体への効能などについて聞いた。
 **さんと**さんは、「石風呂は、私たちが子どものころの昭和初期にはありました。龍神社手前の花崗岩(かこうがん)性のがけに穴を掘って作ったのですが、最初に掘ったところはよくなかったので、その左側に掘ったのを使用したのだと聞いています。
 石風呂の入り口は、石を立て、壁土でしっかり固め、その上に煙窓を2か所作っていました。入り口は高さが1.5m、幅が90cmほどでむしろを吊るしていて、大人は屈(かが)んで出入りしていました。中は高さが2m以上あり、奥行きは6mほどで、広さは4坪(約13.2m²)ほどあったようです。一度に20名くらいは入れました。経営は最初九王地区の**さんと近所の何人かでやっていましたが、次に同地区の**さん、小部(おおべ)(今治市波方(なみかた)町)地区のきいち山(相撲取り)さんへと変わりました。きいち山さんは親子でやってきて小屋に泊まり、7月から9月ころまで営業していました。
 風呂は1日1回9時前ころに焚(た)きましたが、松葉の束を2段に重ねて岩肌の近くに丸く置き、奥のほうから火をつけていきます。松葉を燃やすともくもくと煙が上がり、これが営業をしている合図であったのです。松葉は経営者の持ち山の木を冬の間に切り倒し、幹の部分は割り木にして家庭で使い、枝葉の部分を九王の海岸で乾燥しておき、船で運んで使用しました。すくず(松の落葉)は火保ちしないので使えません。松葉が燃え終わると、何枚ものかます(むしろを二つ折りにして袋状にしたもの)を海に投げ入れて濡らし、残り火の上にばっさり、ばっさりかけていました。子どものころに泳ぎにいってはよく手伝わされましたが、すごく暑いうえにかますが重くて嫌でたまらなかったのを憶(おぼ)えています。
 お客さんは多いときには50人くらいはいたと思います。道幅が狭く、歩いていると肩が触れるほどでした。農家の人は田仕事の疲れを癒(いや)すために来ていましたし、対岸の小部地区の人々は、石風呂に入ると『夏負けをしない。』とか『冬に風邪を引きにくい。』、『冷え性によい。』などと言って、煙が見えると船で大勢がやって来ました。遠くからは広島県からも来ていたようです。
 石風呂に入るときは、男性は下着1枚に麻袋などを体に巻き付け、女性は肌着や浴衣、半纏(はんてん)などを着て、息苦しいので鼻や口を覆(おお)うための濡(ぬ)らした日本手拭(てぬぐい)を持っていました。むしろを少し押し開けてすばやく中に入ると、真っ暗で様子がわからない上に息苦しいのですが、立ったり、しゃがんだり、かますの上に腰を下ろして我慢していると、汗が噴出して滴り落ちます。今のサウナのようなものですね。暑いので外に飛び出し、すぐ前の海で海水を浴び、火照った身体を冷やしました。疲れるので1日に2回くらい入る人が多いのですが、中には4回も入る人もいたようです。
 貸し部屋は売店の後ろに小さい部屋が2部屋ありましたが、泊り客はここで寝泊りしていました。納涼台(図表3-8参照)は丸太を組んで海の上に突き出していて、6畳ほどの広さが2部屋と、4畳半程度の小さいものが1部屋並んでいました。お客が多い日には貸し部屋がいっぱいで寝られないため、納涼台で雑魚寝(ざこね)をしている人もいました。風呂代は必要ですが、部屋代や納涼台の使用代金はとっていなかったようです。」と話す。
 続いて**さんは、納涼台や売店について、「私が小学校2、3年生(昭和17、18年)のころ、母は近所の4、5人の仲間の人と相談して、昼食後の2時ころから毎日のように石風呂に入りに行っていました。煙が出ているかどうかを見てくるように言われ、家の外に出て煙を確認するのが私の役目でした。私は石風呂には入らないのですが、ついて行って砂浜で泳いだ後、売店で飴玉(あめだま)などを買ってもらうのが嬉(うれ)しくて、毎日のようについていきました。売店は5坪(約16.5m²)ほどの木造の古い建物でしたが、夏なので入り口や窓の戸を外し、人が出入りしやすく、また風が通りやすくしていました。売店ではかき氷、トコロテン、甘酒、水あめ、炒(い)ったエビ、飴玉などを売っていましたが、大人の人たちはトコロテンや甘酒などを飲食しているのをよく見かけました。特にお盆のころになると大勢の人が利用していました。母や仲間の人は海風のよく通る納涼台で涼んだり、おしゃべりをしたりしながら石風呂にも2、3回入っていたようです。納涼台の床は板張りの上にござを敷き、天井はよしずで覆っていました。母は暑い日中の4時間ほどを石風呂で過ごし、野菜に水をやるため夕方には家に帰っていました。」と話す。
 九王の石風呂は昭和20年代初期に廃止され、大浜町の石風呂も昭和34年ころに廃止された。また、桜井の石風呂は、平成16年から2年間休業していたが、平成18年7月から復活の予定である。

 ウ 人形浄瑠璃に興じる

 劇場や映画館は、町のみでなく村にも見られ、一座や映画がやってくると多くの人々が集まり、賑(にぎ)わいをみせた。松山市近郊の温泉郡川内(かわうち)町(現東温(とうおん)市)には「名越(なごし)座」があり、隣の温泉郡重信(しげのぶ)町(現東温市)にも「旭館」や「田窪(たのくぼ)座」があった。川内町は県都松山の東15kmの地点にあり、町の中心を国道11号が貫通している。
 松山市南梅本(みなみうめもと)町の**さん(大正4年生まれ)と東温市南方(みなみかた)地区の**さん(大正14年生まれ)、東温市牛渕(うしぶち)地区の**さん(大正15年生まれ)に名越座について聞いた。
 「名越座を建設した祖父は雑貨商、タバコ販売、新聞取次店など幅広く事業を行い、田も多く持っていて小作に作らせていました。金比羅街道沿いの屋敷は3反ほどあり、屋敷内の防火用水用の堀の横に金比羅(こんぴら)街道(*5)の標識がありました。明治11年(1878年)にカヤ葺(ぶ)き屋根の家を当時まだ珍しかった瓦(かわら)屋根に改築し、昭和6、7年ころまでありましたが、老朽化とシロアリの被害のため取り壊しました。
 名越座は金比羅街道を存続発展させるために、明治40年(1907年)5月に建設しました。自宅前にある360坪の土地に、建坪300坪の2階建(一部3階)、入母屋造りの豪華な劇場を造り、名越座と命名したのです。この劇場の建設には1,250円(明治40年の白米標準価格は10kg当たり1円56銭であった。)という資金が使われ、入場定員は500人を超える大きなものでした。当時松山市大街道にあった新栄座を参考にして造ったと聞いています。正面の2階の上には太鼓櫓(やぐら)があり、一座が来演したときには朝と夕方の二度太鼓をたたき、外題触(げだいぶ)れが幟旗(のぼりばた)を立て、太鼓をたたきながら村中を回っていたそうです。 
 劇場の入り口では名越座の印半纏(しるしばんてん)を着た下足番が履物を預かっていました。劇場内の舞台には回り舞台や奈落があり、回り舞台は人が下に入って回していました。花道には『すっぽん(*6)』も造られ、天井は丸竹を組んで並べ、雪の降る場面では紙を切って竹の間から降らしていました。引き幕や緞帳(どんちょう)などもありましたが、照明は一座の役者が持ってきていたようです。小道具類は劇場にだいぶ揃(そろ)っていました。
 見物席は『おいこみ』といわれる自由席と4人ずつ座れる枡席があり、正面2階には特別席も設けられていました。警察官席や消防署の人の席は別にあり、入場料も無料でした。
 劇場では浪曲、歌舞伎、人形浄瑠璃、芝居、素人のど自慢、小学生の学芸会、講演会、映画などさまざまな催し物が行われましたが、人形浄瑠璃に最も力を入れていました。麦うらし(麦刈り前の休日)と稲刈り前の1年に2回やってくるのが、1年中の最も大きい興行でした。村の人々のみならず、山手の土谷(つちや)地区や重信町横河原(よこがわら)地区の人までも楽しみにしてこぞって待ってくれ、来演している1週間は劇場が毎日満席になって賑わっていました。男は酒を瓢箪(ひょうたん)に入れ、料理を重箱に詰めて出かけ、女は伊予絣(かすり)の機織内職で得たお金で髪や着物を着飾り、ご馳走(ちそう)を持っていそいそ出かけました。劇場の中に売店や酒肴(さかな)売り場もあり、前垂れを着けた御茶子が接待をしてくれました。娯楽の少ない時代なので、農村においても、非常に賑わいを見せたものでした。
 太平洋戦争中は、近衛十四郎や中村メイ子、浪曲の鈴木米若などが食糧難のため地方回りにやって来て、食事を楽しんでいたようです。名越座でも2階に大きな飯台を並べ、多くの料理でもてなしていました。また普通の役者は劇場裏の楽屋で雑魚寝をしますが、名の通った人は分散して家のほうへ泊めていました。戦後は素人芝居がよく集まってきていました。
 このあたりに電気がついたのは大正4年(1915年)1月で、名越座が建設された当時は大きな和ロウソクを何百本も立ててやっていたようです。そのため火事になってはいけないので、2か所に井戸を掘って水を溜(た)めていました。
 この名越座も老朽化のため昭和38年(1963年)に閉鎖し、翌年取り壊しました。」
  

*5:金比羅街道 讃岐(さぬき)国(現香川(かがわ)県)の金比羅宮へ向かうための街道。明治期以降は、讃岐街道と呼ばれ
  るようになった。
*6:すっぽん 歌舞伎劇場で花道の七三に切り抜いてある方形の穴。奈落から花道へ役者をせり上がらせるためのもの。

図表3-8 九王地区の石風呂周辺略図

図表3-8 九王地区の石風呂周辺略図

昭和17年ころ。**さんの提供資料から作成。