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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

 (1) 戦中、戦後の思い出

  ア 疎開

 「父は軍港があった呉(くれ)で働いていたのですが、私(Aさん)は国民学校3年生のときに祖父母のいた吉野に転校してきて、そのまま終戦を迎えました。昭和20年(1945年)3月10日に東京大空襲があった後、3月19日に呉でも激しい空襲があったため、一人で両親のもとを離れて、疎開してきたのです。その頃は集団で安全な場所に行く学童疎開のほかに個人個人で親戚などの家に疎開する縁故疎開というものがあり、私もその一人だったのです。
 転校した当時に不思議だったのは、呉にいた頃は防弾頭巾も4cmほどで座布団のように分厚かったのですが吉野では薄いものだったことで、平和な所に来たなと思いました。ただ、4月に転校して、6月になると空襲警報がたびたび鳴ったり、多くの兵隊さんがやって来たりしました。
 その頃、アメリカ軍の飛行機が近くまで来ると空襲警報のサイレンが何度か鳴らされました。私は呉で何度も聞いているのですが、警戒警報だと長い音が、空襲警報だと断続的に短い音が流されます。学校にいるときに空襲警報が鳴ると学校から200mほどの吉野トンネルまで退避したこともありました(写真1-2-4参照)。汽車のトンネルですが、まだ吉野駅までしか開通していなかったので、汽車は通っていなかったのです。この辺りには防空壕(ごう)は作られていませんでした。
 3月の呉の空襲はものすごいもので、米軍のB-29爆撃機へ撃った高射砲の砲弾の破片が鋭かったことが印象に残っています。終戦後、一旦呉の両親のところに戻りましたが、何度も空襲に遭った呉は焼け野原になっていました。たまたま私の家は残っていましたが、道路一つ隔てた所にあった住宅は全て燃えていました。」

  イ 吉野への軍隊の進駐

 「私(Aさん)が国民学校3年生の頃ですが、米軍主体の連合軍が九州への上陸(オリンピック作戦)の陽動作戦として四国上陸を計画(パステル作戦)していることを察知して、兵隊さんを高知方面に派遣するための拠点の一つに吉野がなりました。それで昭和20年(1945年)の6月頃に兵隊さんが続々と吉野に来ました。昭和15年(1940年)に現在の予土線は今の吉野生駅まで開通しましたが、それを利用してやって来たのです。
 八幡浜駅と卯之町駅間が未開通だった国鉄予讃線は、昭和20年6月に開通しますが、そのときは伊予鉄道高浜線の複線の一つからレールを持ってきて開通させたそうです。そうやって宇和島(うわじま)まで運んだ大量の兵器や物資が吉野に送り込まれました。予讃線の八幡浜卯之町間が開通した途端にそのようになったので、予讃線の開通は陸軍の指令があったのではないかと思います。送り込まれた軍需物資は吉野トンネルの中や国民学校の校庭に積まれていました。それで剣山兵団第三大隊本部に接収された吉野生国民学校では、しばらくの間授業が中止になりました。その後、大隊本部は蕨岡(高知県四万十(しまんと)市)に移ったようですが、そのことは学校日誌にも記録されています。安全のために疎開した四国が呉よりも危険地帯になったのですが、8月15日の玉音放送で大勢の国民の命が救われました。」
 「私(Bさん)も国民学校3年生のときに、学校の運動場が武器の集積場になり、大砲や銃弾みたいなものがずらっと置かれていたことを憶えています。兵隊さんがやって来たので、神社や寺の境内、集落の集会所が教室になり、分散授業をしていました。
 それで、兵隊さんは1週間ほど休息のために各農家の家に宿泊した後、『連合軍から日本を守るために高知県の方へ行きます。』と言って、高知へ向かっていきました。私は兵隊さんに『どうやって行くのですか。』と聞くと『歩いて行くのだよ。』と答えてくれました。その中で刀を持っていた人が偉い人だったのだと思いますが、『僕らが高知県に着く頃には戦争は終わっているからね。』と言っていました。本当にその人が言ったとおりになって私は驚いたのですが、その人には分かっていたのかもしれません。」

  ウ 松丸の空襲

 「私(Bさん)たちが国民学校3年生の8月に終戦を迎えました。終戦近くの頃は、このような山間地でも私たちの上空をグラマン戦闘機が低空飛行で旋回していて、パイロットの顔が見えるほどでした。松丸にも爆弾が一発落とされました。『伊予美人』という酒を造っている造り酒屋の正木本店だったのですが、酒蔵に煙突があったので軍事工場だと考えて落としたのではないでしょうか。」
 「松丸にも空襲が一度ありましたし、宇和島も6回くらい空襲を受けています。空襲は晴天のときに行われることが多いそうですが、そのうち一度は天気が曇りだったので、流れ弾が山を越えて滑床の方に落ちたという住民の記録が残っています。アメリカ軍のB-29爆撃機のパイロットも高射砲が怖いので、上空約1万mの高さから落とすためです。レーダーもあるのかもしれませんが風に流されますし、結構いい加減に爆弾を落としているということなのでしょう。私(Aさん)の調査では吉田(よしだ)にも宇和島寄りの所に爆弾が落ちています。
 松丸の空襲では現在の交番の裏になる地点に爆弾が落とされました。酒屋の本店と支店、それからしょう油屋と当時の松丸には煙突が3本あったので、分散して兵器を作っているのではないかと考えたのではないかと言われていました。ある住民は、爆撃機が爆弾を落としたときには気付いて、近永のアルコール工場に爆弾が落ちるのかと思って見ていたら、流れに流れて松丸に落ちたという証言をしています。
 しかし、私がアメリカ軍の作戦計画を調べると松丸に爆弾1個を落とすと記された資料が出てきたので、計画的に爆撃したのだと分かりました。終戦の前の日の8月14日のことです。私が調査した結果が愛媛新聞にも掲載されました。」

  エ アメリカ進駐軍の記憶

 「この辺りでは川ガニがたくさんとれます。ところが、この川ガニは肺ジストマ(肺吸虫)という寄生虫を持っていて、これが肺に入ると重病になります。終戦直後のことですが、吉野生駅にアメリカ軍の研究者がやって来て、数年間、客車で寝泊まりしながらこの肺ジストマの研究をしていたことがあります。
 私(Aさん)の父が村長をしていた頃、吉野会館というかつてあった芝居小屋で米軍の歓迎会やパーティーなどが開かれていました。小学5年生の頃に西洋かぶれというか社交ダンスが流行っており、女学校を出たばかりの私の姉がダンスの相手をしているのを2階の座席から見ていたことを憶えています。それで私の父宛ての英文の礼状なども家にありました。
 それにしても不思議に思うのは、昭和20年(1945年)9月17日の枕崎台風で鉄橋が崩壊したはずなのに、どのようにして列車がこちらまで来たのか分からないことです。JRに問い合わせても、大きな出来事であるはずなのに橋が再びいつどのように開通したのかも分かりません。私の記憶ではその当時は鉄橋が落ちた吉野生ではなく、松丸が始発のはずで、姉も宇和島の女学校に登校するために、朝早く4時頃から起きて松丸駅まで歩いて行っていました。それで始発列車に乗って宇和島まで通っていたのです。」
 「私(Bさん)も進駐軍が様々な研究をするために、吉野生駅に3両の客車と機関車が止まっていたことを憶えています。新しい鉄橋ができるまでその客車の中で、アメリカ軍は研究をしていました。炊事も自分たちでしていたのだと思います。
 子どもだった私は学校から帰ると必ず駅前に来ていました。そうすると進駐軍の人が出てきて英語で話し掛けてきます。英語は分かりませんでしたが、一緒にキャッチボールをしたり、チョコレートなどの菓子をもらったりしました。
 周りの大人たちからは菓子に毒が入っているかもしれない、万年筆なども爆発するかもしれないと言われていたのですが、私たちは気にせずもらっていました。どんどん持ってきてたくさんくれるのです。珍しいので喜んで食べるのですが、その頃は学校が終わって駅前に来ることが最大の楽しみでした。」

  オ 国民学校の思い出

 「私(Aさん)が吉野生国民学校(現松野東小学校)に転校してからは分列行進というものをやらされたことが印象に残っています(写真1-2-5参照)。4人が横一列で行進して、90度直角に曲がってと何度も何度もやらされました。子どもの精神力を鍛えるためなのかもしれませんが、『ホチョーを取れ。』と言われて分列行進をさせられます。子どもの頃は声で聞いていたのですが、『歩調』と書くのでしょう。掛け声が掛かると分列行進を始めますが、曲がるときもスムーズに曲がらないと怒られるので、列が乱れないようにしないといけません。その練習を何度も何度もやらされました。」
 「大体4人が横一列になって分列行進を行います。直角に曲がるときに最も内側の人は止まって足踏みをして、最も外側の人は速く進まないとスムーズに曲がれません。きちんとできないと、びんたが飛んできました。びんたといっても、先生が竹の根を持ってたたくのです。『根節(ねぶち)』と言っていましたが、竹の根には短い間隔で節があるので、それでたたかれるととても痛かったことを私(Bさん)は憶えています。」

  カ 奉安殿の話

 「吉野生国民学校の正門を入った右側に、天皇陛下と皇后陛下の御真影と教育勅語が納められていた奉安殿があったことを私(Aさん)は憶えています。入学式や卒業式、天長節や明治節、紀元節などの節目の行事や祭日のときには、子どもを並ばせて校長先生が御真影を持ってきます。そのときに子どもたちは最敬礼をして待ちます。そして天皇陛下と皇后陛下の写真を前に飾って、校長先生が教育勅語を読みますが、教育勅語が読み上げられる間も最敬礼で、頭を上げてはいけません。教育勅語の読み上げが終わると『直れ。』という号令が掛かり、頭を上げたら天皇陛下の写真がありますが、すぐに扉を閉めます。写真でも目が潰れると言われて頭を上げることは許されませんでした。今でもそのほとんどを記憶していますが、教育勅語の読み上げは5、6分あり、最後に『御名御璽』という言葉を聞くと、終わったと思ってほっとしたことを憶えています。そして御真影と教育勅語を奉安殿に持ち帰ります。国民の心を一つにするために、そういう教育をしないといけないということだったのでしょう。」
 「私(Bさん)たちは登校すると毎朝最敬礼をしてから奉安殿の前を通っていました。裕福な農家の家には蔵がありますが、奉安殿はそのくらいの大きさでした。その中に天皇陛下、皇后陛下の写真と教育勅語を収めていた箱が入っているだけで、屋根は伊勢神宮のような屋根だったことを憶えています。」

  キ 天皇陛下の戦後巡幸

 「終戦後、人間天皇として天皇陛下が全国を回って宇和島まで来たときに、私(Aさん)たちも宇和島に旗を振りに行きました。小学5年生か6年生の頃ではないかと思います。学校の全員が吉野から宇和島まで動員されて、宇和島の和霊神社の前の沿道に並ばされました。それで、『来たぞ。』と言われると最敬礼です。いつの間に前を過ぎたのかも分かりませんが、ずっと最敬礼をしていました。それまでベールに包まれた雲の上の人で、見たら目が潰れるぞと言われていた時代ではなく、神様ではなく人間天皇として回ったはずなのにです。」
 「宇和島へは松山から自動車でやって来られました。道路がまだ舗装されていなかったのですが、天皇陛下の通る半分だけ舗装に近い状態にしていたことを私(Bさん)は憶えています。来る前には旗を振って、車が前を通るときには最敬礼でした。そのため、天皇陛下の車を見ることはありませんでした。」

  ク 戦後の食糧難と水害

 「戦中、戦後の頃のことは思えば様々にありますが、まず食べ物が苦しかったです。私(Aさん)の父が呉で海軍の仕事をしていたので、戦前はまあまあ良い生活をしていたのですが、父が会社を辞めてこちらに帰ってからはつらい生活でした。その頃は仕事は何もなく、農業をしないと食べるものがありませんでした。土地も少しは持っており小作米が入ってきてそれで生活をしていたのですが、農地改革で全て取り上げられてからはそれもなくなり、自作をしなければなりませんでした。
 そこに追い打ちを掛けたのが昭和20年(1945年)9月17日の枕崎台風です。この辺りは全部水につかりました。平成30年(2018年)の西日本豪雨でもこの辺りでは大きな被害が出たのですが、枕崎台風のときには私の家でも床上1mくらいの高さまで浸水しました。家では畳などが駄目になる大きな被害を受けたのですが、それよりも大変だったのは収穫前の水田に大きな被害が出たことです。当然その年の収穫は見込めません。
 私はまだ子どもだったのですが、水田の復旧も手伝わされました。とてもつらい仕事だったことを憶えています。その後も2、3年はとにかく食べ物がなく、今だったら野草と言われるシブクサをかんで、汁を飲んで空腹を紛らわせることもありましたし、ほかの野草の根まで食べていたことを憶えています。桑の実などがあるとそれはごちそうです。シイの実は食べることができましたが、ほかのドングリは渋くて食べられませんでした。生きるために山へ行っていろいろなものを食べました。
 その頃はまだ麦飯を食べていた人が多かったと思いますが、私の家ではコウリャンが半分の御飯を食べていました。中国の東北地方では食べられているそうですが、とても食べにくかったことを憶えています。それからしばらくして、半分押し麦の麦飯を食べるようになりました。とろろ飯などで少し麦の入った麦飯ならおいしいのでしょうが、麦が半分の麦飯は今だったら食べられないと思います。もともと農業をしていた家ならば食料にも蓄えがあったかもしれませんが、私たちは引き揚げてきたので食べ物には苦労しました。大学で東京に行って、初めて親子丼を食べたときには世の中にはこんなにおいしいものがあるのかと思ってびっくりしたことを憶えています。
その頃は脱脂粉乳という脂肪分を取った後の牛乳や、油を取った後の大豆の搾りかすがアメリカを始めとする連合軍の進駐軍から送られてきたのですが、それで多くの日本の児童が助かりました。そういう物が学校給食で出ていたのです。」
 「私(Bさん)の家でも昭和20年(1945年)の枕崎台風で大きな被害が出ましたが、鉄道も吉野川に架かる鉄橋が落ちるという大きな被害を受けました。橋脚が流されて、今も撤去されずに残されたままになっています(写真1-2-6参照)。その日の最終列車が通った直後に鉄橋が落ちたので、汽車と一緒に落ちなくて良かったと思ったものです。今の鉄橋は以前の鉄橋よりも1m高くなっているそうです。
 私も食べ物を求めてよく山に行きました。山に行くとウシノシタ(イヌビワ)という親指よりちょっと大きい実がなる植物があって、それほど甘くはありませんでしたが、イチジクの実と同じような味がするので、その実をよく食べていました。その実が採れる時期には学校から帰ってから『あそこにイチジクの実があるから行こう。』と友達を誘って山へ行っていました。
 私の家は農家だったのでそこまで食べ物には不自由しませんでした。麦飯は食べさせられましたが、米があったので比較的早くに麦飯はやめました。」

 (2) 吉野の農業

  ア 養蚕

 「かつて私(Bさん)の家でも養蚕をしていました。鬼北(きほく)町の三島には、北宇和蚕糸という製糸工場があり、私も繭をこの製糸工場に出荷していました。現在、北宇和蚕糸の工場跡は町営住宅になっており、跡地の一部には煙突と工場のモニュメントが建てられています。吉野の繭は品質が良いことで全国的に有名で、当時は北宇和蚕糸と八幡浜(やわたはま)の酒六が毎年繭の取合いをしていました。私が子どもの頃は吉野は桑畑も多く、戦後食べる物があまりなかったときは桑の木になる実を桑イチゴと呼んで食べていました。食べると服に果汁が付いて、洗濯しても取れないので母から怒られたことを憶えています。
 長野や岐阜のような養蚕が盛んなところから道具を仕入れていて、その頃は年に3、4回行う養蚕が農家の唯一の現金収入でした。私の家では昭和40年(1965年)頃まで養蚕を行っていたと思います。その頃は吉野の町にも繭を加工するところがあったり、仲買の人がいたり、養蚕業に関わる店もあったことを憶えています。」

  イ 昭和30年代の田植

 「私(Bさん)たちが子どもの頃は親の農業の手伝いが大切でした。とにかく人手が掛かるので、子どもも戦力だったのです。特に大変だったのは田植で、5軒くらいの家で作る田植組というものがありました。あまり大きくなると、最初の人の田植から最後の人の田植まで1週間以上掛かることになるので、大きな組でも6、7軒まででした。それで組の家の田植を順番に組全体で行います。その年に最初に行った家は、次の年は最後に回るといったように入れ替わりながら田植をしていました。それがだんだんと耕うん機が導入され、機械で準備ができるため、耕うん機を持っていた家は田植が早くなっていきました。それでも組を抜けることはなく、お互いに助け合いながら田植をしていました。」

  ウ 吉野地区の農業の現状

  (ア) 堰とため池

 「かつては水田に水を引くために吉野川に堰(せき)を作っていましたが、吉野地区上在や豊森の水田に水を引くために松丸地区にある今の虹の森公園のところに堰がありました。その堰でせき止めた水を水路で取ってきてこの辺りの水田に引いていたのです。かなり距離がありますが、水を引くために高さが必要なので川のかなり上流に堰を作る必要があったのです。
 ただ、私(Bさん)の水田もそうですが、圃場整備を実施する際に、川から水を電動ポンプで汲(く)み上げて池へため、そしてため池から水を取ることになりました。水を取るために水路だと土地が必要になるので、パイプラインを作って、それで水田一つ一つにバルブを付けてそこから水を出すようにしています(写真1-2-7参照)。」
 「近くに大きな土手のあるため池がありますが、最近そこを整備しました(写真1-2-8参照)。電動ポンプを使用しますので、その分電気代なども掛かるようになっています。私(Aさん)の家の水田では水代として、1反(約10a)当たり8,000円くらい掛かります。私の家が所有する水田は人に貸して米を作ってもらっているのですが、貸し賃として20年前には1反当たり2俵(約120kg)をもらっていました。それが、15年前に1俵(約60kg)になって、現在はその半分の半俵(約30kg)です。30kgだと7,000円か8,000円くらいにしかなりませんから、水代を取られると何をしているのか分かりません。水田を所有して請負人に貸しても全くプラスが出ず、固定資産税を払うだけになってしまっています。水田を売りたいとも思うのですが、売ったところでという状況になっています。
 政府もカロリーベースの自給率の目標を4割としていますが、このような状況ですから、本気になってやらないとどんどん水田がなくなっていくのではないでしょうか。吉野地区では高齢化も進展して、3、4軒の大きな農家だけがどんどんと機械化して農業を行っています。農業機械は700万円も800万円もしますので、その人たちが高齢者になったときにはどうなるか分からないというのが現状だと思います。」
 「私(Bさん)の家でも水田が8反(約80a)あるのですが、先々頼むこともあるかもしれないので西予(せいよ)市にある農業法人に2反(約20a)貸して、残りの6反(約60a)は個人に請負で米を作ってもらっています。水代は水田の所有者が払わないといけませんが、現在は貸し賃として1反につき1俵もらっており、年に6俵(約360kg)を受け取るので、家で食べるには十分な量があります。ただし、1反につき1俵もらうのには条件があります。水田の草を夏に2回、つまり植えるまでに1回と中1回と、そして収穫前に1回と、合わせて3回草刈りをするというのが条件です。そうでない場合は1反当たり30kgでという契約で水田を貸しているのです。水田を借りる人も人を雇って草刈りをしていると1反当たり1俵の借り賃を出すと利益が出ないので、それが条件ということになっているのです。さらにその条件ならどの水田でも作ってくれるかというと、形が悪く作ってもらえない水田もあります。作ってもらうとしても形が悪いと貸し賃を減らされたりすることもあるそうです。形が悪い水田では、田植にしてもコンバインで収穫するにしても難しく、作業賃が多く掛かるからです。
 昔は土地を所有して貸す方が地主と小作人の関係で立場が強かったのですが、現在では借りる人の立場が強くなりました。そういう時代に今は変わってきました。」

  (イ) 圃場整備

 「圃場整備事業というのは、たくさんの様々な形の小さな水田を国が補助金を出して、重機などを使って耕地整理をして1枚の水田を形の良い大きなものにしていくという事業です。しかし、この事業で整えられた水田は国の補助金が入っているため、資金を返済しても条件があって自由に使えません。
 宅地にしようと思っても、太陽光発電をやろうと思っても許されず、とにかく作物を作らないといけません。この地区でもため池を整備するために、1年間水田で稲作ができなかったことがあったのですが、水田を1年間放置していると草が生えて大変なことになるので、西予市にある農業法人に土地を任せたことがありました。
 次の年にはため池が完成したので、米作りを再開したのですが、一度中断すると農家も皆若くないので、米作りをやめてしまうところも多く、ため池に関する水田が22町(約22ha)あるところ、今年(令和6年〔2024年〕)は3町(約3ha)くらいしか田植をしませんでした。そのほかの土地は農業法人が管理しています。その農業法人も人手が足りないようで、全ての土地では農業をやれず、条件の良い土地ではキャベツを作っているのですが、条件の悪い土地は手付かずのままです。さらに去年ヒマワリを植えて評判が良かったので、役場からの依頼もあり、今年はヒマワリを栽培しているだけになっています。私(Bさん)の家の横の水田はヒマワリの生育が良いので、多くのお客さんが来ており、窓も開けられません(写真1-2-9参照)。」

 (3) 自然の恵み

  ア 吉野川の恵み

 「私(Aさん)が中学校に入る昭和24年(1949年)頃にはだんだんと食べ物には苦労しなくなりました。都会のように良いものは食べられませんでしたが、ウナギや川エビ、アユなどを食べていましたから、今考えるとぜいたくな食事をしていたのかもしれません。
 その頃は冷蔵庫も電気ではなく氷冷蔵庫だったので鮮度が保てず、海の魚は干物が多かったと思います。海の魚を生で食べるのは祭りや法事など特別なときだけです。スーパーマーケットもない頃は吉野に毎日のように『買い出し』と呼んでいた行商人が注文を受けて宇和島で買ったものを持ってきていたので、特別なときだけは生魚を頼んでいました。秋祭りのときは大体各家で接待していたので、高知県が発祥の皿(さ)鉢(わち)料理などのごちそうを用意していました。その頃はお互いに家に呼んだり呼ばれたりしており、子ども心に行くとごちそうが食べられると思ってうれしかったことを憶えています。」
 「私(Bさん)がよく憶えているのは、子どもの頃にハヤと呼んでいた魚をよくとって食べていたことです。ハヤは焼いて塩を振ったりして食べていました。おいしく食べるにはこつがあって、それは2回焼くことで、一度焼いて、少し時間を置いてもう一度焼きます。まだ熱いときにしょう油を掛けて食べると、とてもおいしかったことを憶えています。川の魚は海の魚に比べて保存が難しく、とったウナギもすぐにさばいて、かば焼きにして食べないとおいしくありません。川でとったカニも網かごに入れて、川や池で生かしておきます。そして、今晩はカニを煮て食べようということになると、生かしておいたカニを20杯くらい持って帰って、それを生きたまま1杯ずつ塩を少し入れた鍋に入れます。そのままだとカニが逃げようとするので、1杯入れる度に蓋をして、蓋を重しとして煮ます。それでカニが赤くなるまでよく煮て、家計に余裕のある家はそれに酒を入れたりしますが、塩味だけで食べます。それがごちそうでした。」
 「カニを煮て、それにサトイモなど季節のものをいろいろ入れて食べたりしたものが、芋炊きのもとになっているのではないかと私(Aさん)は思います。この辺りでもカニのだしで作る芋炊きをよくしていました。小さなカニは身を食べるのが大変ですが、とても良いだしがとれます。ウナギも良いだしが取れますが、吉野川でとれたウナギは全然味が違いました。それほど大きくはないのですが、肉厚で歯応えがありました。」

  イ ウナギ漁

 「現在は四万十川全体でもウナギがなかなかとれないようです。しばらく前に江川崎の宿泊施設に問い合わせてみたのですが、アユならありますが、ウナギは難しいと言われました。今はよほどのことがないと天然ウナギが食べられなくなりました。
 子どもの頃はウナギの時期になると私(Aさん)は毎朝、学校に行く前に朝5時頃に起きてジゴクを上げに行きました。ジゴクはウナギがそこに一旦入ると出られない仕掛けですが、その中にミミズを入れて10本くらい仕掛けます。その頃は水田に水を入れるための堰がこの辺りには2か所あったのですが、その堰の下流に川下に向けてジゴクを仕掛けるのです。ウナギが上る道にちょうど仕掛けるために、水の流れが少し速い場所に仕掛けます。仕掛けておいたものを上げたときに茶色い水が出るとウナギはいませんが、白色の水が出たらウナギが入っています。それを毎日仕掛け、日に何匹かはとれるので箱に入れて生かしておいて、何かのときに食べていました。
 ジゴクでの漁だけではなく、川の中に石を積んでウナギをとる石ぐろ漁もこの辺りで行われていました。ウナギは石があると潜り込むので、橋脚の周辺などの深くよどんでいるところに石を積んで、入り込んだウナギを専用のはさみで体をつかんでとっていました。
 現在は川が痩せているのか、ウナギがとれないという話をよく聞きます。上ってくるシラスウナギも少ないようです。私が子どもの頃は川が増水して水があふれるとシラスウナギが上っていくところが見えるくらいシラスウナギもたくさんいました。」

  ウ 小川やため池の恵み

 「私(Aさん)が子どもの頃は水田と水田の間に小川があり、そこにはシジミが至る所にいましたが、農薬を使い始めてからは激減したのだと思います。また、年に一度、秋に稲の刈入れが終わると、池の水を抜いて、天日で干してきれいにする池干しをやりました。そのときに、泥の中にコイやフナ、ウナギなどの魚がいるので、泥んこになりながらそれをとるのが子ども心に楽しみだったことを憶えています。今は水をポンプで汲み上げるのでそのようなことはやりませんし、必要なくなった多くのため池が埋められて、水田や住宅地、ゲートボール場になりました。昔とは随分様変わりしてしまいました。」
 「シジミは一升(約1.8ℓ)ますに1杯くらいの量がすぐに採れていました。採ったシジミは5日くらい掛けて、きれいな水に付けて泥を吐かすという作業を何回も行ってからみそ汁などに入れて食べていました。採ってすぐに食べると泥があってじゃりじゃりするのです。シジミのみそ汁がとてもおいしかったことを私(Bさん)は憶えています。」

 (3) 子どもの遊び

 「私(Bさん)の子どもの頃は遊びに行くというと川やため池でした。吉野橋の橋脚の周りをぐるりと泳いだり、ため池に行ったりしていました(写真1-2-10参照)。現在ではため池は濁っていますが、その頃は水が青く透明できれいでした。特にこの地区のため池は水深が深く、この辺りでもこのため池ほど深い池はないらしいです。そして、川の水の量がある程度減ると、川に行き、お宮から川に向かって大きな木の枝が伸びているので、その枝に登って、その枝から川に飛び込んで、泳いで吉野橋まで行っていました。今考えると無鉄砲な遊びをしていたと思います。学校から帰ると夕食まで戻ってこなくても良く、子どもたちだけで勝手に遊んでいました。」

 (4) 昭和30年代、40年代のアンキなくらし

 「昭和30年(1955年)に松丸と合併して松野町になりましたが、にぎわいがしばらく続いた後、徐々に吉野が衰退したのではないかと思います。役場に職員が数十人いたのが減少し、商店もやっていけなくなりました。さらに予土線も吉野生駅ではなく江川崎駅が終点になり、高知県の北幡地方の人が吉野ではなく終点の江川崎に集まるようになりました。
 なんでも中心になった方が有利で人が集まります。一方、周辺になると人が去っていきます。吉野の町も80軒くらいあった店が今は1軒だけです。その頃は森林組合も警察も、電話の交換所も松丸にあって、吸い寄せられていったのではないかと思います。若い人は知らないでしょうが、電話も自動ではなく、交換手に『何番にお願いします。』と伝えて、つないでもらっていました。
 もちろんその頃はエアコンもないので、夏になると戸を外して、すだれを掛けて、川の風で涼みました。その頃はエアコンを知らないので、川からの風で幸福だったのではないかと私(Aさん)は思います。人間、一度エアコンを知るとエアコンを掛けていないと過ごせません。人間というのは一旦経験をすると、あの人がこういう生活をしているから私も、あの人が良い生活をしていたら私もしたいと、横と比べてしまいます。エアコンを一度経験したら扇風機やうちわでは夜を過ごせません。しかし当時は扇風機だけでしたが、精神的には昔の方が充実していた気がします。」
 「エアコンがない頃は蚊帳をつって寝ていました。蚊取り線香が出る前は、ヨモギやクスノキの葉を乾燥させて、それをくすぶらせた煙を蚊よけにしていました。ハエが沸いてもハエ取り紙で、殺虫剤はありませんでした。
その頃は近所で助け合いながら生きていましたから、その頃の方が生活がしやすかったのではないかと私(Bさん)は思います。この辺りの方言で言えば、アンキ(のんき)な生活ができていたのではないかと思うのです。気張らなくても助け合いで貸し借りができていました。しょう油でさえ、『貸してや。』と隣人に気兼ねせずに借りることができていました。
 また、料理をするときに多めに作って配ったりして、それでお互いに行ったり来たりでした。様々なことを共同で行い、それが自然でした。今はごちそうを作っても自分のところだけで食べます。その頃はおすしやおこわを作ったら隣の家に持っていってあげて、それでごちそうになった方は、食器などを洗って返すときにオトメ(軽い返礼の品)を入れて返していました。それだけ隣近所が親しいので生活もしやすく、互いに相談にも行けましたし、来てもらうこともありました。それで持ちつ持たれつだったのですが、今はいろいろなことが各家庭それぞれでということになっており、良いことでも悪いことでも近所に内緒にして『絶対言うなよ。』という風潮になっています。」

参考文献
・ 松野町『松野町誌』1974
・ 松野町商工会『松野町商工誌』1978
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
    『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 布久光「宇和島鉄道物語(全線開通編・後) 宇和島線(宇和島駅~近永駅~吉野駅)から
         予土線(北宇和島~吉野生駅~若井駅)へ」『西南四国歴史文化論叢よど第25号』2024

写真1-2-4 吉野トンネル

写真1-2-4 吉野トンネル

松野町 令和6年7月撮影

写真1-2-5 現在の松野東小学校

写真1-2-5 現在の松野東小学校

松野町 令和6年7月撮影

写真1-2-6 枕崎台風で流された橋脚

写真1-2-6 枕崎台風で流された橋脚

松野町 令和7年12月撮影

写真1-2-7 水田に水を引くバルブ

写真1-2-7 水田に水を引くバルブ

松野町 令和7年12月撮影

写真1-2-8 整備されたため池

写真1-2-8 整備されたため池

松野町 令和7年12月撮影

写真1-2-9 ヒマワリが植えられた水田

写真1-2-9 ヒマワリが植えられた水田

松野町 令和6年7月撮影

写真1-2-10 吉野川と吉野橋

写真1-2-10 吉野川と吉野橋

松野町 令和7年12月撮影