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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業27-松野町-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 町並みをたどる

 (1) 吉野の町

  ア 吉野の町

 「隣の松丸は伊達宇和島藩でしたが、吉野は伊達吉田藩でした。それで吉田藩が、高知と隣接する吉野川(広見川)左岸に経済的、防衛的な要因で、本村の水田を埋め立てて街道と町並みを作りました。吉野の町が栄えた時代には80軒ほどの店があったのですが、それでも土地が足らず峠の方に新地というところを作って、そこにも20軒ほどの店が並んでいました(図表1-2-1㋐参照)。
 吉野の町が最も栄えたのはやはり大正12年(1923年)に吉野川の右岸の西組に宇和島鉄道の吉野駅ができてからです。鉄道の終点なので、物資の中継地になってにぎやかになったと聞きました。江川崎などのある高知県の北幡地方でできた生糸などの産物や吉野周辺の物資を鉄道で宇和島まで運んで、九州や関西方面に船で送っていたそうです。それで、高知からもたくさん人が来たそうで、特に年末には吉野で様々な品物を仕入れて帰り、年を越したという話も多くの人から聞きました。
 昭和30年(1955年)に私(Aさん)は高校3年生でしたが、私が中学生や高校生の頃はにぎやかな町並みでした。その後、東京の大学に進学し、働き始めてからは全国を転勤したので、それ以降50年間は吉野で暮らしていませんでした。昭和30年というと吉野生村が松丸村と合併した年です。最初は吉野生村役場に勤めている人は残しますということでしたが、だんだんと職員が減って現在では支所に駐在する人は1人です。それでだんだんと吉野の商店で購買する人も少なくなり、周辺の店も減ってきたように思います(写真1-2-1参照)。現在では魚屋が1軒あるだけになっています。その魚屋ももともとこちらで商売をしていた家ではなくて、目黒からやって来た人が始めた店です。」
 「昭和26年(1951年)頃には吉野会館でNHKののど自慢大会や『三つの歌』のラジオ収録があったこともあります。そののど自慢で、私(Bさん)たちは衣装を着ませんでしたが、頭だけは付けて五鹿踊りの歌を歌いました。鐘が三つ鳴ったことを憶えていますが、地元のお宮の鹿踊りの歌だったのでおまけで鳴らしてもらったのかもしれません。」

  イ 予土線と吉野

 「もともと予土線は宇和島鉄道という私立の会社が運営していたのですが、大正12年(1923年)に近永と吉野の間が開通して、吉野駅が宇和島鉄道の終着駅になりました。ただ、現在の駅とは違い、川の右岸の町外れの西組に駅がありました(図表1-2-1㋑参照)。それが昭和8年(1933年)に国有化されて国鉄になったわけです。国鉄は吉野川を渡る鉄橋を作って、駅舎を現在の吉野生駅のある場所に移転しました(写真1-2-2参照)。ゆくゆくは高知まで延伸する予定で、私(Aさん)たちが通った小学校の近くにある吉野トンネルなども作ったのですが、戦争のために工事が止まってそれ以上は進まなくなりました。
 戦争が終わると、昭和28年(1953年)に高知県の江川崎駅まで伸びて、その後昭和49年(1974年)に窪川駅の手前の若井駅と江川崎間が開業しました。予土線の起点は若井駅で、窪川駅から土讃線になるので、予土線が開通して今年(令和6年〔2024年〕)でちょうど50周年です。去年は宇和島鉄道の近永と吉野の間が開通して100周年だったので記念事業もやりました。」
 「昭和15年(1940年)に今の吉野生駅ができたのですが、駅を作った場所はもともと水田だったので、吉野トンネルを掘った土で埋め立てたのだそうです。それで、駅周辺は少し高くなっているので、6年前(平成30年〔2018年〕)の西日本豪雨のときも水につかりませんでした。ただ駅の周辺以外は水につかって大変でした。私(Bさん)の家も駅の近くにあるのですが、近年新しく建てた家で、堤防から40㎝あげて基礎を作ったので床下浸水で済みましたが、本当にぎりぎりでした。そのときに外を見ていると自動車がライトまで水につかって走っていたのですが、そのライトまで見えなくなったら、私の家のオヘヤ(隠居所)まで水が上がるなと思っていました。ところが、だんだんとライトが見え始めて、『これは助かった。』と思ったことを憶えています。消防団の人に聞くと、川の様子を見に行って『水が引き始めた。』と喜んでいました。
 私たちは80年以上生きてきて、太平洋戦争に負けて、昭和21年(1946年)の南海大地震という震災、枕崎台風と西日本豪雨という2度の大きな水害に遭って、悪いことばっかりだったと思うこともあります。」

  ウ 高知までの省営バス

 「私(Bさん)は、鉄橋ができて新しく作られた吉野生駅に、機関車の前に日章旗を立てた一番列車が駅に入ってきたことを今でも憶えています。ただ、ここまで開通してもその頃は高知まで行く鉄道の便はありませんでした。戦後すぐの頃は省営バスと呼ばれていたバスが高知まであったことを憶えています。吉野生駅の近くにバスが2台入る車庫があり、その隣に運転手さんと車掌さんの宿舎がありました。そこで寝泊まりしていたバスの車掌で地元の男性と結婚した人もいました。その当時は男性が出征していたので、バスの車掌はほとんどが女性でした。
 吉野生駅が始発だったと思うのですが、宇和島からの汽車が到着すると、しばらく時間を置いて、バスが発車していました。高知県に行く人はそのバスに乗って、高知の久礼(くれ)(高岡郡中土佐(なかとさ)町)まで行っていたそうです。私たちが子どもの頃のバスは木炭でガスを発生させる装置をバスの後ろに積んで、木炭を燃やして動いていました。今の自動車のようなセルではなく、朝は手で回して風を送り、火を起こして、それでエンジンが動くまで熱が上がってやっと走るようなものでした。」
 「木炭で動いた乗合バスは戦時中には走っていなかったので、戦後すぐのものです。大正12年(1923年)の頃からバスが運行され始めていたようですが、戦時中は、玩具も含めて鉄は全て軍隊に供出され、橋の欄干まで取り外していますから、鉄製バスも供出されていたのではないかと思います。物がないので、終戦後すぐはバスと言ってもトラックの荷台にほろを掛けて、木製乗合バスにしていました。しかも木炭なので馬力がなく、あえぐ様にして私(Aさん)たちが小学校へ行く道の峠を登っていました。バスの速度があまりにも遅いので、私たちは学校へ行くときに坂道を登るバスと一緒になると、後ろの荷台に飛び乗ったり飛び降りたりして遊んでいました。もちろん見つかったら怒られるのですが、木炭バスなので坂道を登っていくときに子どもが飛び乗れるくらいのスピードしか出なかったのです。」

 (2) にぎやかだった商店街

  ア 秋祭りの様子

 「町が最もにぎやかだったのは昭和30年(1955年)頃だと思いますが、昭和40年(1965年)頃もまだ吉野の町はにぎわっていました。その頃は機械もないので、皆手作業で様々な物を作っていました。畳屋も足で畳を踏み固めていたことを憶えています。その頃に私(Bさん)は中学校を卒業して青年団に入り、秋祭りになると神輿(みこし)をかくようになりますが、それから10年くらいが、この町が繁栄した頃だったと思うのです。
 秋祭りにはお練りが行われますが、この近くには吉野ほど大きなお練りはありません。吉野地区のお宮である蔵王神社の秋祭りでは、今はなかなかかき手が確保できず台車に変わりましたが、かつては牛鬼も四つ太鼓も神輿も全部肩でかかないといけませんでした。神輿だけはかき手が8人だけで、それもかいているのは4人で、残りの4人は支えています。それで当時は店舗も多かったので、店の前で『わっしょい、わっしょい。』とかいた後に、神輿を高く差し上げます。そうして店の人から御祝儀をもらうのですが、それは蔵王神社の神様が私の店に来て、様子を見てくれたと喜ぶからです。にぎやかだった頃は店の方から『私の店に来てくれ。』と言われていたのですが、だんだんとこちらから『差し上げさせてくれませんか。』というようになってきたと思います。
 秋祭りのときには、商店街の道が多くの人でにぎわっていました。沿道の両側に出店が出て、菓子やおもちゃを売ったり、中には花札をしたりしている店もありました。それで人出も多いので、お練りの行列が農協の前の三差路まで進んでいるのに、そこから先は進めないということがよくありました(図表1-2-1㋒参照)。
 お練りの先頭は鼻が高い猿田彦命で、それからお長柄、お弓、鉄砲、子どもの五鹿、獅子舞、浦安の舞の女の子、四つ太鼓とあり、四つ太鼓の後ろに神輿があって、最後は牛鬼でした。神輿の神様を守るためにそういう順序になっているそうです。お練りが終わると四つ太鼓と牛鬼のぶつかり合いが商店街の中で始まります。商店街の窓ガラスが割れることもありましたが、現在ではそれも見られません。
 そして、神様は何のためにこのお練りをするのかというと、秋にいよいよ農家が米を収穫してうれしそうな様子や、農家が商店で様々な物を買って町の人がうれしそうな顔をしている様子を見るためだそうです。神様は神輿に乗って、人々が豊かで喜んでいるところを見るのです。それで神様が人々の様子を見るために吉野の神輿には外側に4つの鏡が付いています。町の近くに御旅所も2か所あり、メインとなる御旅所では神楽や浦安の舞、餅まきが行われます。餅まきでは2俵(約120㎏)分の餅をまくのですが、それを皆が楽しみに来ています。
 御神体が入っている吉野の神輿は権威が高く、私が若い頃は神輿のかき手以外が神輿に手を掛けることは許されませんでしたし、宮出しの際のお清めのお神酒も神輿のかき手でない人がかき手より先に飲むことは許されませんでした。
 かつて秋祭りは11月8日に行われていたのですが、現在では10月の第4日曜日に行われるようになりました。平日だと参加できない人も多いので、休みを利用しようということになったのです。一旦は祝日である11月3日の文化の日に行ったのですが、役場が文化祭を始めたので、それを避けるために10月の第4日曜日に落ち着きました。吉野の宮司さんはそれを決めるときには『年に一度の祭りなのに日にちを変えるのはよろしくないのではないか。』と強く反対しましたが、町の行事には負けてしまいます。松野町のほかの地区では、目黒地区だけが11月3日の文化の日に秋祭りを実施しています。」

  イ 蔵王神社

 「吉野という集落は蔵王神社の神様が鎮座したときにできたという話を私(Bさん)は聞きました(写真1-2-3参照)。蔵王神社は奈良県の吉野から来たそうで、来た当時は『鐘宮一宮蔵王権現(かねのみやいっくうざおうごんげん)』という名前だったそうです。しかし、長いので蔵王神社と呼ばれるようになったのだそうです。私たちが子どもの頃、お年寄りの参拝者の中に小さい旗に鐘宮蔵王神社と書かれた旗を持っていた人がいたことを憶えています。話を聞くと、『鐘宮なのでお金ができるやもしれん。』『蔵王だから蔵ができる。』と言っており、非常に厚く信仰されていたようです(『吉田古記』には『金乃宮』と記述がある)。子どもの頃は多くの人が鐘宮と呼んでおり、ほかの集落の人にも『おたくらは鐘宮の組の人かな。』と言われたことがあることを憶えています。」

  ウ 吉野川

 「国土地理院の地図では広見川と表記していますが、私(Aさん)が知る限り、もう少し上流の松丸と吉野の村境の辺りから四万十川との合流地点までの約20㎞は昔から吉野川と呼ばれていました。また、吉野の町から東にある峠を土佐越と言って、もちろんまだ伊予の国なのですが、この辺りの人は峠を越えた山の向こうを土佐と呼んでいました。ここは中村(なかむら)の領主であった一条氏やのちの長宗我部氏とこの辺りで激しく戦っていたことにも関係するのではないかと思います。『吉田古記』によれば、1550年頃は蔵王神社を土佐の勢力が占拠して、吉野川の対岸の伊予の西園寺氏と対峙していました。松野町が売り出している河後森城は宇和之荘の西園寺氏の影響下にあった渡部氏の居城で、約20年の間、土佐の勢力と伊予の勢力が吉野川の河原を挟んで対陣していました。当時吉野の里は渡部氏の武将竹内氏が中串山の丸山城の城主として支配していましたが、永禄10年(1567年)に土佐の一条氏、長宗我部氏連合軍の攻勢を受けて落城しています。攻防の激しい地だったので、この辺りの水田には戦死者を追悼する小さな碑が至る所にあります。」

写真1-2-1 現在の商店街

写真1-2-1 現在の商店街

松野町 令和6年7月撮影

写真1-2-2 吉野生駅

写真1-2-2 吉野生駅

松野町 令和6年7月撮影

図表1-2-1 昭和50年頃の吉野の町並み

図表1-2-1 昭和50年頃の吉野の町並み

調査協力者への聞き取り、『松野町商工会誌』により作成

写真1-2-3 蔵王神社

写真1-2-3 蔵王神社

松野町 令和6年12月撮影