データベース『えひめの記憶』
えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業26-松山市③-(令和6年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)
1 農業地帯の変化
(1) 野菜の栽培
ア 自転車に載せて
「私(Aさん)が中学生のときに終戦を迎えました。高校を卒業した18歳の頃からずっと土居町で農業をしています。私は農業しかしたことがありません。松山平野のこの辺りは米と麦が中心ですが、私はこれまでに野菜も50種類くらい栽培してきました。ブロッコリーやキャベツを栽培していて、キャベツだけでも5、6種類は栽培していました。ほかにも、トマト、ナス、ピーマンなども栽培していました。
昔は作物を運搬するための自動車はなかったのですが、重荷用自転車という丈夫な自転車があって、米1俵(約60kg)くらいなら簡単に載せてどんどん走っていました。あるときに、坂本小学校で盆踊りの練習会をするので来てくださいと言われたのですが、青年団の団長だから仕方がないと、みんなに声を掛けたけれど、誰も行こうとしませんでした。そのとき、手を上げた地域で一番大柄な子を、夕方から自転車の後ろに乗せて、砂利道をどんどん自転車をこいで行って、私も盆踊りの練習をして帰ってきました。そうしたら『あの子を乗せて坂本小学校までどうやって行ったんだ。』とみんなから言われたことを憶えています。
普段から私は米1俵よりも重たい野菜を積んで市場まで運んでいました。その頃は、土橋に青果市場がありましたので、土居町で野菜を一杯に積んで、立花の坂を越えて、坂を下って左に曲がったら伊予鉄道の煉瓦(れんが)橋があります。軽トラック1台がなんとか通れる煉瓦橋の下をくぐったら、今の県立中央病院の横に出るので、さらに進んでいくと土橋の市場に着きます。そこに野菜を並べて、また土居町まで自転車に乗って帰っていました。」
イ スイカ泥棒
「私(Aさん)は白菜を栽培する時期の前に、スイカを栽培していました。当時、松山ではスイカは高く売れなかったので、土居町内で採れたスイカを1か所にまとめて、大阪まで売りに行っていました。当時、土居町には自動車が通れる道は1本しかありませんでした。その道路のそばにくいを打って場所を作り、町内中のスイカを集めておきます。誰か一人は大阪まで付いて行かないといけませんのでいつも私の父親が付いて行っていました。大阪でスイカを売って得たお金は、愛媛に帰ってきてから出荷したスイカに応じて、誰が幾ら、誰が幾らと分配していました。
スイカを栽培していた頃、スイカが熟れてくるに連れて、スイカ泥棒が現れます。夜になるとスイカ畑のそばで見張りをしていたのですが、当時は今と違って畑の周りには建物が1軒もなかったので、吹きさらしで夏でも肌寒く感じます。スイカ畑の四隅にくいを打って屋根を作って側面にはむしろを巻いていました。その中であわせを羽織って、薄い布団をかぶっていました。
夏休みになるとときどき友人が遊びに来ていたのですが、5人くらいで畑まで来るのにそのうち3人くらいが私のところに来て馬鹿話をします。その間に、残りの2人がスイカを盗んで、そばの小川にスイカを流し、後から下流の方ですくい上げて見えないところまで行って、みんなで食べていました。
どうして分かったのかというと、私の前でも別の家の畑でスイカを盗んでいるという話をたくさんしていて、今度は私の家のスイカ畑にも来たかという具合でした。分かっていても直接本人たちを追及することはありませんでしたが、直接言ってくれたら少しくらい分けてあげるのに、黙って盗む人間にこっちから言う義理はないと思っていました。一つくらい盗まれても構わないのですが、勝手に畑に入るとスイカのつるを踏んで切ってしまうからとるなと言っていました。友達だったし、もう仕方がないと思っていました。」
ウ トマトの商品化
「私(Aさん)が物心ついた頃、私の家ではトマトをガラスハウスで栽培していましたが、県内では最初にトマト栽培をしていたと思います。トマトを作っても周りで誰も食べなかったため青果市場にも出荷できないですし、家の中でも誰も食べませんでした。収穫したトマトは全て木箱に詰めて、大阪に出荷していました。
その頃の木箱は、まだ30、40箱は家の納屋に残っていると思います。当時はボイラーをたいて、ガラスハウスでトマトやメロンを作っていました。戦後、トマトを入れた木箱に商品ラベルを貼って出荷していましたが、両親が絵を描くのが好きだったので、商品ラベルに絵を描いて、印刷したものを貼っていました。まだ紙が貴重な時代でしたので、ラベルを剝がした剝離(はくり)紙は帳簿に利用していました。
その後、少しずつ松山でもトマトが売れ始め、私が大人になって農業を始めた頃には松山でもたくさん売れるようになっていました。最近はトマトというと、久万高原町が中心で、松山市農協の中で1億円売り上げるのはほかにないくらいのトマトの産地に成長しています。品種は松山平野と同じ桃太郎トマトですが、桃太郎トマトの中にもいろいろあり、久万高原町では高地の寒暖差を利用して作れる品種を開発し、トマトを栽培しているそうです。
現在ではトマトを使った料理もたくさんあり、グラタン生地にトマトを切って敷き詰めて、そこにナスやピーマンを並べたりチーズを載せたりして、オーブンレンジで加熱するだけで本当においしく食べられます。トマトの栽培を始めた頃は、周りでは誰もトマトを食べていませんでしたし、トマトを加熱して食べるなんていうのは考えたこともありませんでしたが、今では本当にいろいろな調理法があるそうです。」
エ 長ナスの害虫対策
「どんな野菜でも栽培を始めた頃はそうですが、昭和30年代、40年代に私(Aさん)が長ナスの栽培を始めたときに、どうやっても長ナスの実に傷ができるという問題が起きていました。原因を調べてみると、実ができる前にミナミキイロアザミウマという害虫が花の中に入ることを教えてもらいました。
インドまで行ってミナミキイロアザミウマを研究した人の成果を参考に対策を考えていたのですが、それでも解決するのには5年から10年は掛かりました。この虫自体は弱いので自力では大して移動することはできないそうなのですが、人に付いたり自転車に付いたりして移動しているそうで、畑の中でも通りに近いところに多く発生していました。この害虫を駆除するために、花の中にまで薬をよく散布できるように工夫したら問題は収まりました。その結果、現在ではミナミキイロアザミウマで苦労している人はいません。」
オ 害獣の被害
「現在でもスイートコーンを栽培しています。スイートコーンを植えると、犬や猫、タヌキやハクビシンが食べに来ます。土居町内では、昔からキツネが出たという話は聞いたことがありません。それらの動物が食べにくるくらい採れたてのスイートコーンは甘くておいしいです。今年(令和6年〔2024年〕)もタヌキが畑に来ているのを私(Aさん)の息子が見たと言っていました。ハクビシンは猫の仲間なのでスイートコーンの木にも登り、実を地面に落とすと、木の根元で子どものハクビシンが待っていて食べています。採れたてが一番おいしくて、1、2日たったものは極端に味が落ちてしまいます。私も収穫した後は、すぐに持って帰って冷蔵庫に入れ、寝かさないで、なるべく早く食べるようにしています。
タヌキが来たことが分かるのはトイレで、かつて私の家のキンモクセイの根元に山のように糞(ふん)をしていました。タヌキの特性として、一度糞をした場所にはそれから何度も糞をしに来るそうです。しかし、タヌキは畑のそばの水路を改修したときに水道管に蓋をしたら来なくなりました。石井地区ではタヌキは道ではなくて水路や川の中を移動しているようです。河川にそれほど水量がないので、浅瀬をぴちゃぴちゃ歩き回ることができるようです。宅地でも昔の井戸が残っていたり、溝のふたが開いていたりする場所があると、そこから出入りして畑の作物を食べてしまいます。そのようなタヌキの生態を動物園の飼育員さんが教えてくれました。ハクビシンもタヌキと同様で、この対策で減少しました。」
カ ソラマメの収量チャレンジ
「現在は、ソラマメ(松山平野でとれたソラマメの多くは青ざやで出荷され、蚕豆とも呼ばれる)を単位面積当たりどれだけ収穫できるかということを追及して、もう20年以上も継続しています。本来、ソラマメというと実だけになったものを指しますが、蚕豆というと外側の皮も付いた全体を指します。私(Aさん)の息子が帳面に記録を付けていますが、もうけは度外視して単位面積当たりのソラマメの収量を増やすことだけを追及しています。この面積でどれだけ収穫できるかというのが農業のだいご味です。
私の息子が畝立てをして、消毒ももちろんしています。9月になったら種まきを始めて、ソラマメが伸びてくると、垣根を天井くらいの高さまで伸ばしてくいを立ててロープを張って倒れるのを防いでいます。真冬の一番寒い時期にはしおれてくるので私はさらに手入れをしていますが、つるの高さを抑制するなど、作る人によって手入れの仕方が異なります。そのため、石井でソラマメを作っている人の畑はほとんど見に行きました。上手に作っている人の畑には何回も何回も足を運んだり、こんな手入れをしてみてはどうかと話し合ったりもしています。
そこまで広い面積では作っていなくて、始めた頃は5畝(約5a)くらいソラマメを作っていましたが、今は2、3畝(約2aから3a)にまで減ってきています。私も年齢が年齢なので、息子から『種の注文がきたが、今年も挑戦するか。』と言われたら、『私はもう死ぬかもしれないが、とにかく種を注文しておいてくれ。』と言いながら、もう何年も続けています。」
(2) 葉タバコの栽培
ア 石井地区の葉タバコ栽培
「私(Aさん)はもう70年以上土居町で農業をやっていますので、石井地区の農業だったら大抵のことは知っていると思いますが、これまで作らなかったのは、葉タバコです。葉タバコを栽培している農家の人は、乾燥させるための高い土蔵を建てて、下から火を送り込んだりして大変そうでしたが、葉タバコくらいもうかる作物はほかになかったと思います。厳しく管理されているため、作ったら作った分だけもうかっていました。だから、農家としては葉タバコを栽培してもいいかなと思いつつ、米を作るのが本業ですので、結局できませんでした。」
「収穫した葉タバコを乾燥するときは、乾燥場でいろりみたいに火をくべて、一度乾燥が始まったら火を消してはいけないので、ほかの葉タバコ農家や親戚が手伝いに行っていたことを私(Bさん)は憶えています。
昭和30年代後半、居相では5軒くらいの農家が葉タバコを栽培していましたが、石井地区では居相が最も多かったと思います。昭和30年代半ばから本格的に栽培するようになり、昭和50年頃まで15年間くらい続いていたのではないかと思います。」
「石井地区の中では居相の土地が昔から最も高くなっているので、土が乾燥していて葉タバコの栽培に向いていたのだと思います。多いと言っても、葉タバコの栽培の規模は1反(約10a)とか2反(約20a)とか小規模だったと思います。葉タバコ栽培は裏作ではなかったはずですから、あくまでも稲作が中心で米を差し置いてという農家はありませんでした。そんな規模で葉タバコを作っていたら、本当に作業が大変だったと思います。
天山で葉タバコの栽培をしていたという話は、私(Cさん)は一度も聞いたことがありません。天山には乾燥場は一つもなかったと思います。葉タバコは土地が比較的乾燥している地域に適しているそうですから、栽培に適していなかったのだと思います。そのため、天山では誰も栽培させてもらえなかったのではないかと思います。」
イ 専売公社による生産管理
「葉タバコ栽培は、専売公社の検査員による指導があり、葉タバコの種を送ってきて、どこの畑に幾ら植えて何本育って、葉が何枚になったら芽かぎしてという風に検査員が直接畑に見にきては細かく検査を行い、横流しなどが起こらないように確実に出荷させていました。国の仕事でしたのでしっかり管理されており、農家となれ合いにならないように農家の人とはほとんど話をしていなかったことを私(Aさん)は憶えています。」
(3) 石井地区の畜産
ア 乳牛の飼育
「昭和30年代後半に、私(Aさん)は温州ミカンを作っていた時期があります。一時はよく売れていたのですが、2、3年ですぐに売り上げに陰りが見え始めました。温州ミカンの栽培を始めた試行錯誤の時期は収入がなく、ほかのことで生活費を安定して稼がないといけないので、乳牛の飼育をしていました。飼育場のそばには牛の運動場があり、ときどき乳牛を運動場に出して運動させていました。私の長男が部屋の前で子牛を引っ張ってきて写真に撮って、農業関係の雑誌の表紙になったこともありました。
昭和30年代後半、乳牛は乳牛で別の通帳を作ってお金をやり繰りしていました。日々の生乳があるので、乳牛の飼育は考えていたよりももうかっていました。ただし、ほかの作物栽培もしていたので、牛が4、5頭になった頃は本当に忙しかったことを憶えています。毎朝4時頃から起きて搾乳をしなければならないのですが、搾乳機を使っても最後は手で直接搾乳をしないといけませんでした。この搾乳の最後の部分には脂肪分がたくさん含まれていて、それを必ず混ぜて出荷するので機械を使った搾乳だけでは生乳の品質が保てません。
また、私の父も搾乳はできましたが、手の感覚が変わると牛が乳を出さなくなります。だから、松山市内で全県下の青年団の研修会を1泊2日で実施したときも、子牛ができた1、2週間の時期は夜中に起きて、『家帰って乳搾ってこうわい。』と言って、自転車で土居町の自宅まで帰ってきて、搾乳したらまた自転車で研修会場に戻っていました。
私の父が60歳を超えた頃、乳牛を飼うのをやめました。父が癌(がん)になり、当時は付き添いが必要でしたので私の母と砥部にいた母の姉とが交代しながら病院で付き添っている期間が1年以上続きました。入院したらお金は必要ですし、それまで両親と私たち夫婦の4人で働いていたのが、父がいなくなり、母が病院に付き添いに行き、妻は子どもの面倒も見なければいけません。あのときは妻にも本当に迷惑を掛けたと思います。もうどうにもならないので、農協に相談に行き、今の状況で何かをやめるかとしたら、乳牛をやめるしかないという考えに至りました。最も年齢のいった牛はまだ乳は出ていたのですが、もうお産も難しいのでさばくことになりました。私も若い頃からずっと面倒を見ていた牛だったので、さばくところまで見に行きました。ほかの乳牛は残りましたが、乳牛を1頭手放して入院に必要なお金が入り、乳牛を世話する負担も少なからず軽くなったと思います。親戚の人からも、父が入院してかなりお金が必要になるからとお金を包んでもらいましたが、牛も売って、なんとかやりくりできると説明して、受け取ることはなく持って帰ってもらったことを覚えています。」
イ ニワトリの飼育
「石井の農家の中には現金収入を得るために乳牛を飼っているところもありましたが、ニワトリを飼っているところもありました。戦後、養鶏をしている農家は相当多かったと思います。居相だけで5軒くらい、天山も3、4軒の農家が養鶏をしていて、私(Cさん)の家でも飼っていました。それぞれの農家が2,000羽くらいは飼っていたと思います。」
「以前、石井小学校の西の方にあった自然泉から古川の方に流れていく河川に大きな土手があったのですが、椿神社の北側にあったので北土手と呼ばれていました(写真2-3-1参照)。
昭和20年代後半に、その土手の土をトロッコで運んで椿参道の拡幅工事が行われました。その土手の跡地に六時屋の養鶏所ができ、カステラの原材料となる卵を生産していたと私(Bさん)は聞いています。
また、西石井にはアメリカでひよこの雄雌の鑑別法を勉強してきた人がおり、そのおかげで養鶏が盛んになったと思います。
しかし、残念なことに、昭和38年(1963年)頃にニワトリの病気であるニューカッスル病が流行し、多くの農家が養鶏を廃業することになりました。」
(4) 農業環境の変化
ア 農家に生まれて
「石井の中でも最初に麦作をやめてしまったのは居相だと言われています。笑い話で『居相の人はのら(怠け者)だから。』と言われたりすることもありますが、その当時、麦は米の半分以下の値段にしかならなかったのでやめてしまったのだと思います。それでも私(Bさん)が幼かった頃は、米も麦も作っていました。
炊事のときも米と麦を半分半分で炊いていましたが、麦は米よりも軽いので炊きあがったときに釜の上の方に偏ります。今となって考えると私が長男だったからなのかもしれませんが、茶碗に御飯をよそうとき、上の方にある麦を避けて、米を多めによそってくれていました。私は4人兄弟でしたが、姉の茶碗には麦が多く混ざっていたことを憶えています。
子どもの頃は食事のときの席も決まっていて、長男、長女、次女、三女の順で座り、お膳の大きさも全て異なっていました。食べるときは家族全員がそろって正座して、私の父が食べ始めてからみんな箸をつけていました。また、『食べながらしゃべったらいかん。』と言われて、黙って食べていたことを憶えています。
昭和37年(1962年)からほとんどの農家が兼業になり、お米を作りながらサラリーマンをしていました。私は昭和31年(1956年)に愛媛大学農学部附属農業高等学校を卒業しましたが、農業を4年間経験した後、松山市役所に勤めました。そして、初代の職員厚生課長に拝命されたり、最後は石井支所長の栄に浴することができました。」
「私(Cさん)は愛大附属農高を出て、昭和50年(1975年)に市役所に入り、65歳まで勤めました。市役所を退職した後は、ソラマメだけは農協に出荷していますが、米や野菜は自家用として少量作るなど、楽しみながら農業をしています。
石井地区では、農業だけでやってきている人はほとんどいませんでした。同級生で一緒に農業をしていた人もいましたが、その後、彼も農協に就職して専務にまでなりました。」
イ 土地改良区の発足とこれから
「昭和37年(1962年)に古川、和泉、西石井、東石井、朝生田、居相の6地区が土地改良法に基づいて土地改良区を発足させました。これは松山市と合併する話が出始めた頃に、地区固有の土地を有している居相等では『松山市との合併によって、土地が統合されてしまう。』といううわさから、6地区が相談して、この状況を防ぐ方法として土地改良区を作ろうということになり、同37年4月1日、松山市と合併すると同時に土地改良区を発足させました。
居相では、今年(令和6年〔2024年〕)、第61回土地改良区通常総会を開催しましたから、土地改良区が発足してから61年間も続いているということになります。私(Bさん)は松山市役所退職後、町内会長に推され、その任期が満了すると、土地改良区の理事長を務めて今日に至っています。昨年、土地改良区は不動産貸付等営利事業を行ってはいけないとの国、県の指導を受けましたので、司法書士とも相談しながら、令和7年(2025年)4月1日付けで居相と西石井は一般社団法人に移管する予定です。松山市内では、ほかにも南吉田、高岡の2土地改良区が一般社団法人になる予定です。」
ウ 農業地帯の変化
「松山市内のドーナツ化現象とともに、特に市の南東部に住宅地が発展していきました。もともと松山市の人口重心は堀之内が中心でしたが、市街地の拡大に伴って南東方向に移動していったと私(Bさん)は聞いています。今はもう松山市駅の辺りまで人口重心が動いてきているのではないでしょうか。」
「昭和37年(1962年)、松山市との合併がきっかけになってどんどん景気が良くなり、合併の前後から昭和40年代は市街地が南東方向に拡大していった時期だと私(Cさん)は思います。それまでは石井村として頑張ってやっていこうという雰囲気だったと思いますが、モータリゼーションの進展や昭和40年代には森松線の廃止による国道33号の拡幅など、松山市との合併に伴って急激な変化がやってきました。昭和46年(1971年)に松山市広域市街化区域が設定されたことで住宅地が急速に拡大し、その後、松山環状線が開通したり、松山インターチェンジが完成したりする中で、多くの人にとってこの辺りは今までと同じように農業を続けていける環境ではなくなってきました。農地があったところにビルや住宅が立ち並び、農地から宅地への転用が急速に進んでいきました。しかし、石井地区の中でも南の方は、市街化調整区域がまだ残っていて農地として保全されているので農業が続けられているのだと思います。
昭和50年代半ばになると、天山や石井の方は大分宅地化が進んできていました。当時の水稲の出荷状況を見ていても、南に位置している土居町は群を抜いていました。麦の出荷量も同様だったと思います。農家戸数でも出荷量でも天山や石井と、土居町では全然違ってきていました。」
(5) 水害と水路の整備
ア 石井地区の利水
「天山は、石手川の水が流れてきているので水は昔から豊富にありました。石手川に堰が11か所設けられていて、そのうち岩堰や湯渡橋、中村の上流などの3つの堰から天山に農業用水を引っ張ってきています。なお、上流域の宅地化による農地の減少等により上流域から水が集まってくるので、平成10年(1998年)に天山一帯が浸水したことを私(Cさん)は憶えています。
昔から天山の土地は水が得やすく、レンコン栽培に適したレンコン地と言われていました。しかし、レンコンは普通の田んぼでは作れないので、レンコンを栽培しようとすると米作りには向かない土地になってしまいます。稲作が主なので、昔から天山でレンコンを作っている農家はいなかったと思います。」
イ 水害の記憶
「天山では、大雨や台風のときにたびたび畑が水につかることがあり、『おい、また水につかったが、どうにかしてくれ。』と農家の方が怒っていたことを私(Bさん)は憶えています。
乙井川流域の土居町では、昔、台風や大雨のときに増水すると川の中に渦ができていたそうです。そうしたら公民館の畳を剝がして持って行って、自分の体を縄で縛って流されないように固定し、渦の中心に向かって畳を突っ込むと渦が収まったと聞いています。
昭和18年(1943年)に大雨で重信川の支流にある乙井の土手が決壊して、古川の辺りが浸水したことがありました。昭和54年(1979年)の梅雨のときには、私の家の門も浸水し、置いてあった農機具もつかってしまいました。それがきっかけで私のところでは門や塀を50cmかさ上げしました。」
「昭和54年(1979年)6月の豪雨は、松山市始まって以来、最大の災害でした。この災害のおかげで、市内の河川が整備されて、川附川や小野川も改修されたことを私(Cさん)は憶えています。」
「大雨が降って、土居町でも農免道路の辺りがナイアガラの滝のようになったことがあります。上流に大雨が降って井戸からは水があふれるし、空からは雨が降り続けていました。そのときに今在家の住宅地が浸水しましたが、浸水した家は全て農家の家だったことを私(Aさん)は憶えています。新しく建てられた住宅は、多少なりとも自動車でよそから土を持ってきて土地を上げていたので浸水しなかったそうです。
土居町の方でも市が作った公営住宅が60戸ほどありましたが、住宅が浸水することはありませんでした。しかし、まだ水洗化されていない便所に浸水し、周辺に汚水があふれるので大変な状況になったことを憶えています。夜中に町内放送で『力がある人は、誰でも構いませんので手伝ってください。』と呼び掛けて、市が用意した土のうを積み上げて、横土手と呼ばれるもので対処していました。今在家の辺りに住宅地が広がり始めていた時期ですから、昭和54年(1979年)の出来事だったかもしれません。」
ウ 水路と道路の整備
「松山市と合併して、松山城を中心として市街地が北から南に拡大していくと、南北方向の道路開発は必須でした。石井支所の東側の道も拡張する話が出たことがありましたが、いつの頃からか聞かなくなりました。私(Aさん)は、石井公民館の副館長をしていましたが、市の予算で道路の開発をして欲しいという話を議会に上げても対立する意見を持っている人もおり、市議会を通ることはありませんでした。
そこで公民館が道路整備をするという計画でいこうとなり、現在の石井支所の前の道路が完成しました。反対する人を説得することにも苦労しましたが、もともと水田地帯の中心であったこの辺りは遊水池から流れてくる水を分水して、複雑な水路網を形成している地域でした。現在の石井支所の前の道路は、6、7本の河川が集まってきているところで、道幅も狭く、自動車が1台通ったら人も通れないくらいの幅しかありませんでした。そのため、複雑な水路を図面に書き込んだりしていると、基礎計画を立てるだけでも1年以上の時間を費やしました。道路はもちろんですが、水路を整理するために古川や西石井にも行って反対する人の意見をまとめたり、意見の異なる議員さんと白熱した議論を何度も重ねたりして、大変苦労したことを憶えています。なんとしても今回で計画をまとめなければいけないと、私たちは必死でした。反対に、あの頃はお金もあったので計画さえ出来上がってしまえば、一気に工事が始まり道路が完成しました。ここの水路を整理して、この道路ができたことで、現在の石井公民館もできました。
新しくなった公民館では、石井地区の成人式をしたこともあります。青年団が中心となって集めていたのですが、私はいろいろお世話もしていたので真ん中の方に座らせてもらいました。」
「現在、石井支所と石井公民館が建っているところは、昭和30年代には小学校中学校兼用の講堂がありました。現在、石井小学校がある道路と水路を挟んだ東側の敷地に、当時は小学校と中学校が両方建っていました。
どうしてこの辺りに水路が多くあったのかというと、当時の石井は水田地帯なので分水しないといけません。現在ならば堰板がありますが、当時はいろいろな方向に水路を分水させていて、水路と水路との間には土手が盛ってありました。土手にはまだ自然が残っていたことを私(Bさん)は憶えています。大きなカエルはいましたし、夏にはホタルが飛んでいました。当時はそういう水路がここに6、7本もありましたが、現在は整備されて暗きょになっています。」