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四国遍路のあゆみ(平成12年度)

(2)四国霊場八十八ヶ所の形成

 ア 四国霊場の形成

 現在、遍路する人々は四国霊場八十八ヶ所(札所)を巡りながら旅を続けている。四国遍路が各霊場を必ず巡る行為である以上、各霊場の持つ意味も大きいと言える。

 四国霊場八十八ヶ所は、どのような所が霊場となったのだろうか。
 このことについて『愛媛県史 学問・宗教』に次のような記述がある。

   四国霊場信仰は霊地信仰または聖地信仰であって、特定の信仰対象によって統一されたものではない。平安末期に成立し
  たとみられる西国三十三観音霊場は、四国霊場に影響を与えたのは確実であるが、これは観音信仰に一貫した本尊巡礼であ
  る。四国霊場はさまざまな霊地から成っているから、その信仰はさまざまである。自然崇拝に基づく原始信仰、道教の影響
  も受けた土俗的信仰などに、仏教伝来以降の各種信仰が、多様に、しかも重層的にからんでいる。それらの中でも顕著なも
  のは、弘法大師の修行にみられる虚空蔵(こくうぞう)菩薩の信仰、大師みずからの信仰にみられ、やがて高野山奥之院にま
  つわる大師の入定信仰に発展した弥勒(みろく)信仰、つぎに、仏教渡来以来一般化していた薬師信仰や観音信仰、そして平
  安末期から鎌倉時代にかけて盛んになった阿弥陀信仰や地蔵信仰、そして阿弥陀信仰との習合の著しい熊野信仰や八幡信仰
  があり、多様な信仰が複合し、重層的に発展して、四国霊場信仰を形成している(①)。

 このように、四国霊場は、多様な信仰が複合した様々な聖地から成っており、その形成過程においては、様々な信仰が重層的に発展して形成されていったものと考えられる。そしてこのことは、八十八ヶ所の各霊場が、必ずしも真言宗派だけではないことからも説明できる。
 前田卓氏は、「四国八十八ヶ所の霊場のうち、現在でも天台宗が4ヵ寺、臨済宗が2ヵ寺、曹洞宗が1ヵ寺、時宗が1ヵ寺もある。更に昔時にあっては、他の宗派はもっと多かったと思われる。たとえば、四十番観自在寺がかつては天台宗であり、四十九番の浄土寺はその名の示すが如く浄土宗であり、五十一番の石手寺はもとは法相宗であったし、四つの国に1ヵ寺ずつある国分寺は、華厳宗であったのである。(②)」と述べ、八十八ヶ所の中には真言宗以外の宗派が多く混じっていることを指摘している。
 さらに近藤喜博氏は、神仏習合の色彩濃厚な札所として、一番(霊山寺)、二十七番(神峯寺)、三十番(土佐一宮)、三十七番(五社)、四十一番(稲荷社)、五十五番(三島宮)、五十七番(八幡)、六十番(横峯寺)、六十四番(前神寺)、六十八番(琴彈八幡宮)を挙げている(③)。
 このように、神仏習合の時代にあっては、幾つかの神社が霊場に含まれていたのである。
 次に、各霊場の遍照一尊化についてであるが、現在の霊場では、宗派などに関係なく必ず大師堂があり、巡礼者は大師堂の巡拝を欠かさず、霊場の遍照一尊化がなされている。
 この霊場の遍照一尊化の時期については、先に挙げた文書や落書から類推すると、室町時代にはその傾向が見られるが、各寺院に伝わる遺品からもある程度それを推測することができるという。
 近藤喜博氏は、寺院に伝わる弘法大師関係の遺品として、五十二番太山寺と二十六番金剛頂寺に鎌倉時代に描かれたとされる弘法大師画像や、十二番焼山寺と六十七番大興寺には鎌倉時代に制作されたとされる木造の弘法大師座像、さらに三十八番金剛福寺には室町時代のものと思われる弘法大師座像などがあるが、各札所寺院に伝わる遺品からも、室町時代以前から少なくとも弘法大師信仰が一つの流れとしてあったと認めてよいと指摘している(④)。そして、「資料としては少ないが、室町期、既に四国霊場が、弘法大師信仰とその伝説の融合の中に、漸く真言宗系の、しかも遍照一尊の色彩を濃化しつつあったことは、認めねばならぬようである。(⑤)」と述べている。
 しかし、新城常三氏はもう少し早い時期を想定し、「平安末の四国辺地に、後世の遍路の前駆的形態を認めることは、許容されるであろう。平安末における大師信仰の一般化、それに諸々の回国・巡礼の発展に伴い、大師を追慕する四国辺地=四国巡礼が、しだいにはじまったのであろう。(⑥)」と指摘している。

 イ 四国八十八ヶ所の起源

 四国霊場八十八ヶ所につぃては、元禄3年(1690年)に真念によって刊行された『四国徧礼功徳記』に「遍礼(へんろ)所八十八ヶ所とさだめぬる事、いづれの時、たれの人といふ事さだかならず。(⑦)」と記述しているように、元禄のころにおいても、八十八ヶ所が、いつごろ、誰によって定められたかは定かでなかったことをうかがわせている。
 今日、四国八十八ヶ所という言葉を史料的に裏付けることの初見と言われているものには、高知県土佐郡本川村越裏門字地主地蔵堂の鰐口(わにぐち)がある。
 この鰐口の研究については、岡本健児氏の論考を要約し、以下紹介しておきたい。
 この鰐口の銘文が世に明らかになったのは、建山武市佐市郎氏が、大正8年(1919年) 2月1日に土佐国に現存したものを対象に調査してまとめた『土佐考古志』に収録されたのが最初であろう。また大正13年刊の『高知縣史要』の「考古学上より見たる土佐」にもこの銘文は取り上げられ、さらに木崎愛吉氏の『大日本金石史』にもこの鰐口の銘は収録されているが、それは『土佐考古志』によるとされている(⑧)。
 しかし、昭和39年度から42年度にかけて国の文化財保護委員会が実施した四国八十八ヶ所の総合調査では、札所以外の寺院も調査対象とされたが、この鰐口については確認されなかった。そのため当時の研究においては、先の諸文献にあるこの鰐口の銘文が引用され、新城常三氏のように疑問を抱く者もあった(⑨)。
 その後、昭和60年(1985年)に高知県本川村が村内で実施した仏堂調査において、行方不明となっていたこの鰐口が仏堂の片隅で発見され、その所在が確認されることとなった。
 この鰐口は、左右の目を入れて径14.8cm、上縁より下縁までの径13.8cmを測る。目の突出は0.8cmで筒状をなし、やや下に向かって突き出している。片目は一部欠失し、一方の目には、割れ目が入り歪みがみられる。鰐口の銘文は、両面に細い文字で鐫刻(せんこく)されており、銘帯のみではなく撞座にも銘がみられる。銘文は毛彫りとみられ、その書体は一般的な鰐口にみられるものと比較すると細く、文字自体も素人の彫り方のように見える。
 まず表面銘帯に鐫刻された銘文は、正面中央部に、「力(地蔵種子)」、そして左廻りに、「大日本国土州タカヲコリノホノ河」とあり、右廻りに、「懸ワニロ福蔵寺エルモノ大旦那」、憧座には縦書きで3行にわたり、「福嶋季クマ タカ寿 妙政」とある。
 裏面銘帯には、左廻りに、「大旦那村所八十八ヵ所文明三天」、そして右廻りに、「右志願者旹三月一日」、憧座には、「妙政(種子?)(種子?)(種子?)」と鐫刻している。
 この鰐口銘によれば、鰐口を作るべく願った者は、福蔵寺に関係した妙政であったことが理解できる。妙政は、越裏門の名主層と理解される福嶋季クマ・夕力寿の援助により鰐口を寄進したものと考えられる。
 また、この鰐口は毛彫であり、その銘自体も片仮名交りの素人臭い彫り方ともいえる。しかし鐫刻でこれに類似する同時期の鰐口が本川村には現存しており、越裏門地蔵堂の鰐口銘が後世の追刻でないことを示すことにもなるのである。しかしこの鰐口はあまりにも素人臭い下手な文字である。このことは、鋳物師により彫られたものでなく、この鰐口を入手した福嶋姓側の人物、または妙政自身により彫られたことが想定でき得る(⑫)。
 以上、岡本健児氏の論考を要約し紹介したが、この鰐口によれば、高知県土佐郡本川村の越裏門には、文明3年(1471年)に「村所八十八ヵ所」がすでに存在したことになる。村所八十八ヶ所ということは、一村内に設けられた模倣形式としての四国八十八ヶ所の存在を物語るものと考えられるので、この新(ミニ)四国八十八ヶ所としての存在を通して、既に文明3年には、四国霊場八十八ヶ所が存在していたということを示す根拠としている。
 例えば、近藤喜博氏は「この鰐口銘から八十八ヶ所の霊場札所の固定しかかった時期を、史料的には少なくとも文明年間以前に求められるようである。(⑬)」と述べている。
 また『愛媛県史 学問・宗教』においても、「文明3年、福島某の寄進による土佐国土佐郡本川村地蔵堂の鰐口の銘に、『大旦那村所八十八か所』とあることが指摘され、村所、すなわち村内の八十八か所があるところから、これをミ二八十八か所とすると、この時以前に四国霊場八十八か所が成立していたとみられている。すなわち、四国の霊地は数ある中で、ながくその数は流動的だったであろうが、それがほぼ固定化したのは室町時代末期のことであった。そして、それからはずれたものが番外札所となり、札所の数とともに、以後さらに変動があっただろう。というのは、寂本の『四国遍礼霊場記』(元禄2年〔1689年〕)は、札所番号をあげないで95の寺院をあげており、なお番外札所との間に流動的なものがあったとみられるからである。(⑭)」と記述されており、八十八ヶ所の成立を文明以前としながらも、札所とその数についてはなお流動的であったとしている。
 しかし一方では、白井加寿志氏のように、この鰐口の銘文の鐫刻があまりにも稚拙(ちせつ)であることから疑念を抱き、「いたずら書きか、天明3年(1783年)のことか、いろいろ考えされるものを持っている資料である。(⑮)」と指摘するなど、疑問視する意見もあり、平成元年に刊行された『香川県史』でも「実見した所では、資料価値は薄いように思われる。(⑯)」と指摘している。
 このように、四国霊場八十八ヶ所の成立した時期は、資料不足のために明確に示すことは困難である。

 ウ 八十八の由来

 四国霊場八十八ヶ所と言われているが、霊場は四国においてなぜ八十八なのかという疑問がある。この疑問について、近藤喜博氏は、従来の俗説的な見解を整理して次のように幾つか例示し、これらの見解はいずれも合理性はなさそうであると否定している。

   ○ 米の字の分解による八十八からくるというもの。
   ○ 八塔の倍数に基づくというもの。
   ○ 「見惑八十八使」によるというもの。
   ○ 三十五仏と五十三仏とを合した数によるというもの。
   ○ 男の厄年四十二と女の厄年三十三、子供の厄に当たる十三を合した数によるというもの。

 そして、八十八ヵ所の八十八は、紀州熊野邊地とのかかわりの中に、八十八所の数を得たのではないかと指摘し(⑰)、「四国の海辺は邊地なのであり、これが遂に遍路化しようとする中世の或る時期において、従来の四国邊地と、その上に布置する霊験所をつないで、廻るミチが整えられようとしつつあった際、熊野と四国との関係や交渉も考慮に入れて、熊野邊地の九十九王子に次ぐ限定数として、八十八を求めて霊場札所の数とし、邊地の上に布置してバランスを採って、四国遍路の整備を図った。その傾向は既に早く、中世の民衆的宗教家の間にあったかと推測したいと思うが如何であろうか。(⑱)」と自説を展開している。
 また宮崎忍勝氏は、「そこには日本人の数量的信仰をみることができる。それは霊場に限ったことではない。(⑲)」と指摘したうえで、「十を満数とするのは中国思想にもとづくものであり、古代インドの通有観念では十六という数が満月すなわち満数を意味した。あるいは三、五、七を吉祥数とする数観念は現代でも使われている。古代日本人は八を満数、もしくは無限大を意味する呪的な聖数としていた。『記・紀』神話から『八雲立つ、出雲八重垣、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を』とうたわれたのをはじめ、八尋殿(やひろどの)、八島、八神、八十禍津日神(まがつびのかみ)、八尺(やさかに)の勾魂(まがたま)、八百万神、八尺鏡(やたのかがみ)、八俣遠呂智(やまたのおろち)などあげればきりがない。なかでも八十島(やそしま)祭の名は八に十を重ねて満ち足りた嘉数の観念を現わしたものである。(中略)四国八十八ヵ所の霊場も、八十の嘉数にもう一つ聖数八をつけたもので、日本民族古代の聖数もしくは呪数をあてたもの、とするのが私の説である。(⑳)」と述べている。 
 そして谷口廣之氏は、「札所の数はなぜ八十八なのか。男・女・子供の厄年の総和が八十八だからとか、米という字を解いたものであるとか、仏典に由来するとか、諸説はある。だが、この数字を有限数として限定的にとらえる必要はない。それは八百万の神々の八や八十島の八と同様に、無限に経めぐる行為の総体、そのはてしない円環が八十八という数字に仮託されているのではないだろうか。(㉑)」と述べている。
 以上、四国霊場八十八ヶ所の八十八をめぐる諸説を列挙してみたが、いずれも資料不足で決め手を欠き、推論の域を出ないものになっている。
 結局のところ、この八十八ヶ所の問題は、真野俊和氏が指摘するように、「いついかなる理由で札所とされるようになったのか、そしてまた八十八ヶ所が定められたのはいついかなる経過においてなのか、さらには八十八という数そのものがなぜえらばれたのか、等々の問題は今のところ何ひとつ明らかにしえない。(㉒)」というのが現状ではないだろうか。

<注>
①愛媛県史編さん委員会編『愛媛県史 学問・宗教』P642 1985
②前田卓『巡礼の社会学』P197 1971
③近藤喜博『四国遍路研究』P90 1982
④近藤喜博『四国遍路』P155~157 1971
⑤前出注④ P152
⑥新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』 P483 1988
⑦伊予史談会『四国遍路記集』P213 1997
⑧岡本健児「土佐国越裏門地蔵堂の鰐口と四国八十八ヵ所」(『考古学叢考』中巻 P407 1988)
⑨前出注⑥ P486「この鰐ロは、いつのころよりか紛失して、現存せず、わたしとしては文明に少なからぬ疑念をもつが、以前から木崎愛吉氏ほか各書並びに近刊の『本川村史』もいずれも、これを疑わず文明としているから、これに従うべきであろうか。とすれば当然、四国八十八所の成立は―現在の札所と一致するかどうかは別として―文明前となるのであるが、これ以上の追求は私の能力を越えるものである。」
⑩高知県教育委員会文化財保護室『高知県文化財ハンドブック』P75 1996
⑪前出注⑧ P413
⑫前出注⑧ P408~416
⑬前出注④ P133
⑭前出注① P650
⑮白井加寿志「四国遍路八十八か所起源考」(『郷土文化サロン紀要 第1集』 P21 1974)
⑯香川県『香川県史 第4巻 通史編 近世Ⅱ』P787 1989
⑰前出注④ P164~166
⑱前出注④ P167
⑲宮崎忍勝『四国遍路 歴史とこころ』P38 1985
⑳前出注⑲ P42~43
㉑谷口廣之『伝承の碑』P168 1997
㉒真野俊和『旅のなかの宗教』P55 1980