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久万町誌

2 名野川農民一揆

 池川紙一揆が菅生山へ駈け込んでから五五年、天保一三年(一八四二)七月四日土佐名野川郷民三二九人が逃散して来ている。
 天保一三年七月四日郷民は仁淀川沿いに越境し、山を伝い中津から、七鳥、更に進んで七月一五日には菅生山に入った。
 このたびは一揆の理由が前の紙一揆とは理由がちがっていた。前回の寺院の取扱いは、一人の責任者も出さなかったが、これはその後の藩政の支障となったことを理由に、土佐藩は極力寺院扱いを拒杏し、松山藩との政治的折衝によることに成功。松山藩は、菅生山に土佐郷民の引渡しを申し入れ、七月二五日松山藩から四五○人、土佐藩より六〇〇人の役人を出し、大宝寺を包囲し、一人ずつ帳簿と引合わせて、裏門から呼び出して渡し、直ちに腰縄をかけて引き立て、農民は強制的に帰郷させられて事件はおさまったのである。
 大宝寺ではこの事について腹におさまらず嘆願書がでている。(岩屋寺所蔵文書)
      土佐百姓共御引渡しに付拙僧落意仕り難く嘆願ロ上書
   此度土州吾川郡名野川御百姓共儀よんどころなきわけ柄にて拙山へ罷り越し候に付き申し出の次第方を御書を以て差上置候所、今朝御沙汰に付き、遅滞に及び候はば、御両領御障害に相成るべき段仰せ聞かされ候故よんどころなき儀に付、早速御請申し上げ一同へ其の旨申し渡し候。
   然る所此の度土州百姓共当山へ罷越し候所何等の趣意も相立たず引渡に相成、地内に於て縄目相懸け候段誠に以て見るに忍びず、一旦御祈祷所へ罷越候趣意、急度相立ち候様土州へ御懸合成し下され候様願い奉り候。
   若し又其の儀は相叶い難き筋に御座候はば全く当住の拙僧不徳故の義と恐れ入り奉り候間、速やかに退職仰せ付け下され度願い奉り候。
   右両様の内急速に御沙汰成し下され候らはば有難き仕合せに存じ奉り候。
                            以 上 
    天保一三年七月二五日
                    大 宝 寺
  杉山平之亟殿