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久万町誌

九 幕末における久万山

 江戸時代も幕末を迎えると、幕府の威令も次第に衰えてきて、封建社会は崩壊の経路をたどっていった。こうした国の動きが久万山の住民の生活にどのようにひびいていったものであろうか。久万山は、土地がらとして、三坂の峠にさえぎられ交通不便で、中央と隔絶された地域であって、教育も寺子屋があったとはいえ、じゅうぶんであったとはいえない。したがって考え方も保守的で純朴な気風であったと考えられる。
 西明神村庄屋であった梅木源兵衛は、弘化(一八四七)九月から明治五年庄屋廃止になるまで二五年間、久万会所詰庄屋として勤めた。
 源兵衛が会所詰になったころは、嘉永六年(一八五三)黒船来航があり、国内は動揺した時であった。「諸郡庄屋共火砲修行仰付」があって、源兵衛も松平左吉の門に人門して火砲の修行を志し、剣術修行のため山本左織の門に入り、主だったもの二一名とともに、率先馬術の練習もしたという。
 安政六年(一八五九)七月には藩命により人造硝石掛となり、家伝の秘法による硝石の製造の実験研究、家の床の下の土からとる硝石の製造に努力し、明治初年までつづけた。
 元治元年(一八六四)ごろになると尊王壌夷、討幕と互いにしのぎをけずって国論沸騰し、久万山の山村の住民もようやく動揺するようになった。そのためこの時局を理解し、よる所を明らかにするため、篤学の士を迎えたいと考え、御目付岡宮小左衛門にそのあっせんを頼み、慶応四年(一八六八)に斉院敬和を久万山に迎えた。これは久万山の寺子屋教育が社会教育に発展した特記すべきことであった。
 慶応四年(一八六八)には、鳥羽伏見の戦いがあり、親藩である松山藩は朝敵となり、土佐藩の松山進駐となった。土佐藩兵の第一陣は池川から国境東川村(現美川村)へ進駐して来た。当面の交渉は東川村の大庄屋梅木伝内があたった。その他の郡内での炊出しや宿泊等の応接、接待の計画、指揮は、ほとんど会所詰庄屋である梅木源兵衛があたった。二月には、久万山庄屋共惣百姓共連名で土州様御役所宛歎願書を出している。
      誠に乍恐奉願上候
  此度以御沙汰御軍勢御繰込に相成恐入奉存候。然るに御慈憐之義被為仰出難有一統産業相営可申義に御座候得共、御領地御差上御開城罷成候段下々之者共悲嘆之至奉存候。誠に弐百余年難申尽御恩沢相蒙厚御仁恵を以下々迄無難罷在候折柄係る御場合に相至重々恐入奉候何卒一統苦心罷在候段被為思召何分御慈悲を以御前体被仰出下々迄も安座仕候様被成下度下奉顧恐一同奉願候恐惶謹言
   慶応四年二月           久万山庄屋共惣百姓共
  土州様御役所
 当時の社会情勢が分かる。こうして郡民は土州藩の松山藩進駐を目前に見、諸制度の変革が急速にすすめられ、流言が乱れとぶ動揺期に、松山藩主が藩知事に任命されて一時治まったように見えたが機構の改革で藩主はその職を免ぜられ一家をあげて東京へうつることになった。そのことを知った郡民は二〇〇余年の恩顧を受けた藩主引留めの運動を起こし、その頂点が明治四年八月の久万山騒動へと発展するのである。