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久万町誌

1 池川紙すき一揆

 天明七年(一七八七)二月一六日、土佐池川郷用居村の農民六〇一名が池川口御番所の上の山をくぐり夜陰に乗じて越境し、東川を経て一九日に菅生山大宝寺へ駆け込むという事件があった。更に森山、北川の農民一二〇名が加わって嘆願書の取次ぎを願い出た。
 大宝寺では、これを各坊に分宿させ警備を固め炊出しをして賄った。
 炊出しも大変であったことであろう。
  「馬詰日記」に
  「菅生山へ登り居り候御国百姓共へ、右村より遣し候由にて、実は松山候より、朝一汁一菜の支度、昼焼飯二つづつ、晩粥遣わされ、一日の人目四石余に相成候由也」
とある。
 池川農民が伊予へ逃散した理由は、天明五年(一七八五)藩命により平紙の自由販売を禁止し、他国商人入合差留となり専売制となったことに始まる。
 元来、土佐の山間地域は、以前から紙の産地であったが、藩はこれを統制して供出させて財源とし、一部に課税をして自由販売をさせていたのであるが、天明五年から自由販売を禁止して、ことごとく問屋に売上げさせることにした。問屋は安値で買い取ったために農民は大いに不利となった。
 そのうえ天明の飢饉が重なり生活はますます苦しくなった。この飢饉もひどい状況であり、「池川年代記」を見ると惨状がわかる。
  一、春夏秋冬打続く霖雨に折々乾くと雖も雨露の乾事なし。農人耕すといえども草枯るる事なし、春夏仕付ける諸作は雨に焼かれ、草にせられ終に消失して生立つことなし。秋の取入といえども雨に押され、諸作を竿にかけ、納屋軒につり渡し、実ありといえども腐り手にかかるものこれなく、無上の悪政にて諸入秋春となく迷惑すること限りなし。累年悪政にて地中は食物の売買なし。殊に郷国政事改まり諸品残らず御召し上げ、御用紙、御截紙一〇分の一、煎茶、大豆小豆まで一つよりの上口と仰せ付けられ、他国売買御差留め、御問屋達に産物下値に買い取られ、いよいよ悪世にせめられて天命つきたる困窮、人今朝はい起きて銭をさげ、妻子は水茶わかしおれ、食物買って与えんと出ていく向きも悪政にて只一合もあらざれば、廻り廻りて帰りて見れば、妻子ともかたづをのんで待ちかねし見目あわれ。
    銭投げ出し、座敷にまろび泣きければ、妻子もともに泣くばかり、何食う手だてもなかりしと、聞くさえあわれふびん也。
とあるので。当時の惨状がうかがえる。
 さて、農民がおかみに対して何を嘆願したのであろうか、それを見ていこう。
      乍恐奉願口上覚
  一、平紙之儀御趣向を以て、明和五子年池川郡之問屋立ち置かれ、其の節より天明五巳年まで池川問屋ならびに他国商人入合を以て売さばき真すよう、仰付置かれ候所、去々巳年より他国商人御差し留め京屋常助一人に限り買い取り候よう。御差配仰せ付け、売り向き手狭に相成り、値段等も下値に買取り。百姓共迷惑至極に御座候。
    以前の通り池川問屋并に他国商人共入合を以て買取候様仰せ付け下さるべく候。
  一、御国産方御役人所様中御交代の節、送夫五名村々一同同割合仰付られたく候。
  一、他所より入込候ごぜ、坐頭参り申さざるよう仰付らるべく候。勿論地下よりごぜ、座頭他所へ出し申さず候。
  右三条、恐れ多存じ奉り候ども、よろしき様仰せ上げられ候。上げられ候はば御影を以て百姓業相立一統有難存じ奉り候。
   御時節柄恐れ入り奉る次第に存じ奉り候へども、近年一同困窮仕り、止むを得ず願い奉り候。前件申上候通りよろしきよう御詮儀仰せ付けられたく願い上げ候。
                            以 上
      天明七未年正月甘五日
    用居村惣姓姓中
  右の通り願い奉り候間よろしく仰せ上げられ、なし下されたく願い奉候以上。
     同 日
     用居村名本     伴右衛門
     同         儀三郎
     同村船形村名元   直  八
     同 桧谷村     善  蔵
     同 瓜生野     利右衛門
           (惣五人組中)
  右之通願い出申候間宜しく御聞届仰せ付け下され度存じ奉り候以上。
     同 日
         用居村庄屋   井上亀之助
         同村老     辨右衛門
ということである。
 土佐藩からかけつけた郡奉行林数馬、松山藩からも登山して来た郡奉行金子万衛門らが願いの筋は聞き届けると百方説得したが承知しないだけでなく他領へ立ち退こうとするに至った。そこで大宝寺理覚坊、西光寺の雨師は林数馬にこの解決を無条件に委任するよう承諾させ、一二ヵ条からなる嘆願書は、松山藩の手から土佐藩に渡され、ことごとく聞き届けられる事となり、なお帰国後農民を処罰しない赦免の保証を得るため西光寺は高知に至り、常通住職にそのあっせんを求め、常通寺の尊栄師は、藩に交渉して赦免状を得て、国境近くまで迎えに来た。そうして三月二一日用居の番所で一同に赦免状を読み聞かせた。
 逃散以来三〇余日、降りしきる雨の中で一同は相抱いて喜び泣いたという。
 三〇余日大宝寺の各坊で六〇〇余人が過ごしたのであるが、当時としては衣食住が大変なことであっただろうと思われる。だが大宝寺住職、常通寺の尊栄師のあっせんの努力もまた大変なことであったと思われる。
 この時の費用については、久万山庄屋連判をもって「一分通り私どもで見させてもらいたい」という陳情書があって、許可となり、一分庄屋、二分は村々農民が出し、七分通りは御上より下し置かれたということである。