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久万町誌

二 古代の道

 松山から三坂峠を越えて土佐に達する国道三三号線については別に述べる(第四編交通運輸の条参照)が、古く伊予国と土佐国の国府を結ぶ官道がこの地を通っていたのではないか、という説がある。
 官道とは大化の改新による中央集権の確立にともなって、官史の公用旅行に備えて次第に地方にも整備されていった駅、駅馬を備えた幹線道路のことである。「続日本紀」の養老二年(七一八)五月七日の条に、
 養老二年五月庚子土佐国言う、公私の使、土佐を指すにその道伊予国を経る、行程迂遠山谷険難なり、但し阿波国境は相接し往還甚だ易し、請う此の国に就き以て通路と為せと、之を許す
とあり、これは土佐国からの申請に、公私の使が伊予を通過して土佐に入るのは道のり遠く山谷けわしいから、以後阿波より往還したい、と申し出たのでこれを許可したというものである。
 伊予における官道が、古くは讃岐より伊予国府に達し、それから西南に迂回して道後平野に出、三坂をのぼり仁淀川に沿うて土佐に出て国府に連絡した、というのは郷土史家長山源雄の説であるが、はたしてどうであろうか。道遠く山谷険難というのは、いかにも久万山を通り仁淀川沿いに土佐国府に出る道をさすのに、ふさわしい表現ではあるが、余りにも遠まわりにすぎて実情に適しないように思われる。讃岐国から伊予国府に至る官道に大岡・山背・近井・周敷・越智の五駅があったが、恐らく養老二年までは山背駅(宇摩郡新宮村馬立)から土佐国府に通じたものではなかったか、「伊予国を経る」は必ずしも伊予国府を経るの意味ではあるまいと考えられる。改められた阿波からの道は、恐らく南部の海岸沿いであろうと解されている。
 波止浜出身の故原秀四郎博士は、松木という地名は「ウマツギ」で古代の駅を示すものと考証され、今治市冨田の松木を越智駅の所在地にあてられた。上浮穴郡にも柳谷村に松木という地名があるが、松木すなわちウマツギとは決定し難いように思う。また南海道では駅ごとに馬五匹と乗具が備えられる定めで、その駅はだいたい二〇㌔おきにあって、駅戸・駅長がいたはずで、その付近はある程度開発されていたと思われるが、そのような形跡は久万山方面には見あたらないので、太政官道が国道三三号線に先行してあったとは言えないが、伊予と土佐とを結ぶ踏分け道程度のものは古くからあったかと思われ、その道に沿う街村としての久万町村が考えられる。