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久万町誌

一 菅生山大宝寺

 古代の久万地方の開発とか文化とかを考える場合、菅生山人宝寺の創建がそのもとになっていると思われる。
 しかし、その創建の年代がいつであったか、またどのような事情によるか、などについては明らかでない。およそ物事の始まりについてはわからぬことか多いので、それは大宝寺に限ったことではなく、ことに古い時代のこととなれば、なおさらである。
 「古事類苑」という書物がある。大正二年神宮司庁の発行で、伊予国では由緒ある寺として観念寺・善応寺・石手寺・弥勒寺・大宝寺・等妙寺・竜沢寺の七か寺をあげているが、大宝寺のなかに、岩屋寺もその奥の院として含めて記している。次のようである。
 大宝寺ハ伊予国浮穴郡菅生村ニ在リ、文武天皇大宝元年ノ創建ニシテ年号ヲ以テ寺号トスト云フ、モト天台宗二属セシガ後改メテ真言宗トナス、四国八十八ヵ所ノ一タリ
と簡単に記してあって、参考書として、「伊予古蹟志」、「愛媛面影」などを挙げている。また岩屋寺については、
 岩屋寺ハ同郡七鳥村ニアリ、大宝寺ノ奥院ニシテ嵯峨天皇ノ弘仁六年、僧空海ノ開基スル所ナリ、真言宗二属ス、マタ四国八十八ヵ所ノ一タリ
として、参考書として、「予陽俚諺抄」、「予陽旧蹟俗談」、「愛媛面影」などを掲げている。 菅生山大宝寺の縁起を記したものは、元禄二年(一六八九)に高野山の寂本が編集した「四国遍礼霊場記」を始めとして数多くあって、さきにあげた「伊予古蹟志」もほとんど同様の記事である。こうした書物の欠点はいずれも時代が新しく、江戸時代以後のものであるのは残念である。ところが、これらの源流と見られ、現在最も古いものとして、「一遍聖絵」があることは、まことにうれしい限りである。
 「一遍聖絵」は鎌倉時代の正安元年(一二九九)に一遍上人の弟予の聖戒が詞書を記し、円伊という絵師が絵をかいた絵巻物で京都の歓喜光寺に所蔵されているもので、その写真版は一遍の誕生した所といわれている道後の宝厳寺にもある。そのなかに上人が文永一〇年(一二七三)に予州浮穴郡菅生の岩屋という所に参籠したことが絵入りで記され、大宝寺と岩屋寺の縁起が述べられている。やや難解であるが、最も古いものであるから菅生寺に関する部分を記してみよう。
 昔、仏法いまだひろまらざりしころ、安芸国の住人狩猟のためにこの山にきたりて、嶺にのぼりてかせぎをまつに、持たる弓を古木にあててはりてけり。そののち、この木よもすがら光をはなつ。ひるになりてこれを見るに、うへは古木なり、青苔ところどころにむして、そのかたちたしかならず。中に金色なる物あり、すがた人ににたり。この猟師、仏菩薩の名躰いまだしらざりけるが、自然発得して観音なりといふ事をしりぬ。帰依の心たちまちおこりて、もつところの梓弓を棟梁とし、きるところの菅蓑をうはぶきとして草舎をつくりて、安置したてまつりぬ。そののち、両三年をへだてて又この地にかへりきたりて、ありしところをもとむるに、草舎おちやぶれて跡形も見えず。峯にのぼり谷にくだりて、たづねあるきけるに、草ふかくしてあやしき処あり。たちよりてみれば、ありし蓑のすげおひしげりし中に、本尊赫突としておはします。いとうれしくおぼえて、かさねて精舎をかまへ、荘厳をいたして菅生寺と号し、帰依のこころざしをふかくす。われこの処の守護神となるべしとちいかて野々の明神といはれて、いま現在せり。
とある。「四国遍礼霊場記」には、猟師の発見したのは十一面観音であり、その時は文武天皇の大宝元年(七〇一)四月一八日のこととし、猟師は白目に天にのぼったので、これを高殿明神としてまつったとある。更に「伊予古蹟志」では猟師は一人でなく、明神左京と弟の隼人の二人となっており、安芸国でなく豊後国から移ったとし、四月八日のこととしている。また左京は西明神村の神殿明神として祭られ、隼人は露口村の耳戸明神として祭られたと書かれている。
 このように見てくると、「一遍聖絵」に書かれたものが原形であって、時代の下るにしたがって、いろいろとつけ加えられたようにとれるが、そうばかりも言えない。聖戒は「一遍聖絵」の中で、明らかに大宝寺と岩屋寺の縁起を混同しておる所もあるので、そのころの言い伝えを正しく記したとは言い難い。だから、明神左京や隼人の名も古くから伝えられた縁起があったのかもしれないので、聖戒の記さなかった別本によって、「伊予古蹟志」などがくわしく伝えたのかもしれない。何しろ古い時代のことである。私どもは遠い先祖から「こうだ」と信じ伝えられたことを尊重しなくてはならない。
 それはともかく、聖戒が今から六八〇年も前に「一遍聖絵」を書き、そのころ既に古いこととして十分なことがわからなくなっていたのだから、菅生山大宝寺の建立の古さというものは大したものだ、と驚かざるを得ない。
 三坂は古くは御坂であって、菅生山へお詣りする坂道の意味だとも言われる。菅生山大宝寺があるために、お詣りする人々のため門前町ができたのが、久万町の起こりであると考えられる。
 一遍上人が菅生の岩屋に参籠したというのは、今の美川村岩屋寺のことで、そのことは円伊の写実的な絵が証明している。これを菅生の岩屋と呼んだのは、鎌倉時代から既に岩屋寺は大宝寺の奥の院として、両寺は一つの寺と見られていたことによるのであろう。
 古代の大宝寺の事について、また久万町のことについて確実な史料のないのは残念である。ここには「愛媛面影」(慶応二年、半井梧菴著)にあるものを記しておく。
  菅生山は久万町の東に在り名所なり
   明玉集          藤原為頼
   筑紫へまかる頃伊予の海より雲かかる山を見て
   朝なぎにこぎ出で見れば伊予路なる菅生の山に雲のかかれる
   大宝寺は菅生山に在り本尊十一面観世音、立像四尺三寸、百済国より渡り来る所の天竺仏なりと云、文武天皇大宝年中に建立せり、仍て大宝寺と号く、二王門の二金剛は運慶作、菅生山の額は後白河院の宸筆也、仁平二年焼失せしを保元二年再造せり、嵯峨大覚寺の宮住職せさせ給ひし時、勅命に依て大覚院と号すといへり、四国巡拝四拾四番の札所なり、此寺昔は天台宗なりしを、空海奥院を開基有し時、真言宗に改む、旧は四十八坊有しを今は大坊中坊東坊西坊定泉坊十輸坊東角坊新坊西林坊釜田坊理覚坊石垣坊の十二坊残れり、
 この十ニ坊も明治七年の火災で理覚坊のみ残り、本堂も現在のものは大正一一年の改築にかかるものである。
 大宝寺及び住職の久万山文化の上に残した業績などについては、各時代の中で別に述べることにする。