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中山町誌

鷹尾 吉循 (たかお よしゆき)

 吉循は文政九年(一八二六)七月二八日佐礼谷村里正鷹尾寅四郎の長男に生まれ、明治二六年(一八九三)二月一二日六八才で永眠した。
 幼少にして小松藩の儒者近藤篤山について経学を学び、帰村後も和漢の書を渉猟し造詣頗る深かった。後年読書全匱全一〇巻(漢籍中の名句等を抜萃自己の意見を附したもの)や教導雑事全集一冊(近世科学、道教等の抄録)などの著述がある。
 年若くして里正となり、廃藩後は戸長・用係・村長等を歴任、常に村の枢機となり、着々と村治の実を挙げた。
 経学の傍ら近世科学に志し実学を重んじ、村民の福利を増進したいと念じ、慶応年間寺野に銅鉱試掘を請願し官許を得て創業した。後に事情あって鉱山経営を他に譲ったが、明治二〇年頃までは同鉱山によって衣食する者が一、〇〇〇人に及ぶという盛況であった。
 鉱山経営移譲後は専心農事の改善に努め公務の余暇に種子、種苗の移入、近郷への交換分譲、果樹蔬菜の試作等農事の発展に貢献した。
 極めて篤学の人で一生を終えるまで一日も読書をしない日は無く、来客の余談が長くなる時は習字をしながら応待したという。翁は又地区に文盲の多いのを憂慮し付近の子弟を教導、明治四年には私塾至誠舎を起こし、忠信孝悌の道を教え、殖産興業の方法を講じた。
 鷹尾家は旧里正として家産豊かであったが、己れを持する事倹素を旨とした。明治一〇年東京で大日本農談会が開催され、翁は本部勧業委員として伊予絣の洋服を着用して列席、総裁有栖川宮殿下よりその素朴飾り気の無い事を愛され、錦織の衿飾り一掛を下賜された。
 翁は二宮尊徳に私淑し、報徳教信者として常に家人を戒め、「至誠を本とし、勤労を重んじ、分度を立てて家産を守り、余財を蓄積してこれを推譲するのが人間の道である」と教えた。翁の死後、村民が共同で記念碑を建てて其の徳を称えた。