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中山町誌

鷹尾 寅太郎 (たかお とらたろう)

 氏は明治九年(一八七六)八月二二日中山町梅原に生まれ、幼少より聡明機敏、温厚な中に態度明確で、地域内外の人々から将来を強く期待されていた。永木小学校四年を卒業したのみで家業を助け、独学で豊富な知識を得、衆望を担って村会議員、郡会議員等に推され、二〇年間勤めたその手腕偉才がいかに信望が厚く、公に奉ずる熱意が溢れていたかの一端を知ることが出来る。
 その他学務委員、村農会長、三島神社総代、梅原寺総代、債務調停委員、小作調停委員等数々の公職に推され、本町発展のために献身的な努力をした。また氏は中山、出淵村の合併、中山信用組合設立、中山―幟立(登立)間、中山―下灘間、中山―久万間等各線の促進に努め、郷土開発、僻地性の打開に並々ならぬ物心両面の努力を払った。氏の功績をたたえる賞状を、殿下、知事より数多く授かっており、昭和二四年(一九四九)には地域有志が相議し、氏の頌徳の碑を永木小学校の近くに建立した。
 氏は多趣多芸で『家庭婦人は常に暖かく豊かな情操を持つべし』の考えのもと、婦人会や女子青年等を対象に茶道、華道を教えた。
 氏はいたって進歩的で、みかん導入に自ら成功し中山みかんの先駆をなしたり、将来英語は教養人に必要であると信じ、世を去る前まで単語の練習をしたあたり一事が万事研究心旺盛であった。また、生涯日記を書き続け、七四才の生涯を閉じるまで細かに記されているということである。