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中山町誌

四、 婦人会と婦人の各種学級

 昭和二〇年(一九四五)八月一五日の終戦により、これまでの大日本婦人会は解散した。しかし、まもなく同年一〇月に文部省は「婦人教養施設の育成強化に関する件」を地方長官あてに通達し、自主的な婦人組織の結成を要望した。
 本町でも旧中山町において、同年一一月二三日に役員会を開いて協議し、一二月一五日中山全町日本婦人会中山支部総会を開催、多数の出席者があった。会長には当時の町長高橋芳我雄が就任した(「梅花婦人会記録」より)。やがて仙波雅子が会長に就任。当時会費は一〇円で講習会・講演会・夏期講座等を行い、戦後の新しい民主主義の理解に努力した。
 佐礼谷村でも昭和二一年に新しい婦人会が発足し、中岡シズが会長に就任した。当時のことを「婦人会の思い出」の中で次のように語っている。
 「最初に婦人会のお世話を致しましたのが、昭和二一年、終戦直後で、よくアメリカより婦人が来られて、種々教育を得たのでした。現在の伊予市も伊予郡内でしたから会長会はほとんど今の伊予市の方へ行っておりましたが、松山の方へも度々出かけたものです。
 講習会・講演会の内容は、外国帰りの女性による子供の教育や産児制限についての講演や、家族制度が大きく変った新民法の特徴とか、国民と政治についての成人講座などでした。また、リーダー養成を目的とした委員会の作り方や年間計画の立て方の講習そして結婚改善運動や食生活改善の料理講習の学習でした。学習して帰ったことについて事業報告の会を開いたり、役員会を開催しました」
 昭和二三年四月、従来の旧中山全町婦人会を解散し、中山・永木・野中と校区別に独立した婦人会を設立した。
 新しい婦人会の発足時から一三年間も永木の婦人会長を務めた宮岡カネ子は当時のことを次のように述べている。
 「その頃はバスも無く、旅費も全部自己負担でした。月一回の会長会に、冬の日などは夜道を幟立より、誰に甘える術も無く、淋しさに身を引き締めながら歩いて帰ったものでした。後継者のことを思って月一円の会費を集めたり、物品販売や映画を請けたりして、やっと旅費だけが出せるようになったのでした。
 又、町に先んじて敬老会を行ったり、婦人学級では会議の進め方や発言の練習のために模擬町会を開いたりしました。
 その他、季節保育所の開設や、花嫁衣装を買い入れて結婚改善を進めたり、その実績を郡連総会で発表したりしました」
 この頃から、世の中は経済的には恵まれないながらも落ちつきと活気を取り戻し、これまで欠けていた教育文化の必要性が唱えられるようになった。義務教育の他に、幼児には保育園と、義務教育修了者には高等学校の設置をという願いが高まった。中山婦人会では戦前から農繁期の季節託児所を続けていたという経験もあることから、保育園の成立に取り組んだ。
 何度も会合を重ねて意識の統一を図り、実現へ踏み出しながらも、途中で木材が急騰し、挫折するかと思われたが、会員の団結の力と町の援助で乗り越え、昭和二六年婦人会立保育園が誕生した。その一年後、保育園は中山町に譲られたが現在も中山保育園として続いており、大勢の園児を卒業させている。
 戦後民主主義により、選挙制度も画期的な改正が行われた。昭和二一年の地方選挙においても、衆議院議員選挙と同様に婦人参政権の実現、選挙権・被選挙権の拡張が図られた。
 中山婦人会においても、昭和二五年の町会議員補欠選挙に、仙波雅子を推して婦人議員の実現をみることができた。
 昭和三〇年二月中山・佐礼谷両町村の合併により、各校区別に単位婦人会を従来通り置き、それらをまとめて中山町婦人連絡協議会を結成した。
 当時の会員たちは、古くからの女性蔑視や戦争による抑圧から解放されて、希望に満ちて意欲的・自主的に活動を行った。
 中山婦人会の三〇年代の記録によると、婦人学級活動が盛んに行われていたことがうかがえる。農繁期を除いて毎月講師を招いて、法律・児童心理・経済・妊娠調節等の講演や、衣服整理・料理講習の実技指導を受けた。またグループ活動と称して自分たちの中から講師をみつけて、お茶・お花・料理・洋裁を各々月二回ずつ開講した。その他、会に出席しにくい会員にも気楽に婦人会を分かってもらうために、部落出張懇談会を行い、年間一四回に分けて各部落を廻り、啓蒙に努めた。
 昭和三三年度から新生活学校も取り入れ、生活の合理化・民主化・近代化を目的とし、記録の大切さを提唱して広めていった。
 婦人学級の他に、姑学級(昭和三四年開設)、若妻学級(三六年開設)が開かれ、老人クラブ・青年団との交流も熱心に進められた。
 これらの事業を行ったり、寄附金を納めたりするための資金作りには苦労したが、臨時収入が必要なときには映画や劇団を請け負って、前売券を発売して収益を得ることが多かった。
 当時、婦人会長として立派な指導性を発揮したのが古川トキコであった。昭和三一年に中山婦人会長に就任し、三三年の途中から家庭の事情で退いていたが、三九年から再び中山婦人会長となり、四四年まで務めた。その間町内の指導者にとどまらず、昭和四一年には伊予郡連合婦人会長となり、昭和四四年には県連合婦人会理事も務めた。特に実践記録の大切さを提唱し、家庭の長期生活設計並びに家庭教育の大切さ、明るい家庭作りへの精進を呼びかけた。
 三〇年代、各校区婦人会とも活発に活動が行われたが、野中校区の様子を昭和三四・五年に同地区婦人会長であった船田シマヨは次のように話している。
 「振り返ってみると、野中校区下は山間部で大変仕事の多い所です。婦人も男の人と一緒になって働かねばなりませんでした。その上、家事に育児にと多忙な中に、急激な時代の発展で、婦人の地位を高めるため、また社会のために、役員会を通じて色々な仕事を計画しました。
 婦人会の活動としては、研修旅行・戦死者の墓参り・盆踊り参加・敬老会・公民祭や農業祭の展示物やレクレーション参加などです。
 婦人会独自の活動の他に、町からのご援助により新生活学校が開かれ、食生活改善・時事解説・新かなづかい・ローマ字・メートル法・スライトによる避妊法など八回の学級を行いました。
 昭和三四年五月、野中公民館の新築落成には青年団と共に婦人会ではバザーを行い、演劇では部落別に色々な演技が披露されて好評でした」
 昭和四〇年代になると、総会がより重視されるようになり、会則を添えた総会資料が出席者に配られ、事業計画・予算等総会で決議されるようになった。また郡連としてのまとまりも強まった。
 昭和四六年の中山婦人会総会資料によると、事業内容は次のとおりである。
 昭和五〇年代頃より、同和教育、三世代交流会、独居老人愛の一声運動、花いっぱい運動が始まり、生活学校、敬老会、ふるさと祭りへの協力活動等を通し、諸団体と連携し、幅広い活動を続けた。
 しかし、その後社会の進展に伴い、価値観の多様化、婦人の職場進出、テレビ・書籍等の普及による情報、学習の機会の豊富さなどにより、活動に陰りがみられるようになってきた。
 そんな状況の中で、時間にゆとりのない若い人に比べて比較的活動しやすい年齢層を対象に熟年学級(白梅学級)が作られた。しかし、長く続いた姑学級はリーダーの継承者がなく、平成五年末をもって解散した。
 婦人会に対する若い人の期待は薄く、リーダーの選出に苦労しながらも、地域婦人の中心的組織として、婦人の連帯感を培うために必要な団体という意識のもとに、多数の会員を擁して現在も続いている。現在までの単位婦人会長名を次に掲げる。

表3-8 昭和46年度中山婦人会事業内容

表3-8 昭和46年度中山婦人会事業内容


表3-9 単位婦人会会長名①

表3-9 単位婦人会会長名①


表3-9 単位婦人会会長名②

表3-9 単位婦人会会長名②