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中山町誌

三、 青年団と青年学級

 昭和二〇年(一九四五)八月一五日、第二次世界大戦の終結は国民全体に大きな衝撃を与えた。特に若者にとっては強烈であった。太平洋戦争の最前線から復員した青年達は、学ぶ所も失い、職場もなくなり、ただひたすら生きていくために故郷へ帰ってきた。しかしそこもまた、極度の物不足や結核等の病気の流行など、生きることが困難な状況であった。
 青年たちの中には、生きる目標も定まらないまま粗暴な行動に走る者もみられた。
 こうした青年の行動が心配されている時、昭和二〇年九月に文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、郷土を中心とした新しい青年団の設置を提唱した。
 本町ではそれを受けて同年一〇月、自発的な民主青年団の結成が行われた。団長には中山地区は山田行雄、佐礼谷地区は津田鹿市が就任した。当時団員数は復員者を迎えて一、〇〇〇名を超え、民主主義の理解や演劇、弁論会等の行事が盛んに行われた。
 佐礼谷青年団では文芸誌も発行された。昭和二二年三月発行の「階上」三号を見ると、戦前の「自彊」の整然とした姿と対照的に、ほとばしるような勢いで書かれており、内容も恋愛論、社会批評や詩、小説などであり、粗末なガリ版刷りながら意欲的に作られ刊行されている。
 この頃演芸も盛んで、中山青年団では年一回、当時泉町二丁目にあった大正座で発表会がもたれ、部落別に時代劇や翻訳劇、歌や踊りを披露した。当時はテレビもなかったので、発表会には全町民が弁当を持って出かけ、これを見ることを大きな楽しみとしていた。
 昭和二六年には日本青年団連絡協議会ができ、全国的な青年団の組織が確立された。
 当時の青年団は、スポーツ活動・産業活動・生活改善運動を主な目標とし、力強く活動を展開した。
 同時に勤労青年の学習意欲も高まってきた。戦前の青年学校が学校教育の六三制発足(昭和二二年)により廃止された後、本町には定時制高校(初期は夜間)と並行して、青年団を主体とした夜間の各種講座・研究会等が行われていた。それが発展して、昭和二七年より中山町・佐礼谷村においてほぼ同時に、中央・佐礼谷・野中・永木に青年学級が開かれた。中央は高等学校、佐礼谷は中学校、野中・永本は小学校が実施機関となった。やがて昭和二八年八月「青年学級振興法」が公布され、公費をもって青年学級の設置が義務づけられた。
 昭和三〇年に、中山・佐礼谷地区が合併し新しい中山町となると、同年五月五日青年団も合併し、中山町連合青年団を結成した。佐礼谷・中山・出渕・野中・永木の各青年団を単位青年団として独立させ、それぞれに団長を置き、連合青年団長が統括した。
 合併後、青年学級も本格的に開設、運営された。青年自らの盛り上がる熱意により、各種の学習が活発に展開された。内容は一般教養・職業・家事の学習を主とし、年間二五〇時間に及び、町内各学級との交流会、他町村との交歓会も行われた。
 しかし、昭和三〇年代半ばより、高度経済成長による産業構造の変化に伴い、農村青年の都市流出が増加し、次第に青年の数が減少し始めた。それにつれて青年学級の出席も少なくなり、時には運営に支障を来たすようになってきた。それで、一〇年間各小学校区を単位として毎年開設していた青年学級も、昭和三九年から中央一本に統一した。公民館が実施機関となり、新しい中山町青年学級が発足した。
 三〇年代後半から四〇年代にかけては団員数の減少が心配されながらも、かえって団結が高まり熱心に活躍した。スポーツにおいても、女子バレー・男子ソフトボールは伊予郡大会で優勝し、さらに県大会でも好成績が続いている。また郡連の青年団長も中山町から多く出している。
 昭和三七年には、青年団活動と政治活動との強い結びつきの是非について論議され、青年団の仲間が二つの意見に分かれて対立した。本町青年団は伊予郡連合青年団の一員として、政治活動をすべきでないと考えて、愛媛県連合青年団を脱退した。
 昭和三九年九月、新しい愛媛県青年団連合会の結成大会が松山南高等学校体育館で開催され、中山町連合青年団もこれに加盟した。
 昭和四七年から青年の研修として、青年学級の他に中山町青年団国内研修が行われた。
 この研修は、次代を担う青年に対し、見聞を広めて人生に大きくプラスさせ、将来の中山町に成果を生かせる人材を育てることを狙いとして、中山町が県内他町村に先がけて実施したものである。第一回研修は北海道と静岡県御殿場、福島県磐梯の青年の家へ、一四日間の日程で一〇名が参加した。その後も永く続けられた。
 昭和五〇年代以降もますます団員数は減少していき、団長を中心に努力と工夫が重ねられた。
 その頃のことをある団長経験者は次の様に話した。
 「団長を引き継いだ時、先輩から一年三六五日のうち三〇〇日位は青年室に顔を出すようでないと勤まらないと言われた。
 自分が団員としてした事で心によく残っているのは花作りである。町連ではカンナを国道沿いに、またそれより後、町民グラウンドに桜を植えた。自分の野中校区ではつつじを植えた。集会所六つと野中センターの土手に二年位かかって植えた。その後、年に数回の草刈りを続けた。つつじの苗は一株が三〇〇円位で、その資金は、青年団が山の草刈りを請け負うて作った。
 また昭和五一年に野中万才を復活させた。一五・六年位途絶えていたのを青年団が中心になって復活させた。衣裳は地域の人たちが作ってくれた。今も続いているが、一〇年位前から公民館が受け継いでいる。昭和五二・三年頃南海放送の『角を曲って三軒目』という番組に出た時の写真が残っている。」
 その他、町連で会誌「かがりび」を継続して刊行した話など懐しそうに語った。
 昭和五九年には中山町連合青年団結成三〇周年記念大会を盛大に開催して、「篝火」記念特集号を出した。
 「篝火」の記事から歴代の団長名とその年の主な行事の表3-6を転載する。
 その後も青年団の組織の弱体化が進む中で、役場の独身職員が中心となって活動を継続している。六〇年以降の団長名をここに掲げ労苦に報いたい。

表3-6 中山町連合青年団団長名並びに主な行事

表3-6 中山町連合青年団団長名並びに主な行事


表3-7 中山町連合青年団団長名

表3-7 中山町連合青年団団長名