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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

二 河野家臣団の構成

1 奉行人制の成立と展開

河野氏の奉行人

 南北朝期から室町期の各国守護は、将軍のもつ全国支配権を分与され、諸種の公権を背景に分国を統治した。そして、管国内に広汎に蔟生した国人を被官化し、家臣団に編成した。守護の家臣団の中核を形成したのは、血縁的なつながりのある一族や一門、非血縁的ながら古くから臣従した譜代の家臣(根本被官)であるが、そのうちまず守護河野氏の命令を奉じて管国内にその命令を下達した、いわば行政的な役割を果たした奉行人をとりあげてみよう。
 河野氏(家)奉行人の初見は、表3―3に見られるように嘉吉三年(一四四三)一二月二二日付の、久万通昌・垣生通安の連署する河野氏奉行人奉書である(東寺百合文書・一二七五)。室町期を通じて上記の久万・垣生両氏以外に見目田・大西・戒能・重見・正岡・中・栗上の九氏が知られる。河野氏の奉行人奉書は、すべて折紙という書札礼上、略式の形態の文書様式となっている。単独の奉行人が発行したものもあるが、大多数は二名の奉行人が連署する形式をとっている。室町期を通じて奉行人であったものはなく、戦国期の河野氏奉行人奉書をみても、垣生氏をのぞき、室町期以来の奉行人はいない(表3―4)。したがって奉行人になる家柄は固定化しておらず、その時々に譜代の被官層のなかから選出されたものであろう。なお戦国期の奉行人をあげると、南・町田・久枝・大野・枝松・垣生・村上・平岡そのほかである。戦国期には、大野・平岡・村上(来島)などの本来、河野氏ではない外様衆が、新しいメンバーに加えられているのは注目される。河野氏の勢力衰退にともない、強大な勢力を誇る来島村上氏や平岡氏などが重臣(宿老)として、河野一門に准ずる地位をえ、領国の統治にあたった。
 さて、室町期の河野氏奉行人をみると、見目田・大西は不明であるが、ほかはすべて河野氏から派生したといわれる。明らかに河野姓を名乗っているのは、垣生・戒能両氏だけであるが、ほかも諸種の河野氏系図類によると、河野氏と同族となっている。そのなかには、本来は河野氏ではないが、擬制的に河野氏を称するようになったものもあろう。垣生氏や久万氏は、後世の系図ではあるが、『河野諸家系譜』(伊予史談会蔵)によると、鎌倉時代に河野氏から分派したことになっている。鎌倉期にすでに河野氏被官となり、その近臣となったものであろうか。これらの奉行人は、吏僚的な側面もあったろうが、それだけでは片づけられない。奉行人層のうち、強大な勢力をもった戒能・重見・正岡三氏の実態を個別的に検討してみよう。

戒能氏

 戒能氏は、後世の史料であるが、『河野分限録』に浮穴郡大熊・小手滝・屋森三か所の城主とする。苗字の由来は不明である。河野通之が守護であったころの守護代河野伊豆入道は、戒能氏と考えられる(東寺百合文書・一〇九〇、大徳寺文書・一〇九八、なお『築山本』は、「此時戒能豆州独り国権を執る」と記す)。南北朝期に河野氏から分出した庶流であろう。河野支流別府通定流とする説もある。系譜上で不明なところが多い。なお、名越氏は戒能氏の分かれである(築山本)。永享七年(一四三五)、河野通久が大友持直討伐のため豊後出陣中、かの地で討死すると、幼主犬正丸(のちの教通)を補佐して分国支配にあたったのは、ほかならぬ戒能氏であった。おそらく守護代であったろう。永享七年(一四三五)七月一六日、将軍足利義教は、戒能安房入道あてに御内書を発し、軍勢の発向を命じている(明照寺文書・一二四三)。戦国期にも、河野氏の重臣であった。『河野分限録』に「御家老職五人」のうちに「戒野(能)備前守通森」の名が見え、『南行雑録』にも「河野弾正少弼通直御下(=旗本)之衆」一三人のうちに戒能伊賀守の名があらわれる。室町末期と推定される「伊予湯築古城之図」に「戒能筋」なる通りがあり、戒能氏の屋敷が湯築城下にあったらしい。

重見氏

 重見氏は、得能氏(河野通信の子通俊流)の支流、吉岡殿と称する通宗を祖とするといわれる。南北朝末期の観念寺々領証文(観念寺文書・八五三)に「得能越後守」と見えるが、それが年代的に見て、重見氏の祖といわれる通宗であろう。ただし、重見氏を称したのは、通宗の子通勝からという。重見氏の発祥地は、吉岡荘内の高知(現東予市)の八倉山城の地とする説と、浮穴郡の矢取重見明神の鎮座する重見津であるとする説があり、さらに伊予郡神崎荘内の八倉郷(現伊予市)にいて、のち風早郡日高城に移ったとの説もある。重見氏が得能氏から分出したものとすると、桑村郡内の八倉山を本貫とする説が有力となるが、確定できない。八倉の地名にしても、転移したとも考えられる。南北朝~戦国期に重見氏は、桑村・伊予・浮穴・風早の四か郡に分散していたとみられる。発祥地として指摘される前記三地域のほかに浮穴郡久万山東川郷(現上浮穴郡美川村)河崎神社棟札に見える重見氏(愛媛県編年史四)、文明一八年一〇月二七日の宗昌寺々領坪付(同寺文書・一五三三)に見える「重見殿分」(=重見氏の所領)の存在がそれを示している。
 そのうち風早郡の重見氏は、日高山城(現北条市中村)主であった。応仁の乱の直前、河野教通は、同族の通春と抗争していたが(後述)、康正二年(一四五六)、敗れて菊万荘(現越智郡菊間町)に没落した。そのとき、重見通実は、教通に随行している(東寺百合文書・一三四〇)。しかし、この通実はこれよりさき、宝徳三年(一四五一)八月一九日の書状(小早川家証文・一三一四)では、幕府の支援する教通方に加わるのが遅れた理由を述べ、それは通春に従えとの幕命があったからだと述べている。事実、幕府の管領細川勝元が勝手に御教書を発し、通春を支援したことはあった(前述)。ただこれは、国人重見氏の去就が定かでなかったことを物語るものであろう。応仁の乱後の文明年間、重見氏(通昭)は、国人の惣領職安堵・寺領安堵を、河野氏の奉書だけでなく、自らの直状(安堵状)として発給しており(二神文書・一五三〇、能寂寺文書・一五二一)、相当な勢力をもったらしい。石井山城(今治市)にあって越智郡の統治権を河野氏から委任されたとの説もあるが、越智郡だけではなく、風早郡に関する事例もみられる。
 重見氏の一族のなかには、応仁の乱前後における河野氏の内訌にあたって、ある時は教通に従い、ある時には通春に随従するものもいた。河野通直(教通)は、三島大祝にあてて「此方の敵重見近江守、森山、大野、その他数十人打ち取り候」と報告しており(三島家文書・一四七三)、後述する浮穴・伊予郡の山岳地帯に勢力をふるう大野・森山氏とともに、重見氏は勢力強大な国人であり、その向背は河野氏の分国支配を左右するものであった。宝徳三年(一四五一)、河野氏の惣領教通は、同族の通春と戦って勝利をおさめるが(前述)、それは、幕府軍として伊予へ出兵した小早川竹原氏(盛景)の奪闘、宇和・喜多与力衆(西園寺氏と宇都宮氏か)、大野・森山氏という国人、それにこの重見氏の協力があったからである。同年六月と推定される某書状には「重見・森山以下与力の御請を捧げ、国中の城廿余ヶ所退散仕り、無為に属し候」とある(小早川家証文・一三〇七)。戦国期にも重見氏は、河野氏の宿老として重きをなした。天文一〇年(一五四一)のころ、河野弾正少弼通直は、三島大祝氏にたいし、「毎事、重見・来島・平岡に相談候て」と述べており(三島家文書・一七一五)、来島通康・平岡房実とともに重見氏(通親か)が、戦国期における河野氏の領国支配に関与したらしいことがわかる。

正岡氏

 正岡氏は、前掲の『河野諸家系譜』によると、河野氏の遠祖北条親孝の四男康孝の子で、宗昌寺殿信濃守経孝を始祖とするといわれる。ただ経孝を親孝の孫だとすると、平安期にすでに正岡氏が存在したことになる。また宗昌寺を創建して、宗昌寺殿と称されたという正岡経孝を鎌倉末期の人物とし、宗昌寺を元弘元年(一三三一)に草創したとする説がある。しかし、観応元年八月四日(一三五〇)の大通寺幷宗昌寺規式写(宗昌寺文書・七六一)をみると、正岡経孝と思われる「越智経孝」、その母(夫人とする説もある)という「比丘尼宗昌」が宗昌寺旦那衆のなかに見える。したがって、正岡氏の祖といわれる経孝は、鎌倉時代末の人物ではなく、南北朝後期の人物である。また正岡氏の氏寺宗昌寺も、この規式が出された時から遠くないころに建立されたとみなければならない。現に経孝に招かれて宗昌寺の開山となった大虫宗岑は、同じく『宗昌寺文書』中の文和二年(一三五三)六月の宗昌寺家訓写を書いた人物として登場する。以上の史実からみて、正岡氏の祖を経孝とすると、正岡氏は南北朝期に派生したことになる。
 しかし、正岡氏の始祖自体はもう少し時代的に遡ることができる。建武三年(一三三六)六月五日の河野通盛の注進した比叡山大嶽南尾合戦における手負注文(萩藩譜録・五九四)に負傷した「正岡三郎盛経」がすでに見えるからである。これによると、正岡氏の登場はやはり鎌倉時代にさかのぼるであろう。なお同氏を河野氏と同族とする説もある。さきに掲げた観応元年八月四日の大通寺幷宗昌寺規式写に署判を加えている多くの人物が、「越智」を姓とし、河野氏の通字である「通」を名乗っていることからすれば、正岡氏が河野氏から派生した可能性もある。また、石崎・久万氏は正岡氏と同族であり、垣生・浅海(浅見通直の名が鎌倉末期の『東寺百合文書』に見える)、難波(『見聞諸家紋』に越智氏とある)等も系図上では、一門となっている。なお『宗昌寺文書』に見える得重氏も正岡氏の一族であろう。
 いずれにせよ、風早郡には大通寺・宗昌寺を氏寺とする越智氏が広汎に存在していた。さきの両寺の規式に旦那として登場する越智一族は、正岡氏を含めて三五名にのぼる。このうち宗昌寺の旦那として二一名、大通寺の旦那と思われるもの一四名である。規式のなかに「開山塔頭(大虫宗岑)宗昌寺と本寺(大通寺)との旦那、若ハ一族あるいは兄弟、あるいは父子の間にもいかなる子細候とも、両寺の寺領またハ僧衆の御事にわつらひ申へからす」とあり、規式に連署した越智一族が、正岡氏を中心とした族的結合を示していることは明らかである。室町期に入ると、正岡氏は河野家の実務を執る奉行人として登場する(前述)。戦国期には、正岡氏の惣領は、越智郡の幸門城主(『河野分限録』に左近大夫経政と見える)、同郡鷹取城主(『予陽本』に正岡経貞が見える)となっており、府中周辺の河野氏の重要拠点を防衛する城将として起用されたのであろう。

2 国人の被官化

国人

 南北朝期以来河野氏は室町幕府から当国の守護に任じられ、さらに守護職を相伝して、伊予国を世襲分国化した(前述)。そして管国内の国人層を被官(家臣)に組み入れ、守護大名化した。そこで、国人の被官化について述べ、河野氏の分国支配の実態に迫ってみよう。
 さて、国人とは、「某国住人」とも記されているように、その国生え抜きの在地領主の呼称である。その用字そのものは、平安期に遡るが、「国人領主制」というような学術用語としては主として、南北朝期から室町期の在地領主をさす。この時期には、国人は、しだいに守護大名によって被官化され、家臣となっていった。しかし、土着の豪族として勢力強大であり、守護大名もかれらの力を無視しては、分国支配はできなかった。そして、これらの国人のなかから戦国大名へと大きく成長したものも少なくない。むしろ国人から戦国大名に発展していったのが、戦国大名の典型とされている。ただ国人という語の範疇は広く、土豪などと厳密に区別するのはむずかしい。鎌倉期の地頭に系譜をひくものが主流をしめたというが、荘園の荘官層が勢力強大化してなったものもあり、一概にいえない。
 伊予においても、国人の出身は多様で、また系譜の明らかでないものも多い。地域的に相当性格に違いがあると思われるので、まず第一に伊予の中央部を支配領域とする河野氏によって被官化され、いわば河野氏の譜代の家臣団を形成するにいたった国人層について検討してみよう。河野氏が守護であったときの、同氏の被官団の実態を示す史料はほとんどない。ただ文明一二年(一四八〇)~翌年(一四八一)の石手寺(現松山市)造営の際の棟札(石手寺文書・一四九六)は、当時の河野通直の家臣団の実態を示す格好な史料である。したがって、これを根幹にし、ほかの史料を参考にしながら室町期の河野家臣団を明らかにしてみよう。

石手寺棟札

 河野通直(当初教通と称す)は、文明一二年(一四八〇)一〇月二八日、石手寺再興の業を興し、翌年五月三日、造営の業を終えている。通直は、永享七年以降守護の地位にあり、応仁の乱前後にはその地位を同族の通春や細川氏にあけ渡さざるを得なかった。しかし、伊予の実質上の支配権は、同族通春と泥沼のような闘争を続けながらも、ほぼ手中に収めていたものと思われる。右の棟札に通直のことを「伊予屋形」と記しているのは、彼が伊予の覇権をほぼ掌握していたことを物語っている。通直に対抗していた通春が、和気郡湊山城で生涯を閉じたのは、翌文明一四年(一四八二)であるという(築山本・河野系図)。通直の伊予における覇権確立を飾ったのは、石手寺の再興であった。
 さて、この棟札の表には、表3―5のように、作事惣成敗をはじめ杣山奉行・惣人夫奉行・作事屋奉行・御調之奉行等の諸奉行が見える。これらの諸奉行は、石手寺造営にあたって臨時に任命されたものと思われ、両名ずつ配されている。これらの一〇氏は、河野氏譜代の直臣団を示すもので、このうち得能・今岡・南・福角・戒能・桑原等の諸氏は、いずれも河野氏から分出したといわれる河野一門である。戒能氏を除き、室町期の河野家奉行人奉書の署名者としては登場しない。河野家の家務を執る執事(奉行人)にはならない家柄であったのだろうか。河野氏関係の系図類、家譜類によると、得能氏(通俊流)、桑原氏(通興流、別に壬生川氏と同祖とする説がある)、福角氏(河野通清の弟盛家流、寺町氏流とする説がある)、今岡氏(通任流)、戒能氏(不詳)、南氏(通泰流)らは、鎌倉期から南北朝初頭にかけて、河野氏から分派したとされている(図3―3参照)。このことからみてこれらの諸氏がいちはやく河野氏被官となって直臣団を形成し、戦国期に入る前に、河野氏の行政的な面を担当する諸奉行に起用されたことは、まちがいない。
 なお右の石手寺棟札の裏に記された「越智山奥之大材木請取引衆」のうち高山氏は、石手寺造営の竣功した五か月後、つまり文明一三年(一四八一)八月三日、段銭奉行として見える高山右近大夫通貞と同一人物であろう。この日、高山通貞は、二神氏の納入した風早郡内御手作分(河野氏直轄領)の段銭七百文を受納し、請取状を発している(二神文書・一四九九)。ちなみに高山氏は、得能氏から分出した河野氏族といわれるが(河野諸家系譜)、河野氏の発祥地河野郷内の善応寺にほど近い高山(現北条市)が本貫であろうか。なお惣段銭奉行の名は、応永二〇年(一四一三)にすでに見え(善応寺文書・一一八六)、戦国期には、垣生氏が伊予郡代職と段銭奉行に任じられている(徳本文書・一六八八)。

譜代の被官

 つぎに棟札の裏に記された「越智山奥之大材木請取引衆」(以下請取引衆と略記する)の検討にうつろう。ここには「越智山」(風早郡の高縄山地から越智郡玉川町域にかけての山地か)から伐り出された石手寺造営用の材木を分担した通直被官の国人衆が、数多く名を連ねている。これらの数多くの国衆を分類すると表3―5のように、二つのグループに大別される。そのうち[Ⅰ]グループは、国人各々が単独で並記されており、[Ⅱ]グループは、集団の形態をとるものである。[Ⅰ]のうちの(a)グループは河野一門で、河野氏の譜代家臣と考えられる。得能・桑原・高山・垣生の各氏については、諸奉行のところで述べたので省略する。また八蔵(八倉)殿と称された重見氏についても、奉行人制のところで前述したので省く。そのほかの国人についてみると、土居氏は河野通有の子通茂流である。南北朝初頭、南朝方として得能氏とともに活躍した(第二章第一節参照)。由並氏は、伊予郡由並(浮穴郡とする史料もある)本尊城に拠った河野通遠の子通行流であろう。つぎに大内氏は、和気郡大内郷(平安時代の『和名抄』に見える)を本貫とする一族で、盛家流(河野通清の弟とする河野氏関係の系図が多い)である。和気郡出身の福角(福角名を本拠とする)・久枝(盛家の子盛資流)の両氏は同族という。志津川氏は、久米郡志津川(現重信町)を本貫とする和田氏であろう。戦国期岩伽羅(良)山城に拠ったという(河野分限録)。志津川木原氏とは、志津川氏の分流か。以上検討した(a)グループは、河野一門とみられる譜代(根本)被官団であるが、桑原氏(温泉郡桑原郷を本貫とし、桑原城に拠る)はどうであろうか。『予章記』によると、河野通清が江州西坂本で捨子を拾ったが、それが成長して出雲坊宗賢となり、桑原氏の祖となったという。しかし、その系譜は紛乱している。桑原氏の始祖を出雲坊宗賢とせず、通清の孫通興流の壬生川氏の分流とする説、平弘兼(法名堯蓮)とする説(予陽郡郷俚諺集)があり、いろいろである。桑原氏は、本来は河野氏ではなく、のちに擬制的に河野一門となったものかもしれない。

外様衆   

 つぎに[Ⅰ]の(b)グループの外様衆について触れてみよう。まず村上氏をとりあげてみることにする。村上氏は、源氏姓北畠氏流あるいは信濃村上氏流といわれているが、確たる証拠はない。室町期に能島(野島)・来島・因島の三島に分かれたというが、その系譜上の位置づけは明確でなく、室町期以前には確実な史料に見えない。したがって、村上氏が平安期の藤原純友の乱のころ登場したり、源平合戦や元寇のとき活躍したりする記事は、疑ってかかる必要があろう。また村上氏が河野氏から養子を納れ(河野通助の子頼久)、両者の関係が鎌倉期よりあったという説も、村上氏関係の系図、河野氏関係の系図に見えるが、これまた信用できない。「河野十八家」という、後世つくられた河野氏族のなかにも村上氏は入っているけれども、これは戦国末期に来島村上氏の通康が、河野氏の女婿となって河野一門と同一視されたことを反映しているにすぎない。村上氏については、次章第三節「瀬戸内海と水軍」のところで詳述されるので、ここでは、本来河野氏とは関係がなく、戦国期になって勢力強大となり、河野氏と姻戚関係を生じたことのみを指摘しておこう。なお、石手寺棟札に見える「村上殿」は、村上氏のうち、いずれの系統であるか明らかでない。
 つぎに平岡氏は、出自不詳であり、「房」を通字とした。応仁の乱前後より、確実な文書に姿を見せるが、実態は明らかでない。あるいは土着の武士ではなく、他国から移住してきた氏族であったかもしれない。後世、山口県大島郡に住み、平岡氏系図を伝えるが、戦国期の永禄年間、河野氏奉行人(前掲表3―4)として見える房実以前の系譜は全くわからない。そのころ、来島通康とともに河野氏の重臣(宿老・加判衆)となり、河野氏の政務を担当したと思われる。『河野分限録』によると、平岡遠江守通倚は、「浮穴郡棚居・新作二城主」とする。浮穴郡荏原郷(『和名抄』に見える。現松山市)、伊予郡砥部(現砥部町)に勢力を伸ばした。浮穴郡荏原郷は、美濃土岐氏の所領であり、伊予郡砥部は、大森氏の所領であったが、それを押領したという。荏原郷とともに土岐氏の所領であった浮穴郡久万山をめぐる土岐氏と平岡氏との抗争については、『大野文書』に散見する(後述)。ともかく、平岡氏は、河野氏の奉行人になる以前においては、本拠地の近隣に勢力を及ぼし、他勢力との摩擦を生ずるにいたった様相をうかがうことができる。
 つぎに見える「砥部殿」というのは、大森氏と推定される。大森氏は、清和源氏宇野氏の分れといわれ、伊豆国の大森氏と同族という(尊卑分脈・見聞諸家紋)。『太平記』(巻二三)に湊川合戦で楠木正成を切腹させた大森彦七(盛長)の名が見えるが、伊予の大森氏はその子孫と伝えられる。文明二年(一四七〇)、大森源左衛門尉源朝臣直治が、砥部のうちの田地を御供田として越智郡大三島の大山積神社へ寄進している(大山積神社文書・一四五二)。そのなかに寄進した地は「承久勲公(功)地」として代々相伝したと述べているのは注目される。大森氏が承久合戦後、新補地頭として入部したとも解される。建武三年(一三三六)、大森盛長は足利尊氏の軍勢催促状をうけて上洛し(大森巌氏所蔵文書)、同年八月、仁木頼勝に従って京都の峰堂を警備している(徴古雑抄・六〇六)。このように大森氏は河野氏の軍事指揮下にはなく、独自の動きを示している。伊予を代表する国人といってもよい。室町期には、上記のように河野氏に被官化されたものと考えられる。
 最後に(C)グループをみると、これらは、いずれも出自未詳である。貞光氏は和気本郡や温泉郡垣生郷に散在分布していた三島大祝氏の所領貞光名(三島家文書)によるものとすると、その一族であったのかもしれない。垂水氏の本貫は、現松山市樽味町に比定される。『予陽郡郷俚諺集』は、何に拠ったものかわからないが、同地を「得能孫四郎領」とする。あるいは垂水氏は、得能氏であったのかもしれない。松末氏も、現松山市松末町域に居た国人であろう。『高野山上蔵院文書』に松末備後守通康、『河野分限録』には、御一門三二将中に松末美濃守通昌の名を見い出す。小山・中川の両氏は、風早郡出身と思われる。小山氏は鎌倉末期弓削島荘の雑掌として登場し、暴力的な収奪をくり返した海賊的領主小山弁房承誉の子孫であろう(弁房承誉については第一章第五節参照)。『東寺百合文書』によると、弁房の本住所は、小山とか大山といわれている。現在、北条市八反地内に、小山(おやま)、大山という小字が残り、互いに隣接する地である。本拠地からみて、正岡あるいは難波・浅海等の越智一族である可能性がある。中川氏は、宗昌寺寺領坪付(宗昌寺文書・一五三三)によると風早郡那賀郷に中河の地名が見えるから、あるいはその地と関係があったかもしれない。綿織氏は、のち浮穴郡荏原郷の平岡氏の被官としてみえる(予陽本)。そのほか、栗田氏は、現伊予郡中山町の栗田に本拠があったものか。また中子氏は、『予章記』によると南北朝末期に河野通堯が九州に渡海する途中、それを迎えた人物として屋代島(現山口県大島郡)に居住する中子左衛門大夫藤重の名が見えるのを信ずれば、周防屋代島出身の海賊衆ということになる。

国人一揆       

さて、つぎに[Ⅱ]のグループについて検討してみよう。これについては、       
 (d)成敗中……桑原殿成敗中・高山殿成敗中
 (e)一家中……志津川一家中
 (f)衆中……松崎浦衆中・両村衆中・御中間衆中
というように三つに分類される。(d)は河野一門桑原氏や高山氏のように、譜代被官層を中核とした武士集団で、寄親―寄子(同心)的な結びつきをあらわすものであろう。(e)は、(f)と同様、国人・地侍の集合形態(一揆)であろうが、「一家中」の場合は、惣領を中心に一族が盟約(一味同心)して、結成された血縁的な組織とみられる。安芸国の毛利氏や小早川氏の例は有名である。小早川氏の場合、宝徳三年(一四五一)、一族一三家の者が契状に署名していて、それは傘連判と呼ばれるように円を描き、それに沿って放射状に記されている(小早川家文書)。
 志津川一家中とは、志津川一族和田(前述のように戦国期岩伽羅山城主)、木原等を中心とした血縁的な一揆形態の結成を示すものであろう。ところが、(f)のうち「松崎浦衆中」は、現在の伊予郡松前町域(室町期には、伊予安国寺領であり、「松崎浜」と見える。安国寺文書・一〇六五)に結成された国人・地侍らの集団であろう。この地には、国人松前氏がいた。永享一二年(一四四〇)、松前氏は石清水八幡宮領玉生荘(現在の松前町)の請所代官(年貢を請負う所務代官)となっている(石清水八幡宮記録・一二六六、本章第三節参照)。ここで注目されるのは、衆中に地名を冠する点である。これは地縁的な在地領主層の結びつきを示すものといえる。このころ国人一揆の新しい形態が成立していたのであろう。なお松前(松崎)には、室町期に港があり(小湊、現在の伊予市米湊か)、南北朝期のはじめには、足利尊氏方の三島祝安親が、合田弥四郎貞遠(室町期には現中山町に拠る)のたてこもった松崎城を攻め落としている(三島家文書・五八九)。この地は、室町期河野氏の本拠道後湯築城(松山市)の前面を防衛する海上の要衝であった。したがって「松崎浦衆中」というのは、海賊衆的な性格を帯びていたのであろう。
 つぎに「御中間衆」というのは、河野氏直属で、身分の低い下級武士層であろう。『河野分限録』の「湯月(築)御台所定口之衆」中に見えるように、名字のない、つまり侍身分でない農民層であった可能性もある。「両村衆」については、つぎに述べるので省く。なお石手寺棟札には、大野・森山等の外様の国人をはじめ三島大祝・別府・得居・鳥生・久枝・浅海・正岡らの越智あるいは河野姓の河野一門の名が書かれていない。文明一二~一三年ごろは、河野通春の勢力も悔りがたいものがあったと考えられるので、ここに見えない国人らの大部分が、河野通直に敵対する通春方に属していた可能性がある。

『南行雑録』に見る河野家臣団

 つぎには戦国期の家臣団の構成をみることにする。そのような点で重要な役割を果たすのは『南行雑録』に収められている「河野弾正少弼通直御下之衆少々記」という史料である。この史料については、作者・成立年代とも明らかではなく(作者については、有間今城肥前守平能親とする見解があるが、これは末尾の記事を奥書と誤認したためにおこった誤りである)、史料の性格も必ずしも明確ではないが、天文年間の河野家臣団の実態をある程度反映しているとみてさしつかえないであろう。それはこの史料に記載されている人名を、ほかの史料と照合してみた結果から判定できる。たとえば、「難波衆」中にある二神孫右衛門は、天文一四年六月一六日河野通直弾正少弼宛行状(片山二神文書・一七五一)に見え、「志津川衆」中の平岡尾張守は、天文一五年七月廿七日の大徳寺如意庵納所宗順書状(大徳寺文書・一七五四)に見えるからである。
 この史料は、表3―6に示したようにまず河野通直弾正少弼の旗本衆と思われる一四人、それに続けて正岡衆(二五人)、難波衆(二七人)、島衆(一三人)、下島衆(七人)、志津川衆(一六人)、両村衆(一八人)編成となっている。ただほかの史料からすると、これが河野氏家臣団の全体を示すものとは考えられない。風早郡の陸上・島嶼部・越智郡の島嶼部・和気郡・久米郡内の武士層しか見えていない。これを、どのように解すか問題である。これは、あくまで河野通直の掌握下にあった家臣団を示すものではなかろうか。天文一一年(一五四二)のころ、河野通直と養子の晴通とは不和であり、幕府は大友義鑑を通じて河野通直父子を和睦させているほどである(大友家文書録・一七二五)。そのころ、通直・晴通は、別々に文書を発給しており、どちらが河野氏の当主であるか明らかでないような状況がうかがえる。したがって晴通に属する家臣団は、この記録には、あらわれていなかったとも考えられる。
 さて、右の史料にみえる河野弾正少弼通直の家臣団編成の内容について簡単にふれてみよう。旗本衆(一四人)をみると、河野姓一人、栗上姓四人、土居姓三人、戒能・別府・南・松末・枝松・由並おのおの一人であり、いずれも河野一族か河野一門の譜代被官層である。さきに検討した奉行人を出した家柄も多い。ただし、つぎにあげる正岡衆・難波衆・島衆・両村衆のなかにも、奉行人や譜代被官層もあり、衆を形成するものをすべて外様衆的なものと単純に解釈することはできない。この史料に見る武士層の大部分は、譜代的なものとみてよかろう。ただ、冒頭に書かれた一四人は、通直の旗本を形成するグループであり、衆を形成するのは国人の集団(=一揆)とみられ、いずれも地域的な結合を示している。正岡・難波衆は風早郡(現北条市)、島衆は、つぎに見える下島衆に対して上島衆の意味であろう。島衆の一人今岡民部大輔は、『河野分限録』によると、「上島甘崎城主」とある。越智郡の島嶼部(芸予諸島)の海賊衆をさす。下島衆は、忽那諸島の海賊衆(ただし二神氏は正岡衆に入っている)であり、志津川衆は和田氏をはじめとする久米郡の国人衆である。ただし、ここで問題となるのは、このなかに浮穴郡の平岡氏、桑村郡の壬生川氏、周敷郡の黒川氏らが志津川衆に含まれていることである。つぎに両村衆は、大内・久枝・福角氏らをみると、和気郡の国人であることは明らかである。しかし、両村衆と名づけた理由がはっきりしない・両村とは、両村上氏に由来するようにも思われる。両村衆中に村上彦右衛門尉安(『高野山上蔵院文書』に同一人物が見える)がいるのは、その名残りであろうか。
 ともかく、石手寺棟札にも見えていた衆組織が、戦国期になると河野氏の軍事力の中核となったことが知られる。つまり個別的な国人把握、惣領制的な血縁集団掌握の形式から、地縁的な国人の集団の把握方式に転換したわけである。なお『南行雑録』にみられるような河野氏家臣団構成は、いつごろ成立したのであろうか。すでに石手寺棟札作成のころにその萌芽的な形態はあらわれていて、文明~天文年間にかけて編成されていったのであろう。
 以上、石手寺棟札や『南行雑録』所収史料などを手がかりにして、室町時代以降の河野家臣団の姿を見てきたが、このほかにも家臣団の様子を伝える史料はいくつかある。たとえば、建武三年(一三三六)足利尊氏の命によって善恵(河野通盛)が比叡山に後醍醐天皇を攻めた際の手負注文(萩藩譜録・五九四)は、善恵に従った人物として三〇余名を伝えているし、『予章記』は、正平二〇年(一三六五)河野通堯が細川氏に追われて九州へ逃れる際、つき従った人物として同じく三〇余名を記している。後者については、史料の信憑性に若干の問題はあるものの、室町期に守護大名化する以前の河野家被官層の姿を伝えるものとして、参考になる。また逆に戦国最末期の河野家臣団の姿を詳細に伝えるものとして『河野分限録』があるが、この史料は、宇和の西園寺氏を外様衆として河野氏の傘下にあったかのように記すなど、内容的にも多くの問題点を有しており、活用するについては注意が必要である。

図3-3 河野一族の略系図

図3-3 河野一族の略系図


表3-3 室町期河野氏奉行人奉書一覧

表3-3 室町期河野氏奉行人奉書一覧


図3-4 室町期伊予国人の分布

図3-4 室町期伊予国人の分布


表3-4 戦国期河野氏奉行人奉書一覧

表3-4 戦国期河野氏奉行人奉書一覧


表3-5 石手寺棟札に見える河野家臣団

表3-5 石手寺棟札に見える河野家臣団


表3-6 『南行雑録』(東大史料編纂所謄写本による)に見える河野家臣団

表3-6 『南行雑録』(東大史料編纂所謄写本による)に見える河野家臣団