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愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

一 分国支配の性格

河野氏世襲分国の成立

 第二章で記述したように南北朝の動乱期に伊予の伝統的豪族の河野氏は、足利将軍家から伊予国守護に補任されたが、南北朝の全期間にわたって守護であったわけではなかった。ほぼ足利将軍家の一門細川氏(三河国細川郷出身、平安末期足利氏から分出)と交互に守護職に補任されている。幕府が各地の南軍勢力を掃討し、全国支配をいち早くなしとげるためには、足利一門を守護あるいは軍勢大将(国大将)として派遣するのみならず、国々に古くから根を張り、牢固な勢力をもつ伝統的豪族層の支援が、ぜひとも必要であった。とくに西国には、大内・少弐・大友・島津・武田・河野等前代以来、勢威を誇る諸豪族が守護に起用された例が少なくない。ただし、幕府の全国支配権を揺がぬものにするためには、このような豪族級の武士層を抑圧したり、牽制したりする方策がとられた。
 足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
 南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた(第二章第三節参照)。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか。河野通堯の死後、康暦二年(一三八〇)幕府は通堯の遺子亀王丸(後の通義)に伊予国守護職とその所領を安堵し(予章記・一〇二二)、ついで細川氏の干渉を断った(河野文書臼杵稲葉・一○二九)。つまり幕府は、四国の守護職を分割し、讃岐・阿波・土佐三国を細川氏に、伊予を河野氏に与えて勢力均衡策をとったのである。こうして、以後七五年間にわたって河野氏が伊予国守護職を相伝する体制ができあがった。これをここでは、河野氏世襲分国体制と呼んでおこう。
 康応元年(一三八九)三月、将軍足利義満は、斯波義種・細川頼元・同満春・山名満幸・土岐満貞らの鈴々たる幕府の宿将たちを従え、威風堂々、厳島参詣を果たした。この義満に随行した人々のなかに、九州探題今川伊予入道了俊もいた。彼はいうまでもなくこの時代を代表する著名な文学者であり、このときのさまを『鹿苑院殿厳島詣記』という紀行文に書き残している。それによると、義満の一行は兵庫の津を出航、途中細川頼之(法名常久)を讃岐国宇多津(歌津)(現香川県宇多津町)に訪ね、旧交を温めた。頼之は百余艘の船、一切の費用を準備するなど歓待につとめた。義満一行は備後国尾道・安芸国高崎と瀬戸内海を西航し、三月一〇日厳島に着いた。それから足をのばして周防国に至り、大内義弘に会い、さらに竈戸関(現山口県上関町)で河野氏(築山本河野家譜は通能・通之兄弟とする)を引見した。ここで河野氏はあらためて義満への臣従を誓ったのだろう。往路では尾道から伊予の三嶋・道別(道前カ)の山々、帰路では二神・怒和・忽那等の島々を遠望するなど、なじみ深い伊予の地名が見える。ところで義満の厳島参詣は、前年の富士遊覧のための駿河行きと同様、遊覧に名をかりた反幕勢力・諸大名への示威運動という政治的性格を帯びていた。義満が九州探題を従え、九州まで赴こうとしたことは、何よりもそれを物語っている。義満の西国巡遊は、引退していた細川頼之を政界へ復帰させるという収穫があったが、それ以上に西国諸大名を圧伏し、その後の西国支配の構図を設定する役割を果たした意義はまことに大きかった。

守護職の相伝

 南北朝合一以後の政局の安定化にともない、守護職は特定の守護大名家に代々伝えられ、固定化する傾向があった。足利将軍は諸国の守護職の任免権をもち、守護職の補任・改替を自由に行いえた。とくに義満以後義政に至る歴代の将軍は、諸大名を牽制するため、しばしば諸大名から守護職をとりあげた。それが諸大名家の内紛や内乱をひき起こす要因となった。
 さて、応永元年(一三九四)一一月一〇日、河野通能は弟通之に家督を譲ったが、そのときの通能の譲状(長州河野文書・一○八四)に「通能はいりやう(拝領)伊与國守護職ならひに本領当知行地事しやてい(舎弟)六郎通之にゆつり申」とあるように守護職は、家督に付随する所領と同一視され、世襲化されることになった。河野氏の家督継承の順序を推測すると①通能(義)・②通之・③通久(はじめ持通)・④教通・⑤通春・⑥通直(教通と同一人物)のようになる(系譜関係については五〇五頁図3―1参照)。これから通能(通義)流の河野本宗と通之流(予州家)とが家督を継承したことが読み取れる。したがって守護職もそれと同時に移動したと考えられる。室町期河野氏の守護在職の徴証については、表3―2に一括して掲げておいたので参照されたい。通久(初名持通)の守護在職の確証は、前節で述べたように現在検出されないが、河野氏家督としての活動は、認められるので、守護職も当然、通久にわたったことは間違いない。ついで、通之が一代限りとはいえ、相当長期間にわたって分国支配を行ったことは、通之流河野氏の勢力を増大させ、通之死後、本宗家との熾烈な対立・抗争を招く結果となった。
 応永二〇年代以降の通久(当初は持通といい、予陽河野家譜に、元服してすぐ通久と称したとするのは誤り)と通元(通之の子)との対立・抗争については、第四章第一節で触れるので、ここでは詳細は省略する。ともかく河野氏の分国支配が安定していたのは、通能(通義)・通之兄弟二代の時代にすぎず、通久の家督継承後は河野本宗家の分国支配は動揺した。にもかかわらず、河野氏が分国を保ちえたのは、幕府が河野氏のもつ守護職をとりあげることなく、家督に対して不干渉の態度をとったことにあろう。とくに永享七年(一四三五)六月、大友持直討伐の幕命をうけて九州に出陣していた通久が豊後国姫嶽で討死をとげると、幕府はその遺子犬正丸(教通)に大友持直の闕所地豊後国臼杵荘を亡父通久の討死の賞として与えるなど庇護を加えている(河野文書臼杵稲葉・一二四四、詳しくは前節参照)。義教政権が、義満政権のときに確定した四国支配の政策(細川・河野両氏を並立させ、勢力均衡を図る政策)を踏襲し、維持しようとした態度をくみとることができよう。しかし、義教死後の足利将軍家の凋落、管領細川氏の独走という趨勢のなかで、細川氏(勝元)の介入によって河野氏の世襲分国体制は崩壊した(前節)。長禄年間に細川勝元と結んだ河野予州家の通春が守護に補任されたと推測されるが、勝元と通春が不和になると、守護職は河野氏の手を離れ、寛正年間に再び細川氏にわたった。ついで応仁の乱中、河野通直(教通)が東軍幕府から(明照寺文書・一四七〇)、同通春が西軍幕府からそれぞれ守護に任じられたが(築山文書・一四四二)、幕府の分裂期であるから、河野氏世襲分国制の復活とはみられない。応仁の乱が終結したとき、また細川氏(政元)が当国守護職を獲得し、河野氏の守護への道はとざされた。細川政元の横死と、それにつづく細川氏の分裂(二川分流)にともない、幕府の拘束力は完全に消滅し、伊予は戦国期に突入したとみられる。

分国支配の展開

 室町期、足利将軍は、鎌倉公方の管轄する関東一〇か国、九州探題管下の一一か国、奥州二か国を除く四五か国を「室町殿分国」とか「公方分国」とか称して支配した。幕府全盛期の守護大名の数はふつう「二十一屋形」といわれる(京極家譜)。ほぼ二〇前後であったろう。永享三年(一四三一)八月三日、将軍足利義教は、室町殿御所の移転を行ったが、その総費用一万貫文が、三か国・四か国守護七人に千貫文、一か国守護一五人に二百貫文ずつ割りあてられている(満済准后日記)。このうちに一か国守護として河野通久がいたと考えられる。河野氏は、外様の国持大名のうちの一国衆であったが、土岐・赤松・佐々木(六角・京極)等の有力な外様大名のように宿老として幕政に参与することもなく、その地位は相対的に低かったようである。そのためか幕府の公式行事などに姿を見せず、在洛中の活動はほとんど知られていない。ただ応永の乱・永享の乱・嘉吉の乱等の諸内乱に幕軍として参陣しているにすぎない(前節参照)。
 河野氏は、他の守護大名と同じく、京都に屋形(邸宅)を構え、将軍家に奉仕したと思われる。屋形は室町御所の近辺にあったと推測されるものの、確定できない。河野通義は在洛二〇余年に及んだといい(予陽河野家譜)、応永元年(一三九四)、京都で死去したともいわれる(死去の年次については八月説・一一月一六日説があり、死因として病死説・討死説等がある)。また長禄四年(一四六〇)一二月、河野教通は、幕府に提出した申状の中で「在京致し、弥々奉公・忠勤を抽んずべし」と述べている(大友家文書録・一三六九)。このように河野氏の当主が、将軍の膝元京都にあったとすれば、当然、分国の支配は、在国の守護代に委任されたであろう。南北朝末期、通盛が守護正員であったときの守護代として、河野壱岐守通遠(由並本尊城主、砥部に住す)、通義が守護のときの「河野伊豆前司」(応永三年五月一六日、大徳寺末寺浄瑠璃寺領安堵の幕命の遵行を命じられた河野伊豆入道と同一人物か。戒能氏と推定)らがしられる。いずれにせよ、河野一族が守護代として分国支配にあたったとみられる。
 さて、南北朝~室町期における守護の権限は、鎌倉時代のそれに比べて著しく強化された。すなわち鎌倉期の守護が、いわゆる大犯三か条に基づく検断権を主体とするものであったのに対し、この時期の守護は、それ以外に①使節遵行権②苅田狼籍の禁止を行う権限③段銭等諸役(役夫工米、大嘗会段銭等)徴収権④半済給与権⑤闕所地預置権等諸種の公的諸権限を挺子として分国(領域)支配を展開した。河野氏の場合、この種の史料に乏しく、容易にその実態は把握できないが、つぎにその事例を少しく挙げておこう。

守護の権限

 (1)使節遵行権 室町期の守護は、幕府の認定する知行人(相論の勝訴人)を沙汰付(遵行)する使節になることが一般的であった。応永三年(一三九六)五月一六日、幕府は守護河野通之に対し、大徳寺末寺浄瑠璃寺(現松山市)領以下を安堵する命令を発している(表3―2)。この幕府御教書を承けて、同年五月二六日、通之は守護代と思われる戒能氏に幕命を下達している(大徳寺文書・一○九五)。いま一つの例を示すと、永享一二年(一四四〇)七月六日、幕府は守護河野九郎(教通)に安芸国の小早川美作守(持平)の所領、大島(現越智郡)四分一地頭職を小早川又太郎凞平の代官に沙汰付けることを命じている(小早川家文書・一二六一)。以上は、浮穴郡・越智郡に関する事例である。史料的には裏付けられないが、おそらく河野氏の使節遵行権は上記の二郡以外にも認められていたであろう。
 (2)段銭等諸役徴収権 室町期の守護は、役夫工米(伊勢神宮造替の費用)・大嘗会段銭(天皇即位式の費用)等の諸公役を分国内に一律に賦課する権限を幕府から認められていた。たとえば、応永二年(一三九五)一〇月一七日、幕府は守護河野六郎(通之)に東寺実相寺造営の費用の段銭(段別五〇文)を伊予国内一律に賦課することを命じ、通之はそれを承けて守護代と思われる河野伊豆入道(戒能氏か。『築山本』に戒能豆州と見える)に遵行命令を下達している。このとき、段銭賦課の基準になったのが「公田」であった。東寺実相寺造営要脚について「段別伍拾文を公田に支配せしめ、寺家に沙汰し渡すべし」と見える(東寺百合文書・一○九〇)。公田とは、鎌倉期に作成された大田文・図田帳・惣勘文等の一国単位の土地台帳に記された寺社本所領の荘園・公領(国衙領)の田地をさすが、室町期の守護はこの公田に一国平均役としての諸賦課(公役)、さらには守護段銭を賦課し、領国支配を展開したといわれる。河野氏も例外ではなかったと考えられる。ただ伊予国の場合、惣国にわたる公田を記した土地台帳は残存していない。「乾元幷文永国検帳」が作成されたというが(国分寺文書・九三一)、これが大田文に類するものなのか、あるいは伊予国衙領全体のみを記したものなのか、判然としない。

河野氏の支配圏

 さきに述べたように、河野氏は外様の一国守護であり、伊予国全体に守護としての権限を行使することを公認されてはいたが、実質的に伊予国全体にその支配力を及ぼしえたであろうか。以下、それについて検討してみよう。まず室町期、幕府が河野氏へ発給した文書をみると、明徳四年(一三九三)四月一一日、将軍足利義満は、河野伊与守(通義)に軍勢催促の御教書を発し、明徳の乱で敗れた山名氏の残党討伐のため伯耆出兵を命じている(河野文書臼杵稲葉・一○七八)。右の史料に「伊与國西条以東を除く軍勢等」と記されているように、河野氏の軍事指揮権は、西条荘(新居郡)以東には及びえなかったことが、確認できる。また永享一一年(一四三九)の大和越智維通の叛乱に際し、守護河野教通とは別に宇和郡の西園寺氏一族の立間・竹林寺(竹林院)両氏に吉野発向の命令が伝えられている(長州河野文書・一二五八)。ここには軍事指揮面における守護河野氏の優位性は認められるものの、西園寺一族の特異性がうかがわれる。なおさかのぼって南北朝期の事例ではあるが、宇都宮氏が喜多郡一円の検断権を保持していた徴証があるから(後述)、前述の使節遵行権行使の事例が越智・浮穴二郡であったことを併せ考えると、河野氏が幕府から認められた公権は、東予二郡・南予二郡を除く中予一〇郡であったと推測される。
 つぎに室町期に河野氏が発給した文書の内容を検討してみると、寺領安堵・寺領寄進・住持職安堵・被官人の本領安堵・同所領宛行・同知行地安堵・同遺領安堵・臨時課役の免除・禁制・寺社の造営修理・被官人への感状・諸給人の寺社領への干渉停止等に関するものである。それらのうち桑村・周敷郡以東、伊予郡以西に関する文書は見い出せず、風早・浮穴・温泉・越智・和気・伊予等六郡に関係する文書のみ見える。史料残存の偶然性は考慮しなければならないにせよ、河野氏の実質的支配権が及んだ地域は、讃岐寄りの東予二郡・南予二郡をのぞく伊予の中央部であったことを裏付けるものであろう。つまり河野氏の発祥地風早郡、本拠地湯築(湯月)城のある温泉郡を中心とし、その周辺部が、河野氏の勢力基盤であったと想定すべきであろう。
 河野氏の勢力圏外にあった新居郡に接する周敷、さらにその西隣の桑村郡方面において、河野氏の足跡を示す史料は、きわめて少ない。南北朝末期に河野通堯(通直)は、佐志久原(桑村郡吉岡荘、現東予市)で細川頼之の攻撃によって敗死しているように、道前と呼ばれるこの地域は河野氏の東の防衛拠点であったが、前代以来越智姓新居氏の一族が繁延しており、他勢力が合戦などで駐留することはあっても、深く根をおろすことはできなかったとみられる。桑村郡の観念寺住持職の安堵や禁制の発布等の河野氏の活動が『観念寺文書』に散見されるが、一時的なものにすぎない。周敷郡について参考となるのは、『築山本』や『予陽本』に収める一一月二〇日付、河野亀王丸宛ての細川頼之書状である(年代を、『築山本』は明徳二年に、『予陽本』は永徳元年にし、発給者を『予陽本』は頼元にする。資料編一〇三七)。内容は、河野氏が周敷郡を支配するに至ったので、これまで細川氏の被官人となって忠功を励んできた同郡北条郷地頭の多賀谷(江)氏が、居所を失うことをおそれ、主人の頼之(あるいは頼元)に愁訴したものである。この文書は、年代や内容にいろいろの問題点があるが、河野氏の本拠から遠い道前地域では、細川氏と被官関係を結んだ国人層が相当数存在したこと、またそれらが河野氏の圧迫を受けるようになった事実が反映されたものかもしれない。

分郡守護

 河野氏は、形式的には、一国全体を分国として支配する国持大名であったが、実質的には、伊予の中央部(中予)数郡(一〇か郡と推定)を管轄するにすぎなかった。では、他地域(東予・南予)の支配体制はどのようなものであったろうか。結論的にいえば、東予二郡(新居・宇摩)、南予二郡(喜多・宇和)には分郡守護が置かれたと考えられる。つまり、一国守護職が郡単位に分割されたのである。分郡守護は、伊予国に限らず、現在全国で三〇か国、五六か郡の事例が検出されており、一般的にみられる。分郡守護職(ただし、分郡守護は正式呼称ではなく、補任状に見えない)は、一国守護職と同じく、将軍が任免権を持った特定の守護家、とくに隣国守護が併有する場合が多かったが、なかには将軍の近習、評定衆らに与えられた例もある。所領(料郡)として宛行・預置の対象ともなり、分郡守護は郡知行者、郡主などと称せられることもあった。
 ところで伊予の分郡守護は、きわめて多様性を示す。すなわち、東予二郡は細川一族が、南予二郡のうち喜多郡は幕府評定衆の宇都宮氏が、宇和郡は公家衆西園寺氏の一流が、それぞれ分郡守護として各郡を知行した。このうち細川氏は、南北朝期以降、新たに伊予国に勢力を及ぼしたのであるが、ほかはいずれも前代以来、当国と深い関係があった。鎌倉期、宇都宮氏は伊予国守護に代々任じられ、かつ喜多郡地頭職をもち、一族は喜多郡内に所領(喜多郡地頭職の分割知行か)をもっていたらしい。元弘三年(一三三三)の鎌倉幕府倒壊のとき、宇都宮遠江守(貞泰)・同美濃入道(時景=時綱か)の代官らが、根来山城(現大洲市か)に楯籠って忽那・三島祝らの反幕勢力と激しく戦った。いっぽう西園寺氏は、鎌倉幕府との緊密な関係(西園寺氏歴代が関東申次として朝廷と幕府を結ぶ役割をした)を背景に、一時は、摂関家藤原氏を圧する勢いをもち、代々伊予の知行国主として国衙領を支配すると同時に、宇摩・宇和荘を相伝した。その一族(西園寺公重流か)は、南北朝末期に宇和荘に土着し、分派してそれぞれ武士化している(本章第三節参照)。
 このように鎌倉期以来、伊予に勢力を築き上げた河野・宇都宮・西園寺等諸氏に、南北朝期以降、新たに勢力を当国に及ぼした細川氏を加えた四氏の併立状態こそ、室町期の幕府の支配体制であった。四国の守護職を細川・河野両氏が分有したことは、すでに述べたが、伊予もまた河野氏の単独支配は許されず、諸勢力のバランス・オブ・パワー(勢力均衡)を図ったのである。このような室町幕府の設定した構図は、基本的には戦国期にも生き続けた。河野氏は、戦国期にも幕府との深いつながりから、この枠組を崩すことができず、それが桎梏となって、大きく戦国大名として成長することができなかった。戦国末期、足利義昭は、河野氏に細川氏知行(実質的には三好氏の支配)の東予二郡を返付する命令を下したが(河野文書臼杵稲葉・二一四六)、実質的に効力があったとは思えない。ただ名目的にせよ南北朝末期に細川氏の圧力に屈して失った東予二郡を奪還するという宿願は果たしえたので、河野氏にとっては、それなりの意義はあったろう。つぎに分郡守護の実態を個別にみていこう。

新居・宇摩郡守護細川氏

前述のように細川氏が東予二郡(新居・宇摩両郡)を支配領域としたのは、永徳元年(一三八一)以降である。以後戦国期まで細川氏が保有した。ただし、戦国期には、細川氏被官の三好氏、あるいは細川氏被官で室町期に新居郡代となった石川氏の子孫が実質的支配を行った。室町期、東予二郡は細川氏による伊予支配の橋頭堡としての役割りを果したのである。『予章記』に「新居郡ト宇摩郡ハ大半細川家衆也」とあり、『築山本』に「就中、新居・宇摩両郡ハ河野旧領たるといえども、大半細川の家人押領す」という記載があるが、ほぼ事実を伝えたものであろう。ただ細川氏が東予二郡を押領したのではなく、幕府から正式に認められたのである。新居郡守護職は、満之→頼重→氏久→勝久と、細川頼之の弟満之の子孫、つまり備中守護家に伝えられ、同家の兼帯するところであった。当初から満之が分郡守護となったのか、それ以前に頼之が知行し、満之に譲与したのか判明しない。
康応元年(一三八九)一〇月一一日、満之は保国寺(西条市)領の四至・新田荒野への違乱停止・寺領の沙汰付けを守護代と推定される石川入道に宛てて指令しているので(保国寺文書・一〇六九)、満之の新居郡守護就任は、それ以前であろう。なお前年の嘉慶二年一〇月に保国寺長老に安堵状を発した兵部大輔を淡路守護の師氏、その子満春に比定する説もあるが、細川満之はその三年前、土佐に在国し兵部大輔と称しているので(吸江寺文書)、満之とみなしたほうがよかろう。
 その後、応永六年(一三九九)~同七年(一四〇〇)に細川本宗の満元が一時、新居郡守護を兼帯した事実がある。応永六年(一三九九)一一月一三日、京都西八条の遍照心院(のち大通寺となる)領西条荘地頭職の遵行命令を満元が受けているし(大通寺文書・一一二〇)、また翌年八月二四日、細川頼長の所領散在徳重・新大嶋(現新居浜市)の遵行命令も満元が受けている(細川文書・一一二五)。幕命を受けて遵行を実施するのは、守護の職権であるから(前述)、満元の新居郡守護在職は動かぬところである。しかし、再び満之へ分郡守護職は返還され、以後固定化している。瀬戸内海を隔てて備中守護の細川氏が新居郡守護を兼帯したので、当然代官(郡代)が実務を担当したようである。新居郡代として、満之時代の石川入道、勝久のころの石川信濃守の名が『保国寺文書』に見える。備中守護代に石川氏がみられるから、新居郡代の石川氏も、備中守護代か、それに連なる一族であろう。
 つぎに宇摩郡の場合をみよう。応永一四年(一四〇七)一二月九日、細川右馬頭入道常輔が、足利義満から宇麻(摩)郡と同闕所分以下を安堵されているが(長州細川文書・一一六二)、これが宇摩郡守護の初見である。細川右馬頭入道常輔は、細川氏嫡流満元の弟満国に比定される。それ以後は満国→持春→教春→政春と相伝された。なお満国以前に、前述の満之が新居・宇摩両郡を併有したとする説があるが、確証はない。
 満国流の細川氏は、分国を保有せず、将軍の近辺に祗候する近習(御供衆)であった(永享以来御番帳)。満国の子持春は、嘉吉の乱が勃発したとき、近習の一人として将軍義教に扈従して赤松教康(満祐の子)邸に臨み、災厄に遭った。義教が暗殺されたとき、防戦して腕を切り落とされる重傷を負い、帰宅後落命したという(建内記)。この事件より一〇年前、持春は知行する郡(宇摩郡)の国人二名が許可なく下国したのを討とうとして、幕府にその許可を申し出ている(満済准后日記)。持春に背いて京都から逃れ下った宇摩郡内の国人の名、その下国の理由、事件の経過などいっさい不明であるが、在京して絶えず将軍の側近(御供衆)として奉公しなければならぬところから、在地支配は容易でなかったと推察される。当然代官を派遣して支配する方式をとったと考えられる。
 長享元年(一四八七)のころの宇摩郡代は賀治(加地)氏であった。この年のすえ、管領細川政元は、おりから佐々木六角氏討伐のため、近江鈎の陣中にあった将軍義尚を訪ね、そのあと琵琶湖畔で三万人に及ぶ大規模な狩猟を開催した。そのとき、宇摩郡守護細川政春の代官「賀治」某が兎を捕えようとして過って崖から落ち、死去するという事故が起きている(蔭涼軒日録)。この賀治某は、おそらく越後加地荘から備前に遷った佐々木流加地氏であろう。細川頼之の中国出陣のころ、加地氏はその被官となったのであろうといわれている。明徳三年(一三九二)八月二八日の相国寺供養のとき、管領細川頼元(頼之の養子)の随兵中に「佐々木加地彦次郎朝包」が見える(相国寺供養記)。これは備前の加地氏とも思われるが、「予州弥津郷地頭」であった「佐々木加地朝房」(尊卑分脈・佐々木系図)と同族と推定されるので、宇摩郡代の賀治(加地)氏に連なる一族にちがいない。

宇和郡守護西園寺氏

宇和郡守護の初見は、『満済准后日記』永享四年(一四三二)正月二六日の条の記事である。同記に「伊予国羽(宇カ)和郡知行西園寺方へ、管領内状は子細同前」とあり、西園寺氏が宇和郡守護として宇和郡を知行していたことが確認される。伊予西園寺氏は南北朝末期、河野氏と結んで南朝方となり、家領の宇和荘に下向、土着した西園寺氏の一流である。このころには、松葉・立間・竹林院の三流に分派し、武士化していた。西園寺氏の宇和郡知行の始まりを、どの時期に求めるかは問題であるが、ほかの伊予分郡の事例が、いずれも南北朝末期の義満政権初期の成立と推定されることから、宇和郡の場合もやはりその時期に成立したと考えた方がよかろう。南北朝末期、西園寺氏は、細川氏との対抗上、南朝に帰順した河野氏と提携した。河野氏が北朝方に復帰すると同時に西園寺氏も宇和郡にもつ権益を宇和郡守護という形で幕府から追認されたものであろう。
 さて、宇和郡を知行した西園寺氏は、宇和荘に分派したいずれの西園寺氏であったろうか。『宇和旧記』は「西園寺家当郡主として子孫繁昌せり」と記し、それを松葉城に住んだ西園寺氏としている。つまり松葉流の西園寺氏が分郡主(分郡守護)であったと認めている。たしかに義教政権下、最も将軍義教に接近したのは松葉氏であった(管見記公名公記)。また戦国期、宇和郡域を支配下に置き、大名化したのは、まさしくこの松葉西園寺氏であるから、さかのぼって考えると、義教政権下の宇和郡知行者は、松葉西園寺氏がもっともふさわしい。なお西園寺氏の宇和郡守護としての権限を行使した事例は、全くみられない。ただ永享四年(一四三二)の九州における大内氏と大友・少弐両氏の抗争に際し、幕府の発した出兵命令から、西園寺氏の軍事指揮権の実態が知られる。幕府は大内持世を支援して、守護河野氏(通久)とは別に、宇和郡の西園寺氏一族、御荘氏一族(御荘・竹中両氏)に出兵を要請した(満済准后日記)。これによって河野氏が伊予惣国の軍事指揮権をもたなかったこと、西園寺氏(松葉か)が宇和郡全体の軍事指揮権を行使できなかったことがわかる。ただ宇和郡南部(現在の南宇和郡)の青蓮院門跡領御荘(観自在寺荘)の荘官出身であった御荘氏は、当時は国人化していたとはいえ、法体の青蓮院門跡の坊官であり、その支配領域に幕府の公的権限が及ばなかったとすると、例外であったとも考えられる。

喜多郡守護宇都宮氏

 観応三年(一三五二)六月二三日、幕府の直勤御家人(引付衆、評定衆)であった宇都宮蓮智(貞宗の弟貞泰)は、西禅寺(現大洲市)に置文を定めているが、寺内の犯罪人の処断について「当郡検断沙汰致すものなり」と記している(西禅寺文書・七九八)。このとき一国の検断権をもつ守護の権限は郡単位に分割され伊予宇都宮氏の祖貞泰が、喜多郡一円の検断権を掌握していたとみられる。宇都宮氏(貞宗)は鎌倉末期には、伊予国守護であり、その一族(貞泰)は喜多郡地頭であったから(忽那家文書・五四三)、郡地頭の系譜をひく宇都宮氏が、南北朝期にあらためて当郡守護として認定されたものと思われる。貞泰の子孫がその後も喜多郡を知行しつづけたのであろうが、分郡守護としての確認はみられない。

表3-2 河野氏の守護在職の徴証

表3-2 河野氏の守護在職の徴証


図3-2 室町期伊予の支配領域

図3-2 室町期伊予の支配領域