データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 古代Ⅱ・中世(昭和59年3月31日発行)

三 伊予国人の諸相

1 忽那諸島の海賊衆

室町期の忽那氏

 まず海賊衆について検討してみよう。海賊衆と国人とは違うという見方もあるが、いずれも土着の勢力という点では異ならないし、海賊衆の中核は国人であったとみられる。忽那氏は戦国期には下島衆という海賊衆の中核をなしたが、鎌倉時代の地頭御家人の系譜をひく典型的な国人である。したがって海賊衆は国人を中核にし、それに小規模な土豪層(ただし、農業経営を主体とするものではあるまい)が結びついて衆を形成したものと考えられ、国人の特殊形態ということができる。伊予における海賊衆の代表は、いうまでもなく、瀬戸内海の芸予諸島を舞台に活躍した村上氏(能島・来島・因島そのほか)である。しかし、村上氏の勢力が全瀬戸内海を掩ったわけではなく、忽那諸島には忽那氏、のちに二神氏が、豊後水道には、三崎・法華津の海賊衆が蟠居し、周防・安芸の島嶼・海辺部には、屋代島や蒲刈島・警固屋・呉・川内(安芸佐東川河口)海賊衆などが存在した。村上氏については、別章で詳述されているので、ここでは忽那諸島を本拠にして、河野氏の水軍の一翼を担った忽那・二神両氏をとりあげてみよう。
 忽那氏は、平安時代の末期から忽那島に姿を見せはじめる在地領主である。鎌倉時代には惣領制的な発展をとげ(第一章第二節参照)、南北朝時代には南朝方の水軍として数々の勲功をあげたことがよく知られている(第二章第二節参照)。そのような忽那氏も室町期に入ると、守護大名河野氏の被官(家臣)に組み込まれた。応永一二年(一四〇五)九月二一日、忽那次郎左衛門入道は、河野通之から久津那(忽那)島西浦上分地頭職を宛行われている(忽那家文書・一一五一)。忽那氏が河野氏によって被官化された時期は、南北朝末期にさかのぼる可能性があるが、明らかでない。前記地頭職は「能島衆先知行分」とあるから、応永一二年以前に能島村上氏を中核とする能島衆が、忽那島の西部を河野氏から与えられていたことがわかる。室町期から戦国期にかけて、忽那氏は河野氏から本領安堵・当知行地安堵・新恩給与を受けている。表3―7をみると忽那氏の所領は、本領の忽那島をはじめ、伊予本土の和気郡・伊予郡・温泉郡・風早郡の五か郡に分散している。所領の内容は地頭職・名田職・忽那島東分(東浦)の人遣成敗(権)・同検断職である。いずれも「職」(収益の徴収権)という荘園諸職を経済的基礎に据えている。ただし、それは荘園制下における重層的な関係ではなく、並列的なものであろう。それらは、あくまでもかつての地頭職や名田職の系譜を引くことを示すにすぎない。
 なおこれらの諸職のうちで注目されるのは、忽那島東浦における忽那氏の権益である。忽那島のうち西浦は、当初から忽那庶流の伝領する地域で、いちはやく河野氏から奪取される対象となったが、東浦(地頭職)は、鎌倉期以来忽那氏惣領の保持するところであり、室町期に入っても、忽那氏によって相当強力に支配されたのであろう。それが人遣成敗権とか検断職という、いわば守護職の部分的な分割形態を示すかたちで容認されたものにちがいない。これは、河野氏の大幅な譲歩である。この両職が河野氏から認められたのは、ちょうど河野氏の内訌の発生したときにあたっている。河野氏(本家)が、自己の陣営に忽那氏をつなぎ止めておく方策としてとられた処置であろう。寛正五年(一四六四)と推定される七月二三日の河野通秋(教通の嫡子)書状(忽那家文書・一三九六)に「国之事取しつめ候ははかい(涯)分扶持を加え侯」と述べ、おりから同族通春の叛乱によって混乱した状況のなかで、河野氏本家は忽那氏の援助が必要であった。ところが、応仁の乱中には、河野通春は西軍の大立物大内政弘の書状を忽那氏に進め、味方して忠節を尽くすように依頼している(同・一四三三)。このように国人の去就は定かでなく、守護との結びつきもさほど緊密なものではなかった。しかし、忽那氏は文正元年(一四六六)七月一一日、忽那島における本知行地の半分を召し上げられて、その代地に得重地頭職(所在地不明)を与えられており(同・一四二六)、忽那氏の勢力後退のきざしが見える。
 戦国期に入ると、永正二年(一五〇五)には、忽那氏は、忽那島五名代官職の成敗を河野氏から認められているが(同・一五九五)、それは忽那氏が河野氏の直轄領化した料所の代官にすぎない立場になったことを意味しよう。忽那氏にかわって、忽那諸島に勢力を伸ばしたのは、二神氏であった。

二神氏の出自

 二神氏は、もともと二神島(現中島町)出身の国人ではない。長門国豊田郡の豪族(豊田郡司と称す)の一流が、のち二神島へ移住し、二神氏を名乗った。豊田氏は、防長において、大内・厚東氏と並んで有力な豪族(国人)であった。元弘三年(一三二三)三月、長門探題北条時直は、防長両国の軍勢を率いて伊予に来襲したが、そのなかに厚東氏と並んで豊田氏(種長か)が軍勢大将格として見え、また平井城(現松山市)合戦で討死した長門国の戦士のなかに「豊田手人々上下十人」と見える(博多日記)。南北朝期、豊田氏は足利尊氏の庶子直冬を支援して将軍方の厚東氏に反抗し、ついで南朝方になった厚東氏と結んで大内氏と対立したという。しかし、当初から尊氏に従って軍功を積み、越前国主計保(現福井市)を与えられた豊田庶流の種治もいた(片山二神文書・六三〇)。この種治の兄種秀の死後、種秀の養嗣子種世と種秀の実子種家が家督を争い、種家は敗れて伊予に来て、二神氏の祖となったという。
 豊田氏の二神島移住の時期は定かでないが、南北朝末期であろう。種世の子儀種は、応永一四年(一四〇七)、大内盛見の被官として見える(周防興隆寺一切経勧進帳)。伊予に移住した豊田氏がはじめて二神氏を名乗ったのは、いつかわからないが、種家の曽孫家経が初見である(安養寺大般若経奥書)。室町期の二神氏は、確実な史料に見えず、その実態は明らかでない。現存する『二神文書』をみると、戦国期ににわかに文書があらわれる感がする。室町期の文書は、一点も残存していない。

海賊衆二神氏

 文明一一年(一四七九)一二月一三日の河野教通知行宛行状(二神文書・一四八六)によって、二神四郎左衛門尉(家経か)が風早郡粟井の安岡名・同友兼(友包とも記す)名・宮崎分を宛行われており、それ以前に河野氏被官となっていたものと思われる。同一三年(一四八一)には、河野氏の直轄領である「風早郡御手作分反銭」(文明八年分)を高山通貞からうけとっている(二神文書・一四九九)。河野氏直轄領の代官となっていたのであろう。二神氏は二神島を本拠とし、「二神嶋作職」を相伝していたが(二神文書・一七七三)、さきにみた粟井郷内の所領を相伝し、粟井郷反役職、河野郷役職に補任され、河野氏家臣団のなかで重きをなすようになった。そして風早郡の宅並城に拠って宅並二神衆を形成し、河野氏の軍事力(水軍)の一翼をになった。
 永禄一三年(一五七〇)、来島牛松丸(のちの通総)が河野氏に背いたとき、河野氏は垣生・平岡という重臣の連署奉書をもって、来島氏との対面を禁止し、河野郷役職の補任をはじめ、風早郡で多くの所領を与えることを約束した(二神文書・二一○六)。これは、来島氏に対抗する勢力を二神氏がもちはじめたことを意味する。二神衆の構成・実態などについては不明であるが、永禄一三年(一五七〇)一二月一五日の河野牛福丸(通直)の所領安堵状(二神文書・二一一〇)によると、「粟井三分廿五貫」は「衆中申し談ずべきなり」とあり、二神氏惣領の所領経営が宅並二神衆中の承認が必要だったことをうかがわせる。河野氏は、このような海賊衆を掌握していった。

2 山方の国衆

森山氏と伊予郡

 つぎに伊予郡や浮穴郡の山間部を基盤とした、いわゆる「山方」の国衆を検討してみよう。森山・大野の両氏は伊予における典型的な国人といえるものであるが、その実態ははっきりしない。まず森山氏をとりあげてみよう。同氏の出自・本姓ともに判明しない。伊予郡(現伊予市)大平に居館(森山館里城)を構え、背後の森山城(天神ヶ森城)に拠ったので、森山氏と称したとする説があるが、その地に森山という地名はない。中世の在地領主がほとんど苗字の地をもっていたという常識からすると、本来この地に発生したと解することは、検討の余地がある。
 いっぽう『大州旧記』(第二巻)によると、森山伊賀守が、喜多郡森山(現肱川町)の「いげの城」にいたが、のち替地として伊予郡の「大平」を与えられ、その地に移ったとする興味ある説を載せている。また遊行上人一六代南要の『四国廻心記』によると、南要は永享二年(一四三〇)一〇月一二日、「森山方の在所河津柳」を出発して、山を越え、谷川を渡ってその日の晩に願成寺(内子町廿日市)に着いたと記している。内子から一日行程のところであり、このような地形の所は、犬寄峠の麓の伊予郡大平の地がもっともふさわしい。犬寄峠を越えて、肱川の支流中山川を下ると、内子に達する。さらに中山川を下って肱川との合流点に至ると、その付近が森山という地である。想像をたくましくすると、喜多郡森山出身の森山氏が、この交通路沿いに勢力を伸ばし、伊予郡に進出したと考えられないであろうか。ともかく室町初期には、森山氏が伊予郡を基盤にしたことはまちがいない。
 嘉慶二年(一三八八)二月二八日、将軍足利義満は伊予国安国寺(温泉郡川内町)へ余戸荘(現松山市)をはじめ吉原郷地頭職(和気郡)、松崎浜(松前町)を寄進している(安国寺文書・一〇六五)。ついで応永四年(一三九七)一〇月、余戸荘内にあった大野・森山両氏の知行分の所領が、召し上げられて安国寺へ寄進され、河野通之の安堵を得ている(安国寺文書・一一〇四)。これからみると、森山氏も大野氏も幕府領(御料所)内で、室町将軍から所領を給与されていたことがわかる。守護被官というよりむしろ将軍被官として、京都に直結していたのであろう。
 さて、森山氏は伊予郡の山間部を基盤とし、その勢力はしだいに浮穴郡に及んで、その地域を勢力圏とする大野氏と衝突した。永享七年(一四三五)七月から翌八年のころ、森山氏と大野氏は、抗争を続け、将軍足利義教は、幕命に背いた大野氏の所領を没収して森山氏に与え、さらに、大野氏に加担した「与力輩」の交名(人名の一覧表)を注進させている(河野文書臼杵稲葉・一二四五)。これからみると、森山氏は大野氏と同様、守護河野氏の被官というより、むしろ将軍の被官的存在(御家人か)であったとみられる。ただ、将軍の奉公衆(親衛隊)のなかには、森山氏の名を見い出すことはできない。奉公衆に編成されない幕府の御家人があったとも考えられる。永享一〇年(一四三八)一一月、西園寺家領宇和荘代官職をめぐる立間中将公広と松葉熊満(丸)との抗争が、将軍足利義教の調停によって終熄し、幕府(室町御所)で両者が和睦した。その時、宇都宮・森山両氏が立ち会っている(管見記公名公記)。これによって西園寺・宇都宮・森山氏らは、在京していたことがわかる。
 その後、森山氏は、しだいに守護との結びつきを深めた結果、守護被官化したのであろう。宝徳三年(一四五一)河野教通が通春と争った時、森山氏は重見・大野氏とともに教通に協力して通春を討ったが、享徳元年(一四五二)には、通春方に結びついていちはやく教通に叛旗を翻した。この時森山氏は教通を支援して伊予へ進駐してきた幕府側の吉川加賀守、益田兼堯(石見国)らの攻撃をうけ、森山館里城、および天神森で戦っている(吉川家文書・一三三一、萩藩閥閲録・一三三〇)。寛正五年(一四六四)、通春がまたもや叛乱をおこすと、今度は森山氏は重見氏とともに通春に弓を引いたという(楽音寺文書・一三九八)。ついで、応仁の乱後、重見・大野氏らとともに河野通直に反抗し、敗れている(三島家文書・一四七三)。反覆きわまりない国人の性格をよくあらわしている。戦国期に入ると、森山氏は、確かな史料に全く登場しない。そのころまでに勢力を失ってしまったと推測される。かつて森山氏と競合・抗争していた浮穴郡の大野氏が、これにかわって勢力を拡大した。

大野氏の系譜

 森山氏とともに、山方の国衆として姿を見せる大野氏の出自については、『大野系図』(小笠原本、以下特に断らない場合は、小笠原本をさす)によると、天智天皇の皇子大友皇子から大伴旅人を経て、大野氏になったと伝えている。天文一七年(一五四八)に大野利直が菅生山大宝寺(現久万町)に寄進した梵鐘(現石手寺蔵)の銘にも「大伴朝臣大野紀刕利直」と刻され、大野氏は大伴氏の出と自認している。これに対し『予陽河野家譜』をはじめ地元庄屋に残る『大野家四十八家之次第』などの史料は、すべて嵯峨天皇の孫経興王(又は経与)の後裔としている。ともに後世の仮託であって信ずるに足りないが、彼らの自家の系譜に対する強い自負をうかがうことができよう。
 さて、大野氏の発祥の地はどこであろうか。前掲(図3―6)の『大野系図』によると、年代不明ながら「吉良喜」というものが喜多郡長浜に下向し、大野・宇津・森山・宇和川以下九か里の民を手なづけて、大野氏を自称したとするが、現在この地域に大野という地名はなく、信用しがたい。また、別の『大野系図』(『伊予諸系譜』所収本)や『予陽河野家譜』は、喜多郡宇津との関連を述べているが、これも後世の仮託の気配が濃い。
 このように大野氏の発祥地について、『大野系図』や編纂物の記述が信頼できないとすれば、ほかの史料によらざるをえない。その手掛りとなるのは、前述の建武三年(一三三六)六月一三日の河野善恵(通盛)の注進する手負注文(萩藩譜録・五九四)である。河野通盛に串いられて比叡山に拠る後醍醐天皇方を攻撃した伊予国軍勢のなかに、「大野次郎兵衛尉忠直(設楽兵藤左衛門尉正義若党)右足射疵」と見える。大野氏は「直」を通字としているところからみても、これが大野氏の祖先ではあるまいか。忠直の右肩の注記によると、彼は設楽流兵藤氏の被官とある。設楽氏は三河国設楽郡の豪族で、伴姓、のち足利将軍家の根本被官となり、奉公衆のなかにも加えられている。兵藤(兵頭)氏は設楽氏と同族で、設楽氏の支流には富永氏もいる。大野氏が伴姓で、しかも富永とも称していることを考えあわせると、両者の間に何らかのつながりを見ることもいわれないことではない。なお兵藤(兵頭)氏が、喜多郡出海に拠ったことは、年未詳旦那名字注文(米良文書・一五二九)に「いつミとの(本名ひやうとう也)」とあって、この史実を確認できる。大野氏も喜多郡にあって兵藤氏の被官となり、やがて、室町期には兵藤氏をしのぐ勢力をもつにいたったのではあるまいか。ただし、大野氏が兵藤氏と血縁関係があったかどうかは明らかでない。
 この時期には、大野氏は浮穴郡の小田(大田)に本拠を移したらしい。さきの旦那名字注文に、「おたの大野殿、同たちはな殿、同いしわら殿、同うつ殿、此□(は)本名とひなか也」とあり、小田の大野・立花・石原・宇津氏はいずれも「とひなか(土居)」を本名とするという。『大野系図』をみても大野氏は土居と称し、小田土居城に拠ったと記している。これは、信用できる記述であろう。永享四年(一四三二)六月二七日、大野氏と思われる明正が、大野弥次郎(直里か)に「大田之内本郷久万」を譲与している(大洲随筆・一二三三)。なお戦国期に立石(現小田町)に大野氏の一流、立石氏がいた。天文三年(一五三〇)銘の田渡八幡神社所蔵棟札に大檀那として「大野立石加賀守直義」と見え、敷地大檀那(田渡の領主か)として奇しくも大野氏とかかわりの深い「兵藤之大蔵正助」の名も並記されている。

幕府への直結

永享七年(一四三五)六月に、河野通久が戦没し、幼主犬正丸(のちの教通=通直)の家督継承後まもないころ(永享七~八年)、大野氏は浮穴郡に進出してきた森山氏と闘争した。将軍足利義教から所領を没収され、それは森山氏に給与されている。その時、河野氏から与えられたと思われる「給恩之地」は、同氏の取り計らいにまかせている。大野氏が将軍被官でありながら、守護被官であるという両属的性格を示すものであろう。そのためであろうか、河野氏被官に多い「通」の字を付したものが、大野氏にほとんど見られない。『大野系図』によると、わずかに応仁の乱後の大野氏の当主通繁一人である。それも、通繁が河野氏の庶流通春の烏帽子子になって「通」の字を拝領したためで、通春の被官になったのではあるまい。大野氏はきわめて独立的な存在であったと考えられる。それは、森山氏と同様に幕府へ直結し、守護とのかかわりが薄かったせいであろう。なお『大野系図』(『伊予諸系譜』所収)によると、宝徳三年(一四五一)の夏に上京した繁直が帰途、兵庫で暑さのためか狂死したという。また森山氏と同様、伊予安国寺領余戸荘(現松山市)を将軍家から給与されていたことは前述のとおりである。
 これよりさき宝徳三年(一四五一)一〇月二三日管領畠山持国の奉ずる室町幕府御教書が発せられ、土佐国高岡郡の国人津野之高を討伐するよう命令を受けている(大野文書・一三一八)。津野氏は土佐の有力国人の一人で高岡郡姫野々城を根拠とし、所領は海岸郡の須崎から山間部の梼原まで及び、伊予国久万山と接していた。津野氏の当主之高は光高ともいい、伊予の河野家から養子に行ったといい(中平系図・津野家系考証)、河野氏の内訌と津野氏の叛乱とは何等かの因果関係がありそうである。ともあれ、大野氏は、幕命をうけて土佐に侵攻し、吾川郡弘岡(現吾川郡春野町)で叛乱軍と交戦して負傷している(大洲旧記・一三二三)。このことにより予土国境に位置する国人の性格がうかがえて興味ぶかい。

久万山進出

 やがて、大野氏は、小田の地から、久万山に勢力を及ぼしたらしい。大野氏の久万山方面への進出については、『大野系図』をはじめ諸種の編纂史書に矛盾が多く、額面通り受け取ることは、危険である。たとえば長禄・寛正年間大野氏の不在につけこんで、久万(久万山)出雲入道が大野氏の所領を侵略したとするが、実は逆ではあるまいか。大野氏の方から久万山を本拠する土豪の久万山氏を攻略したのであろう。また大野氏は、家の再興のため荏原・久万山を美濃の土岐成頼に譲って、足利将軍家へのとりなしと軍勢の派遣を依頼したとするが、これまた疑わしい。浮穴郡荏原郷(現松山市)と同久万山(現久万町)は、本来美濃土岐氏の所領であり(尊経閣文庫所蔵文書・一四六七)大野氏の本領ではない。これまた事実と逆であろう。
 応仁の乱後土岐氏も自力をもってしては浮穴郡の所領維持が困難となってきた。そのため土岐氏はこの地域に実力を伸ばしてきた大野氏の援助を受ける必要が感ぜられた。年代未詳一〇月一三日(明応六年以前)付美濃国守護土岐成頼書状によると、大野九郎次郎(綱直)にあて分領荏原・林・久万山の管理を依頼している(大野文書・一四九三)。これなどは、この頃の両者の関係を示すものとして興味深い。
 このころ、大野氏(通繁か)は、森山氏とともに河野氏に背いて、討死している。また文明年間のころ、明神葛懸城(現松山市久谷町)にたてこもった敵数人を討ち取り、そのとき大野氏の被官人三人が討死している(大野文書・一四八九・一四九一)。このとき久万山に乱入したために伊予・土佐両国の守護であった細川政元の命令をうけた大野氏の攻撃を受けたのは、浮穴郡荏原郷に本拠をもつ平岡氏であったとみられる。平岡氏は美濃土岐氏の所領荏原・久万山を競望し、細川政元は、大野氏に対してこれを退治するよう命じている(大野系図・一四九〇)。

表3-7 室町期の忽那氏の所領

表3-7 室町期の忽那氏の所領


図3-5 二神氏略系図(景浦勉作成図による)

図3-5 二神氏略系図(景浦勉作成図による)


図3-6 大野氏略系図

図3-6 大野氏略系図