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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 人々のくらし

(1) 子どもの遊び

 「私(Aさん)の実家は工場の正面にあり、生まれたときからここで育ちました。この地区は上町といって、難波からの道と正岡からの道の合流点で、旧の国道沿いの本町や辻町がにぎわいを見せるようになるまで、北条地域に3軒しかない呉服店がそろうなど、商店が集まっていて大変にぎわっていたそうです。私が生まれたころには商店はほとんど残っていませんでした。
 私が子どものころ、上町胡子町には子どもがいる家が70軒ほどあって、私の同級生だけでも7、8人はいたと思います。当時、この辺りの道路は舗装されておらず、自動車もほとんど通らなかったため、その辺りの道路が子どもたちの遊び場になっていました。たくさんいた近所の子どもたちと、『イッセン』(三角ベース)、『ロクムシ』といったボール遊びやパッチン(メンコ)などをして遊んだことを憶えています。」

(2) 高校への通学

 「私(Aさん)は北条小学校、北温中学校(現松山市立北条北中学校)に通いました。当時、北温中学校は北条小学校の北隣にあり、小学校、中学校とも実家から近かったです。北温中学校を卒業後、私は松山北高校へ進学しました。なお、私が高校へ進学する年から県立高校は小学区制から大学区制に替わりました。それまで北条地域から旧松山市内の県立高校へ進学する場合、松山北高校しか進学することができませんでしたが、ほかの高校へも進学することができるようになり、同級生の中には松山東高校に進学した子もいます。
 松山北高校への通学は、伊予北条駅から汽車で松山駅まで行き、松山駅からは城北回りの市内電車を利用しました。通学時間帯の松山行の汽車は、伊予北条駅発が午前6時50分くらいの1番、午前7時10分くらいの2番、午前7時30分くらいの3番とあり、松山北高校へは2番までに乗らないと始業時間に間に合わず、寝坊して遅刻したこともありました。汽車は8両編成で、1番はディーゼル機関車、2番と3番は蒸気機関車でした。当時は蒸気機関車の方がディーゼル機関車よりも馬力があったようで、大量に乗客を運ぶ時間帯に蒸気機関車が使われていました。
 この辺りから旧松山市内へ通勤する人はそれほど多くなく、乗客は高校生の方が多かったと思います。小学区制のころから菊間より北は今治北高校の学区だったこともあり、伊予北条駅の北にある駅から松山方面へ通学で乗り込む高校生は少なかったです。そのため、伊予北条駅を出発するとき、そこまで乗客は多くはありませんでしたが、次の駅に到着するたびに乗客がどんどん増えていきました。伊予和気駅を出発するときには乗客が車内からあふれるほどで、駅員がどんなに詰め込んでもドアが閉まらないほどだったことを憶えています。」

(3) ベビーブーム世代の学校

 「私(Aさん)の学年はベビーブーム世代で子どもの数が多く、中学校や高校は今では考えられないほどの生徒数でした。北温中学校は1クラス48人ほどで1学年8クラスでしたが、旧松山市内の中学校の中には、もっとクラス数の多い学校もあったようです。松山北高校で知り合った、旧松山市内の中学校出身の友人は、『松山北高校に進学している同じ中学校出身の生徒でも、全く知らない生徒や顔だけは見たことがあった程度の生徒がたくさんいる。』と話すほどでした。松山北高校は私の上と下の学年は1学年12クラスでしたが、私の学年は13クラスで、生徒数は現在であれば中規模高校の全校生徒数並みの650人以上でした。」


参考文献
・ 北条市『北条市誌』1981
・ 愛媛新聞社『愛媛県百科大事典』1985
・ 旺文社『愛媛県風土記』1991
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 北条市『飛 北条市合併記念誌』2004