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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 醸造業に携わる

(1) 醸造業者としての変遷

  ア 創業時からの蔵

 「当社は、大正10年(1921年)に祖父が創業して醬油を作り始め、私(Aさん)で3代目となります。創業時は現在地から少し離れたところにありましたが、間もなく現在地へ移転しました。その際に蔵を移築して現在も使用していますが、この蔵は法善寺と関連があります(写真3-2-1参照)。法善寺の由緒によると、周防国(山口県)の大内義隆は、天文20年(1551年)に謀反によって一族とともに自害しますが、幼い次男は家臣とともに伊予国風早郡(旧北条市を中心とした地域)に落ち延び、酒造業を営みました。その次男が父の菩提(ぼだい)を弔うため、元亀元年(1570年)に法善寺を建立したと伝わっています。その後も酒造業が営まれ、今から250年ほど前に酒蔵として建てられたのがこの蔵だと聞いています。明治19年(1886年)の水害のため酒造業を廃業し、蔵は米問屋に引き継がれました。その後、米問屋が廃業するに当たり、祖父が3棟あった蔵のうちの1棟を買い取ったそうです。
 この蔵にはくぎが使われていないため、解体して移築することができました。また、蔵には立派な大黒柱がありますが、『大黒八十八番』と墨書されています(写真3-2-2参照)。今では色が薄くなっているため、私は何と書いてあるか分からなったのですが、県の建築関係の人が工場を見学しているときに気付いて、『祖父から昔は大きな蔵を建てたとき大黒八十八番と書いたと聞いていたが、まさにこれだ。』と、見学よりも大黒柱の話に夢中になっていました。その人によると、松山市内にこのような古い蔵はあまり残っていないそうで、文化財に指定されてもおかしくないそうです。」

  イ 家業を継ぐ

 「周囲の大人たちから『お前が後継ぎだ。』と言われて育ったため、私(Aさん)は自然に家業を継ごうと思うようになりました。高校卒業後、東京農業大学へ進学して醸造学を学びましたが、大学の同級生には愛媛県内で酒造会社を営んでいる人もいます。大学卒業後、問屋関係の会社で2年ほど働きましたが、父が病で倒れてしまい、急きょ北条に帰って家業を継ぐことになりました。帰ってきてからしばらくの間、私は外回りをして商品を問屋や酒店などに卸していましたが、工場のことを何も分からないまま外回りをするのはつらかったです。こうした苦い経験があったため、息子が後を継ぐ際には、2年ほど工場の中で経験を積んでもらいました。ある程度できるようになってから外回りも任せましたが、息子のためには良かったと思います。」

  ウ 商品種類の拡大

 「当社では創業時より醬油を作り続けていましたが、戦後間もなく、父が味噌(みそ)とひしおも作り始めました。しばらくの間は醬油、味噌、ひしおを作っていて、売り上げの割合は醬油が7割、味噌が2割、ひしおが1割くらいでした。私(Aさん)が北条に帰ってきて間もなく、『これからはいろいろな商品作りに挑戦しなければならない』と考えて、食酢、ソースを作り始めました。ソースは発酵食品ではなく、原材料を煮詰めるだけで良いため、製造にそれほど広い場所を必要としません。当社では比較的狭い場所で作っていますが、昔、燃料が石炭であるボイラーを使っていたころに石炭を蓄えていた場所です。現在のボイラーの燃料はA重油ですが、私が子どものころは、まだ石炭を使っていました。ボイラーの更新を検討していたころ、当時、松山(まつやま)市宮西町にあった三浦工業(当時は三浦製作所)が営業に来たことを憶えています。父が『今は石炭を置く必要がなくなって空いているから、ここで作ってみるか。』と言ってくれて、石炭を蓄えていた場所でソースを作り始めました。
 さらに、めんつゆ、柚子(ゆず)ポンや焼肉のたれといった加工品を作り始めましたが、加工品は原材料が自家製の醬油で、当社にしかない商品を作ることができると考えたのです。加工品を作り初めたころ、初めての試みのため、配合をどうするかなど試行錯誤を重ね、苦労しながら作ったことを憶えています。試作品を得意先に持って行くと、いろいろな意見をもらいました。それらの意見も参考にして、最終的には自分たちがおいしいと自信を持って言える状態にして商品化しました。現在、当社で扱う商品は30種類近くになっていますが、売り上げの割合は醬油・味噌が6割、そのほかの商品が4割ほどと、そのほかの商品の割合が高まっています。現在、一番人気はめんつゆで、だし醬油、ソースも人気があり、やがて醬油・味噌とそのほかの商品の割合が同じくらいになるかもしれません。一方で10年ほど前の総務省家計調査で1世帯当たりのパンの購入金額が初めてコメを上回るなど、消費者の好みが変化してきためか、最近ではひしおが売れなくなっています。最近は健康志向の高まりで、味噌など発酵食品の需要が高まっていると言われますが、なかなか厳しいです。」

  エ 取引先の変化

 「当社の商品は、八幡浜(やわたはま)、今治(いまばり)、新居浜(にいはま)の問屋などに卸しているほか、近隣のいくつかのスーパーに卸しています。昔は取引先として酒店も多く、当社と取引している酒店が、酒とともに当社の商品もお客さんへ配達していました。昔ながらの酒店は街中であまり見掛けなくなるとともに、当社の取引先として問屋や酒店が最近は減ってきています。
 私(Aさん)が北条に帰ってきたとき、初めの外回り先は八幡浜の問屋で、長浜(ながはま)を経由して行っていました。当時の問屋は廃業しましたが、その際に得意先を100軒ほど引き継ぎました。しかし、高齢化により取引をやめるお客さんが増えてきて、現在は30軒ほどになっています。
 当社は倉敷紡績北条工場の社員食堂にも醬油を卸していました。倉敷紡績北条工場には、最盛期に1,000人ほどの従業員が働いていており、働きながら学ぶ女性従業員のため北条高校に定時制もありました。
 そのため、問屋に卸すのと同じくらい、大量の醬油を卸していたことを憶えています。当時の北条には活気がありましたが、合理化により従業員の数が減少して北条高校の定時制がなくなり(平成9年〔1997年〕3月廃止)、倉敷紡績北条工場も閉鎖されて寂しくなりました。」

  オ 家庭への配達

 「地元のお客さんは直接当社の購買まで買いに来ることもありますが、当社は昔から各家庭へも配達しています。昔はこの辺りにも農家が多く、家族が7人から8人いる家も珍しくありませんでした。そうした家では野菜の煮炊きなどをする際に大量に醬油を使うため、軽トラックに醬油の1升瓶(約1.8ℓ)を一度に100本以上積んで配達していました。大量に消費する家には3か月に一度ほどの間隔で1升瓶10本入りの箱を配達していましたが、さらに消費量の多い家には年に二度ほどの間隔で4斗樽(約72ℓ)を配達していたことを、私(Aさん)は憶えています。1軒の家から大量の注文が入って、金額も大きくなるため掛け売りをしており、盆と節季に集金していました。
 現在も各家庭へ配達していますが、1軒当たりに配達する醬油の量はかなり減っています。その結果、商品の容器も小型化が進み、大きなものでも1ℓで、そのほか昔はなかった360㎖や150㎖サイズのものもあります。常連客の高齢化が進み、『夫が亡くなって料理をしなくなったので、醬油の注文をやめます。』という家が増えてきた一方、『めんつゆがおいしいから持って来て。』とか『あのソースをお願い。』といった醬油以外の商品を注文する家が増えてきました。また、最近まで盆と節季の集金をしていましたが、注文量が減って金額も少なくなったため、原則振り込みにしてもらっています。」

  カ 勤務形態の変化

 「当社は昔、午前8時から午後5時半ころまでが勤務時間で、休みは月に一度あるかないかくらいでしたが、私(Aさん)が北条に帰ってきたときには毎週日曜日が休みになっていました。現在、当社も週休二日制にしており、午前8時半から午後5時半までが勤務時間となっていますが、パートの人によっては午前9時からの勤務となっています。私が北条に帰ってきたとき、家族以外の従業員は配達1人と工場の中に5、6人でした。現在は扱う商品が増えたこともあり、配達3人と工場の中に9人の合計12人です。」

  キ 最近の動き

   (ア) 地元への貢献

 「以前から旧北条市内の小学校、中学校や北条高校から、授業の一環として工場見学の依頼があります。当社の規模ではあまり多くの学校からの見学を受け入れることは難しいですが、地元への貢献として旧北条市内の学校の見学は今後も受け入れたいと、私(Aさん)は思っています。」

   (イ) コロナ禍と物価高

 「この2、3年のコロナ禍によって私たちの生活は大きく変わりました。当社の業務関係でも、取引先のホテルや居酒屋などが大きく影響を受けて、廃業したところも3、4軒あります。今年(令和4年〔2022年〕)はロシアのウクライナ侵攻を契機とした原油高や円安の進行により、製造コストがかなり上がっています。燃料であるA重油はもちろん、パッケージなど石油由来のものが多い包装資材、そして原材料である小麦、大豆など、商品の製造に関連するほぼ全てのものが1割から2割値上がりしていて、特に塩は2割5分ほど上がっています。こうなると商品の値上げをしなければなりませんが、当社のような零細業者は、そう簡単に何度も値上げをすることはできないため、慎重に時期を見計らって値上げをしなければなりません。取引先の人も『そろそろ値上げをしなければならないのではないですか。』と心配してくれており、原材料価格が落ち着くころに値上げをしたいと考えています。また、大手の醬油醸造業者は大量生産することで単価を抑えているため、当社のような零細業者は価格では勝負できません。対抗するためには、愛媛県ならではの醬油、例えば地元の魚に合う醬油を作らなければならないと、私(Aさん)は思います。」

(2) 醬油作り

  ア 醬油作りの流れ

 「醬油の仕込みを始めるに当たり、原材料の処理を行います。醬油の原材料は小麦と大豆ですが、小麦は愛媛県醬油味噌協同組合から入手した愛媛県産のものを、大豆は問屋を通して入手した有機栽培の丸大豆や脱脂加工大豆を当社では使っています。脱脂加工大豆は大豆から油分を取り除いたもので、『大豆の搾りかす』とやゆされることがありますが、うま味の元であるタンパク質が濃縮されたものです。そのため、脱脂加工大豆で作った醬油の方が丸大豆で作った醬油よりもうま味が強くなるのではないかと思います。丸大豆で作ると、油分によってほんのりとした優しい味の醬油になり、当社でも有機栽培の原材料で作る醬油は丸大豆を使用しています。全国的に見ても丸大豆から作られる醬油は数%しかありません。
 まず小麦は機械で煎って割砕機で細かくし、大豆をNK缶という機械で蒸します(写真3-2-3参照)。その後、処理した小麦と大豆を1対1の割合で混ぜ合わせますが、当社では小麦と大豆は大体1tずつになり、混ぜ合わせたものに種麴(こうじ)を加えて麴を作ります。麴を食塩水と一緒にタンクに仕込み、時折攪拌(かくはん)して酸素を行き渡らせながら発酵・熟成させるともろ味になります。当社には20kℓのタンクが3本ありますが、一つのタンクが空になると新しい醬油を仕込むというサイクルをとっています。当社にあるタンクは屋外にある20kℓが最大ですが、大手醸造業者は200kℓという大きさのタンクを所有しています(写真3-2-4参照)。
 もろ味を圧搾機で上から圧力を加えて搾ると生揚げ醬油となります。ちなみに日本酒の場合、もろ味を搾る際には薮田式と呼ばれる両側から圧力を加えるタイプの圧搾機が用いられることが多いです。生揚げ醬油をタンクに入れて沈殿物などを分離させた後、加熱殺菌しますが、当社ではさらに膜ろ過機でろ過をします。愛媛県内の醬油醸造業者で膜ろ過機を導入しているのは、私(Aさん)が知る限りでは当社も含めて2社だけで、澄み切った雑味のない醬油ができます。最後にろ過したものを容器に充塡し製品となります。」

  イ 木の樽からFRP製タンクへ

 「私(Aさん)が子どものころ、工場にはもろ味や醬油をためる木の樽(たる)が50本から60本くらいありました。もろ味や醬油がたまっている樽の中に人が落ちた場合、塩分が高いので体が浮くそうです。当社でも、昔、一度だけ樽の中に人が落ちたことがあると聞いたことがあります。
 私が北条に帰ってきたときは、工場では昔ながらの木の樽で醬油を作っていましたが、昭和50年代に、ほぼ全ての木の樽をFRP(繊維強化プラスチック)製のタンクに切り替えました。製造を続けながら徐々に切り替えていったため、全てを切り替え終えて本格的に稼働するまでに2、3年掛かりました。愛媛県内の醬油醸造業者を見ても、昔は木の樽で作っているところばかりでしたが、早くに切り替えた醸造業者はコンクリート製タンクに切り替え、その後、ホーロー製タンクやFRP製タンクにだんだんと切り替わっていきました。
 FRP製タンクの利点は、衛生・品質管理の向上です。木の樽の場合、空気中や樽に含まれる天然の酵母がもろ味を発酵させておいしい醬油ができるのですが、産膜酵母という白いカビのようなものが発生しやすくなります。産膜酵母は人体に悪影響はありませんが、醬油の香りや風味が落ちてしまうため、できるだけ発生を防ぐ必要があります。もろ味を攪拌する作業は、もろ味に酸素を行き渡らせるとともに産膜酵母の発生を防ぐことにもなるのですが、完全に防ぐことは難しくて品質管理が大変です。攪拌の作業は、木の樽では櫂(かい)棒を使う手作業で重労働ですが、FRP製タンクでは機械で空気をタンク内に送り込んで攪拌しています。
 FRP製タンクは蓋で密閉されているため、産膜酵母が発生しにくくなり品質が安定するのですが、もろ味を発酵させるための酵母を添加する必要があります。このように、木の樽とFRP製タンクはそれぞれに利点があり、現在も木の樽で醬油を作っている醸造業者が愛媛県内にもいくつかあります。当社でも有機栽培の原材料を用いた醬油は、昔ながらの木の樽で作っています(写真3-2-5参照)。」

  ウ 醬油の種類

 「醬油は一般的に、濃口醬油と淡口(うすくち)醬油の2種類がよく知られていると、私(Aさん)は思いますが、そのほかにも再仕込み醬油、白醬油、たまり醬油があって5種類あります。現在、全国で製造されている醬油の内訳は、濃口醬油が84%ほど、淡口醬油が13%ほど、再仕込み醬油、白醬油がそれぞれ1%ほどで、たまり醬油はほとんどありません。醬油の種類の違いは製造方法や原材料比の違いなどによります。淡口醬油は濃口醬油に比べ、色が薄くて塩分が高い醬油ですが、当社ではしょっぱさを抑えるためにもろ味に米麴で作った甘酒を加えています。再仕込み醬油は麴と食塩水ではなく、麴と醬油で仕込みます。そのため、味も色も濃くなってすしや刺身などに使われます。なお、スーパーの刺身に付属している、いわゆる刺身醬油は再仕込み醬油ではありません。また、再仕込み醬油は柳井(やない)市(山口県)発祥の醬油で、別名を甘露醬油とも言いますが、『カンロ飴(あめ)』は甘露醬油を隠し味にして開発されたそうです。白醬油とたまり醬油は、麴を作る際の小麦と大豆の割合が濃口醬油と異なっていて、濃口醬油は小麦と大豆の割合がほぼ同じですが、白醬油は小麦、たまり醬油は大豆が大半を占めます。」

 エ 醬油醸造業者数の推移

 「昭和40年代、醬油醸造業者は全国で4,400社ほどでしたが、現在は1,100社ほどと大きく減っています(図表3-2-1参照)。大学の同級生が営んでいた醬油醸造業者も3分の2ほどは廃業しており、数年前に大学の同期会で集まったとき、同級生から『まだ醬油屋を続けているのですか。』と言われました。現在、全国の醬油醸造業者のうち、約8割の業者が醬油を麴から作らずに他社で製造された生揚げ醬油を購入し、味などを調整した醤油を容器に充塡して自社の商品として出荷しています。愛媛県内も60社ほどあったのが40社ほどになっており、最近は年に1、2社が廃業しています。40社ほどある県内の醬油醸造業者のうち、麴から作っているのは私(Aさん)が知る限り5、6社ほどです。また、昔は旧北条市内に醬油醸造業者が多く、戦後から数えて合計9社ほどありましたが、現在は当社を含めて2社だけになりました。」

  オ 味噌作り

 「味噌は米とはだか麦で麴を作り、蒸した大豆と麴を混ぜたものに塩を加えて仕込み、発酵・熟成させます。原材料の大豆、米、はだか麦は愛媛県産のものを使用することに、私(Aさん)はこだわっています。熟成の期間は、気温などの環境や味噌の種類などによって異なりますが、当社では2か月ほど熟成させて出荷しています。味噌は冬に比べると夏に売り上げが3割ほど落ちるため製造を控えめにし、ほかの商品の製造量を増やしています。」

写真3-2-1 現在も使用されている蔵

写真3-2-1 現在も使用されている蔵

松山市 令和4年10月撮影

写真3-2-2 蔵の大黒柱

写真3-2-2 蔵の大黒柱

松山市 令和4年10月撮影

写真3-2-3 割砕機

写真3-2-3 割砕機

松山市 令和4年10月撮影

写真3-2-4 屋外のもろ味タンク

写真3-2-4 屋外のもろ味タンク

松山市 令和4年10月撮影

写真3-2-5 現在も使用している木の樽

写真3-2-5 現在も使用している木の樽

松山市 令和4年10月

図表3-2-1 全国の醤油醸造企業・工場数の推移

図表3-2-1 全国の醤油醸造企業・工場数の推移

『しょうゆ情報センターホームページ 統計資料』から作成