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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 堀江の町並みと人々のくらし

(1) 町並みをたどる

  ア 映画の舞台にもなった町

 「昭和30年代、昭和40年代の堀江の町には商店が立ち並んでいました。そのころは商店が密集していたので、防火区域にもなっており、家を建て替えるときに鉄筋にしたり、防火施設を設けたりすると補助が出ていました。商店街の組合もあって、この通りが堀江の町の中心街で、本町本通りと呼ばれていました(写真1-2-7参照)。
 雰囲気のある町並みが残っていたので、映画の撮影がよく行われていました。『がんばっていきまっしょい』でも私の店の前や駅前での撮影が行われましたし、昭和40年代には渥美清や笠智衆の『喜劇団体列車』の撮影が行われました。『喜劇団体列車』は堀江駅で撮影が行われましたが、本通りの菓子店が昔ながらの作りの建物だったので、そこでも撮影が行われ、私(Dさん)の店から何点か商品を持って行き、それを飾って撮影したことを憶えています。」
 「堀江の商店街は昭和40年代がピークだったのではないかと私(Eさん)は思います。そのころは堀江にもタオル工場がたくさんありました。かすりの製造工場がタオル業者になっていったのです。私もタオル業者の一つで働いていました。ただ、安い外国製のものが増えてきて、昭和50年代にはだんだんと景気が悪くなってきました。そのころ、中国に工場を作る業者もいて、よく『そのうち仕事を取られるぞ。』と言っていましたが、そのようになってしまいました。
 ただ、商店街はその後も元気だったのではないかと思います。新興住宅地で利益が見込めると思ったのでしょう、堀江にもスーパーマーケットが店を出しましたが、思ったようにうまくいかず撤退したようです。地元の人は顔なじみの商店で少しでも買ってあげようかという人ばかりで、よそで買うよりは少し高くても、こちらで買っていたのではないかと思います。」

  イ 本通りの商店

 「昭和40年(1965年)ころの本通りでは多くの店舗があり、酒店も2軒ありました。昭和40年ころは藤浦さんが本通りで酒店をしており、広瀬さんは本通りからもう少し奥に入った浄福寺の近くで、大きな酒店を経営していました(図表1-2-2の㋐参照)。
 今は珍しくなりましたが、そのころにはふすまを張ったり、障子を張ったりする表具店があったことも憶えています。ほかにも精米をやっている店も結構ありました。原食品店ではたばこや米、雑貨などを扱っていました。米が主で、道路を挟んだ向かいの店舗で精米をしていました(図表1-2-2の㋑参照)。
 本通りには銭湯も2軒ありました。忽那温泉と日の出湯です。忽那温泉も、今は新しく建て替わりましたが、しばらく前までは建物に銭湯の面影が残っていました(図表1-2-2の㋒参照)。近くに履物店もありましたが、ここでは履物だけではなく、子ども相手の駄菓子なども扱っていました。
 時計店もありましたが、現在は旧の国道沿いに大きな店舗を構えています。薬局も2軒あったのですが、長尾薬店の隣では家族の人が履物店と食品店をしていました(図表1-2-2の㋓参照)。私(Eさん)も買い物はほとんどこの通りだけで行っていましたが、野菜などは主にこの長尾食品で買っていました。野菜が中心でしたが、いろいろな食品を扱っていました。バス停の前にあった門田商店は何でも屋のような店で、たばこや文房具、それから駄菓子とさまざまな商品を取り扱っていました(図表1-2-2の㋔参照)。」
 「私(Dさん)の家は雑貨を主としていますが、食料品なども売っていました(図表1-2-2の㋕参照)。鮮魚店は昭和30年代にはなかったのではないかと思います。浜で漁師から直接買っていました。漁師は漁が終わると、船で魚を選別し、良いものは三津の市場に降ろして、市場に売らなかったものを持って堀江に戻っていました。それで、船が戻るころになると漁師から魚を買うために浜の方へ行っていたのです。」

  ウ 仁堀航路

 「堀江の町が栄えたのは国鉄仁堀航路があったことも理由の一つではないかと思います。堀江から仁方まで国鉄の船が出ていました。桟橋の前はロータリーになっており、広場がありました。広場には長屋のような集合店舗もあり、青果店や理髪店があったことを憶えています。L字型の桟橋の前には駅舎があり、そこで切符を売っていました。船員さんの宿泊する船舶寮もありました。
 私(Eさん)が大阪で働いていたころは、大阪まで行くのに仁堀航路を利用することがほとんどでした。堀江から仁方まで行って、仁方駅から汽車に乗ると乗り換えしなくても山陽本線で大阪まで行けます。時間も短時間ですし、帰省の際にはどうしても荷物が多くなるので、仁堀航路の方が楽でした。予讃線で、多度津駅まで行って、宇高連絡船に乗り換えてという行き方もしたことがありましたが、そちらの方が乗り換えも多くて大変でした。
 当時は蒸気機関車だったので、トンネルの中に入ったらすすで真っ黒になり、鼻をかんだら、すすが出てくるほどでした。客車の中にいれば良いのですが、若いころなのでデッキにいたりしたのでなおさらでした。山陽本線はトンネルが多くて、長かったことを憶えています。今でこそ速度が速いので長くても5分くらいでトンネルを出ますが、当時は20分くらい掛かるトンネルもありました。面白いのは面白かったですが、20分もトンネルを走ると真っ黒になってしまいます。
 昭和39年(1964年)に開設された堀江と阿賀を結ぶ呉・松山フェリーの乗り場は別の桟橋から出港していました。こちらは平成21年(2009年)まで出ていました。」

  エ 映画館

 「昭和30年代にはなくなっていましたが、えびす神社の道路の向かい側に堀江劇場という映画館がありました(図表1-2-2の㋖参照)。現在では宅地になってしまっています。そこのオーナーに私(Eさん)の弟が大事にしてもらっていました。私も『おいで。』と言われて何回か映画を観せてもらった記憶があります。もう一つ、映画館というか芝居小屋のようなものが米田病院の南側にありました。そこがやめた後、かすり工場になり、現在では宅地になっています。」
 「えびす神社の前に堀江劇場という映画館があり、満州から引き揚げて来た人が経営していました。その人は満州からの引き揚げのときにたくさんお金を持って帰ったそうですが、満州から持って帰ったお金は何の価値もなかったそうです。
 映画が最終の一時間前くらいになると、無料で入れてくれていました。まるごと一本残っていたら、お金を取りますが、終わる途中からだと、入れてくれていたのです。21時ころだと二本目の途中になっていたので入れてくれていました。私(Dさん)はその時間ころになるとよく行っていました。昭和40年(1965年)ころにはもう営業をやめていたと思います。映画館があった昭和30年代ころまでが堀江の商店街も最盛期だったのではないかと思います。」

  オ 郵便局
 
 「今では郵便局が旧の国道沿いに移転してしまっていますが、かつては光明寺という寺院の近くにありました。昔の建物は3階建てで、隣が呉服店だったことを私(Eさん)は憶えています(図表1-2-2の㋗参照)。郵便局と呉服店の前には門屋邸という昔の庄屋の大きな家があります。江戸時代にこの家が私財を投じて堀江新池という松山藩で最大のため池を作ったそうです。現在では家屋が松山市の文化財になっています。」

(2) 90年続く雑貨店の経営

 「私(Dさん)の店は、父の代からなので創業90年くらいです(写真1-2-8参照)。私が生まれる前のことです。三津に明治18年(1855年)創業の村要本店という醬油や酢を作っているところがあります。その醬油店で、私の父が醬油を3本仕入れてそれを売り、その利益で5本仕入れてそれを売って、そしてまた次は10本仕入れてと、そのようにしてこの店は始まりました。今でも、村要本店の商品を仕入れていますから、90年ほど取引をしているということになります。そのように、最初は醬油などを売っていたのを、だんだんと手を広げていって、雑貨や日用品を取り扱うようになりました。
 私は学校を出てからよそで勤めていたのですが、父を手伝いながらここで働くようになりました。この店で小売りもしますが、ほかの店へ商品を卸すようになりました。久万高原町や南予の店にも商品を卸していて、昔は倉庫を多く借りて手広くやっていました。
 久万高原町へは令和になるころまでは行っていました。53年間久万高原町の方へ通っていたことになります。しかし現在では、久万の方でも年を取って店をやめてしまう人が多くなって、店も無くなってしまっています。
 久万に行き始めたのは、三坂峠がまだ砂利道だったころでした。最初のころは中予運送という運送会社が久万まで行っていたので、運送会社に自転車を久万まで送ってもらい、自分自身は国鉄バスで久万まで行っていました。それで見本だけを持って、月に一度くらい40軒くらいの店を回っていました。最後には自転車で、現在は面河ダムがありますが、笠方という集落を回って、黒森峠を越えて川内の方に下りて帰っていました。帰ってくるまでに4泊くらいする必要がありました。それで、回った店では注文を聞いて、集金をします。注文をした商品は大阪から三津へ船で運ばれてきましたので、注文してから届くまでに少なくとも船で一晩は掛かっていました。三津に着いた商品はトラックで運んでもらいました。そのころは林業が盛んだったので、久万辺りから木材を積んだトラックが松山へたくさん運んで来ていました。ところが帰りは空荷で帰るので、荷物を格安で運んでもらうこともありました。トラックはどちらにしても帰らなければならないので安く引き受けてもらえていたのです。ときにはトラックの運転手から、食堂で食事をとっているときに荷物を盗まれたという連絡があり、困ったことがあります。
 自転車で回っていたのは最初のころだけで、すぐに自転車から250ccのホンダドリームになりました。そして足で踏んでエンジンを回す角ハンドルのオート三輪車、丸ハンドルのオート三輪車となって、日産のダットサンになりました。
 昭和41年(1966年)に久谷で全国植樹祭があったころに砂利道が大分舗装されましたが、それまでは砂利道を走っていました。冬にオートバイで行っていたころは滑らないように、後輪に縄を巻いていたことを憶えています。大雪の中を久万の町まで行ったときには、『この辺りの人間でも家から出られないのに、よく松山からオートバイで来たな。』と怒られたこともあります。手がかじかむので、三坂峠から帰るまでの最後の店に立ち寄ったときに、炭を入れていた俵をもらい、それを燃やして手を温めてから帰ることもありました。
 久万高原町周辺の農協は全て回っていました。農協には購買部があったからです。畑野川、直瀬、面河、美川、柳谷、父二峰など上浮穴一円で11軒か12軒農協があったのですが、それを全て回っていました。ほかの小売店も含めると合わせて40軒くらいあったわけです。
 初期のころは提灯が売れていました。山道なので懐中電灯だと前だけしか照らさず危ないですが、提灯は周囲全体が明るくなります。それで売れていたのです。だから、一緒にろうそくもよく売れていました。それからマッチもよく売れていました。かつては大箱マッチというのがあって、それが木箱に200個入っていました。どの小売店でもその木箱の注文がいつもあったことを憶えています。
 そのころは、久万でもかなり人が住んでいたので売れていたのだと思います。麦わら帽子が金額にしてそのころで300円くらいだったと思いますが、久万だけで一夏で30万円くらいの売り上げがあったこともありました。キンチョールなども1箱30本入りのものが100箱くらいは一度に出ていました。
 現在でも古い時代のいろいろな売れ残りが店にかなり残っています(写真1-2-9参照)。荷車を引っ張るための肩掛けなども残っています。そのころはごみを集めるのも荷車だったので、そのためのものです。
 当時は物がよく売れて、商売も面白かったのですが、宿に靴や衣料品などいろいろな物を扱う業者がさまざまな地域から来ており、仕事が終わると一緒に飲んだり、話したりするのも面白かったことを憶えています。物が売れなくなったのは大型店舗ができてからではないでしょうか。多くの人は私が扱っているような雑貨や日用品はホームセンターや100円ショップで買うようになっています。」

(3) 人々のくらし

  ア 戦争の記憶

 「戦争が終わったのは私(Dさん)が小学2年生のときです。そのころは学校に行くときに分団でみんな並んで行っていましたが、艦載機が来たら学校までの川の土手に伏せていました。分団長が伏せよと言ったら、みんなが伏せていたのです。学校では竹やりの訓練をしたことを憶えています。終戦後は銃剣を学校の運動場に埋めたそうです。その後、その上に校舎が建ったりしました。今の鉄筋に建て替えるときに撤去はしたのでしょうが、そのようなことはうっすらと憶えています。
 松山が空襲のときには防空壕(ごう)から出て、焼夷(しょうい)弾が落ちてくるのを橋の上で見ていました。焼夷弾を落とした艦載機がちょうど堀江の上空辺りで旋回していったのを憶えています。」
 「私(Eさん)が小学校1年生のときに戦争が終わったのですが、戦時中には麦畑を通って学校から帰っていました。空襲警報が鳴ったら麦畑に身を低くして伏せて、上から見えないように隠れなさいと言われたことを憶えています。また、学校の近くに松根油という松の木からとった油が貯蔵されていたことを憶えています。これは何に使うのか聞くと、『飛行機を飛ばすための油で、兵隊さんの油よ。』と教えてもらいました。
 昭和20年(1945年)の松山空襲の際は、今の堀江橋のところで焼夷弾が落ちてきているのを見ていました。夜に見た空襲は花火のようで、途中でぱっと開いてきれいに見えました。見ているとB29が頭の上を飛んでいました。かなり低いところを飛んでいたと思います。低いのでよく見えました。『よく撃たれなかったなあ』と今では思います。
 私が子どものころ、堀江の浜によく泳ぎに行ったり、釣りに行ったりしていました。今は堤防ができてしまっていますが、そのころは道が今よりも海よりの位置にあって、道に沿って和気の方まで松林が広がっている、遠浅の砂浜でした。広島に落とされた原子爆弾のきのこ雲が浜の方から見えたという話を聞いたことがあります。
 昭和21年(1946年)になってのことだと思いますが、堀江の町から少し北条方面に行った所に、東栄という場所があります。その場所にアメリカ軍の戦車が上陸したのを見たことがあります。呉の方から来たのか、東栄に上陸して4、5台の戦車が国道を松山方面に向かいました。そのころの道路は舗装していないがたがたの道でした。水陸両用の車両だったのかもしれませんが、鉄の車両が海を渡って上陸していたので驚きました。仁堀航路でアメリカの軍人が渡ってきて、堀江の町を歩いているのを見たこともあります。私は妹と一緒だったのですが、アメリカ軍の兵士が妹の頭をなでて『キモーノ、キモーノ。』と言っていました。そのころは私も妹も子どもだったので、怖かったのですが、着物が珍しかったのだと思います。」

  イ 終戦後の食べ物事情

 「私(Eさん)の家では商売をしていたからか、戦中戦後に食べ物に不自由した記憶はあまりありません。私の家は新宅(分家)で、母屋は農家をしていたことも食べ物に困らなかった理由かもしれません。小さな子どもなのでよく分かっていなかっただけかもしれませんが、食べるものがなくなったら、『母屋に行けばあるからもらって来い。』と言われていました。中学校に上がるくらいまでは、学校から帰ってきたら母から『明日の米がないので、祖父の所に行ってお米をもらって来て。』と言われて、自転車で行って、野菜や米をよくもらって来ていました。そのようにして、どうにか生活ができていたのだと思います。
 私は恵まれていたのだと思いますが、昭和21年(1946年)のころは仁堀航路で農家の人が、米を持って仁方に買い出しに行って、物を買って帰ってくると、降りた所で、警察が検問をしていて、捕まったり、没収されたりしたという話をよく聞きました(写真1-2-10参照)。」
 「戦後は食べ物がなかったので、サツマイモの芋づるまで食べたことを憶えています。私(Dさん)の父の兄弟の家が農家でしたが、食べ物はあまり分けてはもらえませんでした。芋づるでも炊いて食べたらおいしかったことを憶えています。米というのがなかったので、麦ばかりでした。麦と言っても押し麦ではなく、丸麦という収穫したままの麦だったことを憶えています。今なら牛に食べさせるものですが、それでもそれがごちそうでした。
 昭和20年代には呉の方は空襲の影響もあり物がなかったのでしょう、こんにゃく製造をしているところがあったのですが、仁堀航路の連絡船が着くと、売り切れてしまわないよう、みんなが争うように走ってそこに買いに行っていました(図表1-2-2の㋘参照)。またそのころ私の店の近くには、サトウキビから黒砂糖を作る工場があったことを憶えています。」

  ウ 昭和の南海地震

 「終戦のころ私(Eさん)の家は本通りにあり、父はそこで商売をしていました。昭和21年(1946年)の南海地震のときにはそこにいたのですが、そのときはかなり揺れたことを憶えています。家には被害がありませんでしたが、母たち家族は荷車に荷物を積んで、親戚の家に避難しました。私は父と地震泥棒が来たらいけないということで留守番をしていました。父には『家が倒れそうになったら、裏の田んぼに逃げなさい。』と言われたことを憶えています。そのころは町の中にも水田がかなりありました。
 当時、父は終戦後の配給の品物を扱っていたようです。終戦後も衣類や履物などいろいろなものが配給でした。父が扱っていた配給の品物が私の家に届けられていました。私は父に『先生に渡してくれ。』と言われ、配給の切符を持って小学校に行って、先生に渡したことがあります。そうすると、先生が各クラスに分けて、くじ引きしたりして切符を配っていた記憶があります。配給ですので、お金があっても切符がないと買えない、そのような時代でした。今みたいにお金さえあれば何でも買える時代とは違いました。」

  エ 子どものころの思い出

 「日の出湯という銭湯ができる前には、その場所に駄菓子屋があったことを憶えています。2階建ての家でした。私(Eさん)が小さなころに隣に住んでいたので、私もよく行きました。ここのおばさんが私の父に『お子さんが1円を持ってあめ玉を買いに来たけど、かまんのか。』と言ったことがあったことを私は憶えています。経緯はよく憶えていないのですが、商売をしていたので、家には手提げ金庫があって、私がそれを開けてお金を持っていったようです。私が理解していたのかどうか憶えていませんが、1円が値打ちのあった時代のことで、駄菓子屋のおばさんが教育の一環として心配して父のところに話をしてくれたのだと思います。」

  オ 小学校の思い出

 「私(Eさん)は終戦のとき、堀江小学校に通っていましたが、小学校もそのころは木造の校舎でした。学校の正門の向かいにはきれいな池があって、池の真ん中に奉安殿が立っていました。そこには教育勅語や御真影があったそうですが、先生から学校に入る前にそこで手を合わせてから学校に入りなさいと教えられたことを憶えています。
 本町通りから堀江小学校に行く途中に農協があります。私が子どものころは米倉庫があって米がここにいったん集められて、県農協の方に収めていたそうです。その後はミカンなどを扱うようになりました。
私の家は農協の近くにありますが、私が小学生のころはその辺りから小学校まで全て、高いところも低いところも水田で、建物もなかったので私の家から小学校が見えていました。始業の合図に業務員がベルを手で振って鳴らすのですが、その音が家まで聞こえてきたので、音が鳴るのを聞いてから、水田の畦を走っていっても間に合っていました。現在はバイパスができて、建物も多くなり、学校が見えなくなってしまっています。」

  カ 中学校・高校への通学

 「私(Eさん)は内宮中学校に通いましたが、道を通って行ったことがほとんどなくて、よく線路の上を通って行っていました。線路だと直線距離が短いので、道路を通ると遠回りになるのです。そのころは国鉄の便数も少なく、蒸気機関車なのでスピードもゆっくりで危ないと思ったことはありませんでした。
 高校には国鉄で通いました。そのころはまだ蒸気機関車だけでした。ディーゼル機関車が走り出したのは、昭和35年(1960年)ころではなかったかと思います。」


参考文献
・ 芳野勝正『和気の昔語り』1984
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(中予)』1984
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 山野芳幸『伊予和気界隈はええとこぞなもし』株式会社エーシー 2008

図表1-2-2 堀江の町並み

図表1-2-2 堀江の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成

写真1-2-7 現在の本通り

写真1-2-7 現在の本通り

松山市 令和4年8月撮影

写真1-2-8 創業昭和10年の品川商店

写真1-2-8 創業昭和10年の品川商店

松山市 令和4年8月撮影

写真1-2-9 今も残る商品

写真1-2-9 今も残る商品

松山市 令和4年8月撮影

写真1-2-10 仁掘航路跡碑

写真1-2-10 仁掘航路跡碑

松山市 令和4年8月撮影