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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第2節 和気と堀江の町並み

 旧松山(まつやま)市は県中央部に位置し、北は旧北条(ほうじょう)市、今治(いまばり)市、東は東温(とうおん)市、南は上浮穴郡久万高原(くまこうげん)町、伊予郡砥部(とべ)町、松前(まさき)町に接し、西は瀬戸内海に面している。県内最大の平野である松山平野の大部分と北東部の高縄山系西部に当たる地域、南部の四国山地北西部にあたる地域からなる。
 江戸時代より松山藩の城下町として栄え、明治22年(1889年)に市制、町村制が施行されると、県下最初の市である松山市を始めとする1市2町26か村が成立した。2町26か村は順次松山市に編入されて行き、最終的に昭和43年(1968年)に久谷村が編入され、旧松山市の市域が確立した。
 本節で取り上げる和気地区、堀江地区は旧松山市の北部に位置し、斎灘に属する堀江湾に面する。和気地区では、町村制施行により和気浜、大山寺、馬木の3村が合併し和(わ)気(け)村が成立した。その後昭和15年(1940年)に松山市に編入された。四国霊場八十八か所のうち、第52番札所太山寺、第53番札所円明寺が地区内にあり、遍路の往来が盛んであった。昭和2年(1927年)に国鉄予讃線が松山まで延伸された際、当初の計画では堀江から直接松山に達する予定であったが、住民の要求により三津浜を通ることとなった。また和気地区は堀江駅から近く、駅は設置されないこととなっていたが、和気駅実現運動の結果、駅が設置されることとなったという。昭和30年代以降、松山中心部ではドーナツ化現象が進行するが、和気地区では特に昭和40年代に人口が急増した。和気地区ではこの時期に市営太山寺団地(534戸)、三光団地(458戸)が建設されたこともその要因となった。昭和40年代には工場の郊外移転も見られ、昭和44年(1969年)に井関農機が松山市湊町から和気に移転している。ほかにも和気地区の地場産業として伊予かすりが盛んであり、昭和32年(1957年)には、松山市の業者134軒のうち、和気地区49軒、堀江地区10軒と、もともと伊予かすりが誕生した垣生地区よりも業者の数が多くなっている。
 堀江地区は交通の要衝として発展した。昭和2年には国鉄堀江駅が開設され、昭和21年(1946年)には仁方駅(広島県呉(くれ)市)と予讃本線堀江駅間を連絡する国鉄連絡航路「仁堀航路」が開設され、1日2往復運航された。昭和40年(1965年)にはフェリーとなり自動車航送を開始したが、民間フェリーとの競合の中で利用客は減少し、昭和57年(1982年)に廃止された。36年間で乗客237万人、自動車11万台を航送した。昭和39年(1964年)からは呉・松山フェリーが1日6往復運航していたが、平成21年(2009年)に航路が廃止された。また、堀江地区には小型ボイラーで高いシェアを持つ三浦工業が本社を置いている。
 本節では、昭和30年代、昭和40年代を中心とする和気地区と堀江地区の町並みの様子や、地域でのくらしについて、和気地区について、Aさん(昭和17年生まれ)、Bさん(昭和22年生まれ)、Cさん(昭和26年生まれ)から、堀江地区について、Dさん(昭和12年生まれ)、Eさん(昭和14年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。