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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業23ー松山市①ー(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 和気の町並みと人々のくらし

(1) 町並みをたどる

  ア お遍路さんの行き交う町

 「和気という町の特徴はお遍路さんが行き交う町ということだと私(Cさん)は思います。四国八十八か所の札所のうち、52番が太山寺で53番が円明寺です。また、札所を回る人だけではありません、円明寺の門の西には『左宮嶋道、是より船場へ五町』ということが書かれた道標がありますが、これは和気2丁目の港を指しており、そこには渡海船が出る船着き場がありました(写真1-2-1参照)。昭和の初期まで、和気の人たちはそこから宮島(広島県)に行ったり、金刀比羅さん(香川県)に行ったりしていたそうです。私たちが子どものころにはまだ大三島に向っていた船も出ていました。そこには石段が残っていたのですが、現在はコンクリートで埋め立てられてしまいました。
 私が子どものころには托鉢(たくはつ)に来るお遍路さんが多かったことも記憶にあります。お遍路さんが托鉢に来たら、両親は農業で昼には家にいないので、祖母から『托鉢に来るお遍路さんは、家族のことを拝んでくれるのだから、弘法大師だと思ってお接待しなさい。』と言われて、10円をあげるか、米1合を茶碗に入れてあげたことを憶えています。
 また、太山寺では、8月9日に『四万六千日』という大きな祭りが行われていました(写真1-2-2参照)。この日に参拝すると、4万6千日お参りしたのと同じ御利益があるという祭りです。かつては『椿まつり』に匹敵するような大きな祭りで、多くの人がやって来て、参道を歩いていると、人と肩が当たるような人混みだったことを憶えています。」
 「『四万六千日』の日には、太山寺の参道に露店がずらりと並んでいました。50軒か60軒はあったのではないでしょうか。そのため、その日のためにあらかじめ露天商が集まって場所を決めていたそうです。ただ、ここ数年は人出が激減しました。いつもの日と変わらないくらいになったのではないでしょうか。
 私(Aさん)は毎日参道を散歩しているのですが、お寺参りも現在は県外の人が多いようです。駐車場の車は6割以上が県外ナンバーの車なのではないかと思います。」
 「『四万六千日』は本当にすごかったです。私(Bさん)たちが子どものころは臨時バスが出ていました。内宮から和気経由で、太山寺までのものと、三津から太山寺までのものがありました。10分おきくらいにバスが出ていたことを憶えています。
 円明寺でも縁日である9月18日には護摩講が開かれ多くの人が参拝していました。現在では9月18日ではなく、9月の第3日曜日に行うようになっています。護摩講は寺で護摩を焚(た)く日なのですが、かつては境内に舞台を作って、浄瑠璃や伊予万歳などの演芸をしていました。そのため、それを見物するために近所の人がむしろを敷いて場所取りをするくらい人が集まっていました。私が若いころには青年団でバザーを開いたりもしていました。新型コロナウイルス感染症の影響もあったので、現在は催し物をしていません。」

  イ 和気の産業

 「私(Cさん)が子どものころ、和気では農業や漁業も盛んだったのですが、地場産業としてかすりがありました。大正時代に生まれた女性は家でかすりを織っていたそうですが、その後の和気にはかすりの工場が増えました。かすりの工場のことを機(はた)屋(や)と言っていましたが、多くの工場がありました。昭和40年代の後半になるとほとんど機屋はなくなり、一部がタオル工場になりました。そのタオル工場も今では1軒残っているだけになってしまいました。
 機屋だけでなく、私たちが絞り屋と言っていた糸を染める業者もたくさんありました。かすりを織るための木綿の糸を染めるのですが、かすりの特徴である白い柄を出すために絞ります。計算して絞ることで、染める所と染めない所を作り、柄を出します。染めた糸を道路のそばで干していたことを憶えています。女性が主ですが、機織りをする多くの人が行き交って町がにぎわっていました。」
 「もともと和気には伊予かすりの工場がたくさんありました。機屋はよく道端で、染めた糸を束ねたものを100mくらい伸ばして、糸巻に巻いていたことを憶えています。私(Bさん)が子どものころには人手が足りないときに、子どもが小遣いをもらって糸を巻く手伝いをしていたことを憶えています。
 また、週に一日、火曜日だったか、木曜日だったかは憶えていませんが、動力休みの日がありました。その日はどの機屋も操業が停止します。私の家は円明寺の近くで、近所に機屋がたくさんあり、ふだんはうるさかったのですが、動力休みの日は静かでした。和気地区の機屋には旧北条市の方から、女性がたくさん働きに来ていて、和気駅は人がたくさん乗降していました。」

  ウ 何でもある町

   (ア) 町のにぎわい

 「私(Bさん)が国鉄で学校に通っていたころ、和気駅を降りてから円明寺の近くまで、飲食店や小売店などの店舗がずっと続いていました。現在は商売をしているところはほとんどなくなりましたが、さまざまな店が大体2軒ずつありました。豆腐店も2軒、履物店も2軒、そして個人病院も2軒、電器店も2軒、理髪店も2軒という具合です。」
 「いろいろな店が2軒ずつあるすごい町でした。現在の和気地区は4,200戸くらいですが、昭和40年(1965年)ころは1,500戸くらいでした。1,500戸の人が生活を行うために、十分な店舗があったのです。和気地区の住人は国鉄を使って、松山の中心部に行く必要はありませんでした。和気1丁目の商店街で全てが間に合って、何もかもがありました。門前町だというのも大きいのだと思います。お遍路さんが歩いて回っていた時代はどうしても町に滞在する必要がありました。車が普及してから社会や町の様子が大きく変わったのではないかと私(Cさん)は思います。どうしても大型店に行くようになり、地元の商店街が衰退してきました。」

   (イ) 衣料品店

 「洋品店はほかの店舗よりも多く4軒ありました。カネヨシ商会と田尻衣料店と岩間洋品店と田村洋装店です。一番古くからあったのが田村洋装店でした。それから、呉服店も1軒ありました。呉服店では呉服だけではなく、下着類も売っていました。
 えびす屋では仕立てを行っていました。衣料品も売っていましたが、ここでは少し高級なものを扱っていたことを憶えています(図表1-2-1の㋐参照)。仕立てを行っていた店は円明寺の近くにもう1軒あり、私(Bさん)の父は背広をこちらで仕立ててもらっていたことを憶えています。」
 「えびす屋では夫婦で仕立てを行っていて、おじさんが背広を仕立てていました。いろいろなものが、和気で全てがそろっていたのです。私(Cさん)も入学式のスーツをえびす屋で仕立ててもらいました。学校の制服や体操服を扱っていたのが、田尻衣料店と岩間洋品店でした。大体皆が田尻派と岩間派とに分かれて買っていたようです。だから、多くの店が二つずつだったのかもしれません。また、田村洋装店では布地を1mとか2mという単位で売っていたことを憶えています(図表1-2-1の㋑参照)。中学校の家庭科でワンピースを作ったりするときには、そこで買っていました。」

   (ウ) 豆腐店

 「青果店は2軒あり、豆腐店も2軒ありました。私(Cさん)の家では円明寺の近くにあった豆腐店でよく買い物をしていました。私が小学生のころの夏休みには、ラジオ体操をしている間に、母が自転車で約10分の所にあるその店に豆腐とおからを買いに行ってくれていました(図表1-2-1の㋒参照)。豆腐は作りたてを、水につける前に食べるのがおいしいのです。それを朝食に食べさせてくれていたことを憶えています。」
 「私(Bさん)の家は農業もしていたので、子どものときは近所の豆腐店に大豆を持って行って、それを豆腐にしてもらっていました。材料代は必要ありませんが、加工賃というものを別に払っていたことを憶えています。」

   (エ) パン店

 「木村屋というパン店ではパン以外にも、蒸しパンを作ったり、虎巻を作ったりしていました。虎巻はあんをカステラ生地で巻いたタルトのような外側がトラの模様の菓子です。今は虎巻を万国堂も作っていますが、万国堂はもともとアイスキャンデーや薄皮まんじゅうを作っていました(図表1-2-1の㋓参照)。万国堂の薄皮まんじゅうは和気の名物になっています。万国堂でも伊予鉄のバス路線の切符を販売していましたが、私(Cさん)は銀行の前のたばこ店で購入していました。どちらも、店の前が停留所になっていたのです(写真1-2-3参照)。」
 「町から少し離れた所にもマルタマ米穀店がありました(図表1-2-1の㋔参照)。ここでは主に米を扱っていたのですが、パンも焼いていたのです。私(Bさん)が子どものころは田植えの農繁期になると、多くの農家がパンの注文をしていました。昼食の準備をする時間がなかなか取れないので、昼食としてパンを食べていたのです。」

   (オ) 鮮魚店

 「昭和40年(1965年)ころには、日用品や生活用品を扱っていた雑貨店も2軒ありましたし、鮮魚店も2軒ありました。酒店も2軒ありましたし、仕出し屋があったことも憶えています。2軒あるうちの1軒の鮮魚店の店主は、もともとは軽トラックで売りに来ていましたが、この角地の店舗が空いたので、そこに店を出しました(図表1-2-1の㋕参照)。魚を買う人が多かったので、商売になったのだと思います。
 魚といえば、和気2丁目は漁師が多かったのですが、漁師の家族のおばさんが、手押し車を押して売りに来ていたことを憶えています。漁師はとった魚を三津の市場に降ろした後、売るための魚を用意してから和気1丁目に持って来ていました。そして、円明寺の前でさばいて、各家に売りに回っていたようです。大体得意先は決まっていたようで、私(Bさん)の家にはいつも同じおばさんが売りに来ていたことを憶えています。9時ころに売り終えると帰って行きました。ときには魚の代金として米を渡すこともあり、物々交換をしていたときもあったようです。」
 「和気では、農業をしている人が多く、魚は買うものだったので魚の行商のような商売が成り立っていたのではないかと思います。ブロックのくじら肉が売られていたころでした。私(Cさん)の家は漁師町の近くにありましたが、農業をしていたので、漁師が押し車で魚を売りに来ていました。あまり食べられない魚ですが、カラコギ(ハオコゼ)という魚のことを私は憶えています。海に入ると足を刺すような、とげのある小さな魚です。それを漁師が1貫(約4kg)くらい売りに来ることもありました。それを七輪で焼いて、砂糖と酢と醬(しょう)油(ゆ)で煮て、つくだ煮みたいにして食べていました。ほかの地域だったら捨てられるような魚ですが、ほろ苦くておいしかったことを憶えています。夏休みなどは七輪で魚を焼く手伝いをよくさせられていました。」

   (カ) 秋祭りのために

 「和気の町には秋祭りのための行燈(あんどん)や提灯(ちょうちん)を作ったり、修繕したりしていた店がありました(図表1-2-1の㋖参照)。いつもは個人タクシーを営業していましたが、秋祭りに備えて仕事を請け負っていたのではないかと私(Bさん)は思います。この店は提灯の張替えが主な仕事だったようです。和気地区の秋祭りのときは、家の前に御神燈(ごしんとう)を出します(写真1-2-4参照)。新しく住み始めた人の家では出さない家も増えましたが、古くからある大体の家には御神燈があります。秋祭りは10月の5日から8日にかけて行われますが、御神燈は5日の日に出します。5日が宵祭りで神様をお迎えするために明かりをつけるのです。」
 「提灯店は提灯を夏ころから注文を受けて、作っていました。毎年使うと、傷むことがあるので、修繕もしていました。提灯は10月5日に出して、提灯行列の子どもが1軒ずつ回ってくる際の案内にもなっていました。提灯店は太山寺町にも2軒ありました。提灯には家紋を必ず入れます。現在では太山寺町の1軒だけが営業をしているので、和気地区の人はほとんどの人がそこに持って行っていると私(Cさん)は思います。
 しかし、以前は和気で何もかも準備することができました。呉服店もありました。秋祭りのときには若者が白のかすりを着るので、呉服店が必要だったのです。また、私のころまでは祭りの宮出しの日である10月7日には必ず振袖を着ていたことを憶えています。そのころはレンタルもありませんし、親の着物を着ていた人もいなかったのではないかと思います。」
 「白がすりは、模様が各地域で違います。和気には和気の模様があるのです。そのため和気地区に呉服店がなくなってからは、着物の入手に苦労するようになっています。私(Aさん)が聞いた話では、和気に店がなくなってからは堀江で購入するようになり、堀江の呉服店がなくなってからは問屋町で買うようになったようです。なかなか手に入りにくくなってしまいました。」
 「かすりといっても、神輿(みこし)をかく人は久留米がすりと大体は決まっていたようです。伊予かすりはあまり着られていませんでした。伊予かすりは目が詰まっていないので、どちらかと言えば日用品という扱いで、ハレの日には久留米がすりが選ばれました。
 伊予かすりはバイヤーが自転車で売り回っていたことを私(Bさん)は憶えています。バイヤーは卸店から購入した伊予かすりの反物を自転車に積んで方々へ売りに行っていました。」

   (キ) 製材所

 「西口木材は製材所で、この場所で木をひいていました(図表1-2-1の㋗参照)。そのころは、羽振りが良かったのでしょう。昭和28年(1953年)ころに大相撲の高砂一門が和気小学校に巡業に来たときに、勧進元だったそうです。東富士などの横綱や大関も来ていたことを私(Bさん)は憶えています。東富士は西口木材に宿泊して、風呂にも入ったそうです。ほかの力士も当時の有志の家に分かれて泊まったのだと思います。」
 「私(Aさん)も巡業のことが記憶にあります。太山寺町には松登という大きな体の力士が泊まりました。旅館がないので、和気の各地域に泊まったのだと思います。」

   (ク) 貸本

 「私(Aさん)は公民館の中に貸本屋があったことを憶えています。内宮中学校に通っていたころ、太山寺町への帰り道で借りて帰ったことを憶えています。小学生のころは和気へ来ることはあまりありませんでした。農家であるため、ほとんど自給自足だったので太山寺町から外に出ることはあまりなく、買い物が必要なときには、少し遠いですが三津の町に行っていました。三津の町へは歩いて行ったことを憶えています。和気に来るのは医者にかかるときでした。だから私自身は和気の商店街とはあまりつながりがありませんでした。映画も三津の町に観に行っていたことを憶えています。」
 「貸本屋が公民館の中にありました。公民館の管理をする代わりに一部を店舗として借りていたそうです。私(Bさん)も漫画本などを借りたことを憶えています。」

  エ 和気座の思い出

 「昭和40年(1965年)にはなくなっていたと思いますが、昭和30年代以前には郵便局と履物店の間の道を入っていった所に和気座という映画館がありました(図表1-2-1の㋘参照)。映画館というよりも、芝居小屋と言った方が良いかもしれません。座席は升席になっており、家族や親戚と一緒に座布団を持って行き、席に座りました。『私のところはここ。』と座席取りをしたことを私(Cさん)は憶えています。早く行かないと良い席が取れなかったのです。前の方でも、後ろの方でも金額は同じだったと思います。私が子どものころよりも前は、和気地区の人のほとんどが農家でしたので、一日中農作業をして、たまに役者がやって来て芝居を観ることは何よりの楽しみだったのではないかと思います。私が子どものころは映画が中心になっており、私は宇津井健主演の『スーパーマン』という作品を観たことを憶えています。映画館はいつも人で一杯でした。和気は住みやすいところで、余裕のある生活をしている人が多かったのではないかと思います。
 私の母から聞いた話ですが、母が子どものころには長谷川一夫や山田五十鈴、田中絹代といった人が来たこともあるそうです。
 芝居がある日は、チンドン屋が太鼓をたたいて、今夜は何という芝居があると言って和気中を回っていました。それを母たちは『げだいぶれ』と言っていました。その声を聞くと、学校から早く帰らないといけないと思ったそうです。」

  オ 四国電力松山発電所

 「四国電力の松山発電所が建設されていたころには、工事関係者が来ていたので、鳴門荘という旅館に、たくさんの人が泊まっていたことを憶えています(図表1-2-1の㋙参照)。そのころ大きな工事は、四国電力松山発電所の建設工事しかありませんでした。
 発電所が建設された場所は私(Bさん)が小学生のころには松林がありました(写真1-2-5参照)。青年団の人にその場所にキャンプに連れて行ってもらった記憶があります。
 発電所ができてからは、煙突の高さが40m以上あったそうですが、釣りが好きな人は、山立てといって、釣りのポイントを決めるために発電所の煙突と、東の方の山にある鉄塔などを基準にしていたという話を聞いたことがあります。」
 「四国電力松山発電所ができたのは昭和33年(1958年)ですが、工事を行っていたころは勝岡町の方では飯場が立ち並んでいました。それでも、宿泊所が足らなかったので、近所の家に宿泊していたようです。私(Cさん)の家でも、10人くらいの人が泊まっていました。出稼ぎに来ていたのでしょう、東北地方から来ていた人もいました。家には離れがあったので、そこに寝泊まりをして、朝食を食べてから仕事に行っていました。昼は私の父が弁当を持って行っていたことを憶えています。夜帰ってくると母が沸かした五右衛門風呂に入っていました。そのように、和気の町は発電所の建設で潤っていたことがあったようです。」

(2) 人びとのくらし

  ア 災害から身を守る

 「昔と比べると水害の対策で和気の海岸も随分変わりました。和気は水害の多い所だったのですが、松山市が10年くらい前に防波堤も高くして、和気浜も整備してくれました。
 私(Cさん)の家は久万川の近くにあるのですが、昭和26年(1951年)の6月に母が私を抱いていると、どーんという音がしたので様子を見てみると、家の土塀が高波で壊されて、それから1週間は私の家の近所まで潮が満ちたり引いたりしていたことがあったそうです。そのとき家には牛がいたのですが、牛は身の危険を感じたのか、逃げていて親戚の家につないでもらっていたそうです。牛はどこの家の敷地が高いのかすぐ分かるのでしょう。土塀が崩れたときは高潮と長雨が重なり、川の堤防が崩れたのだそうです。そのときは消防団の人が土のうを5,000個積んだのだそうですが、その手伝いをしてくれた人の中には円明寺の和尚さんもいたということを聞きました。母が通った女学校の先生だったそうで、『和尚さんまで来て、土のうを積んでくれた。』と母は言っていました。私の母から聞いた話ですが、この話は伝えなければならないと思い、公民館で紙芝居も作りました。
 当時の消防団の人に聞くと、久万川は年に何度も決壊していたそうです。現在は久万川の堤防は高くしてくれているので、ほぼないと思いますが、和気2丁目へは太山寺川、そして久万川、大川と多くの川が流れてきます。また、現在は高潮を防ぐために、3つの川に水門が作られています。それだけ水害が起こる危険がある所なので、備えが必要なのです。
 平成20年(2008年)に対策工事が完成したことをきっかけに公民館が主催して和気浜で大声大会を始めました。今年(令和4年〔2022年〕)で15回目になります。また、自主防災組織がなかったので、行政がこれだけのことをしてくれるのだから、地域も努力をしないといけないと自主防災組織を作ってもらいました。」

  イ 子どものころの思い出

   (ア) 子どものころの遊び

 「現在は公園が多くありますから、公園で遊ぶことが多いと思いますが、私(Bさん)が子どものころは円明寺の境内が遊び場の中心地でした(写真1-2-6参照)。和気1丁目では『朝起き会』というものがあります。秋祭りを終えると、子どもの中の『大将』が中学3年生から中学2年生に交代し、それから元日に勝岡神社に初詣でをするまでの間、毎週日曜日の早朝に20人くらいが円明寺に集合し、境内の清掃をするのです。そして清掃を済ませた後は、お寺の周辺を回るリレーや東のクスノキ、西のイチョウの木を陣地とした陣取りをして遊んでいました。ほかにも『十歩八歩』、『8けん』といった遊びをしていました。十歩八歩は、まず鬼を決めたあと、鬼以外の人が鬼に捕まらないように10歩逃げます。それで、鬼が8歩追いかける遊びです。普通は届きませんが、大きい人や足の長い人であれば追いつきます。8けんというのは、8の字を地面に書いて、出口を両方に作ります。そしてその中で、けんけんで追いかけっこをする遊びです。それから、『れいしかなんぼん』という遊びのことも憶えています。壁際に一人立っていて、その子の足の間に首を突っ込んで馬になります。その馬にほかの人が飛び乗って、『れいしかなんぼん』と言って指を立て、下の馬の人がその本数を当てるという遊びです。当てると上の人は降ります。当たらなければ別の人が追加で飛び乗りますが、壁際に立っている人がこっそり合図を送ったりして遊んでいました。丹生神社の社殿に上がり、『いっせんベース』という庭球を使って手で打つ野球のような遊びなどもしていたことを憶えています。円明寺で硬いボールを使うときは建物を傷めると大変ですから、住職に見付からないように遊んでいました。こうした『朝起き会』などで行った集団での遊びが上下関係や友人関係のつながりを作り、大変印象深く残っています。」
 「私(Aさん)たちは『馬とび』という名前で、馬になった子どもを何人飛び越えられるかという遊びをよくしており、飛ぶことのできる長さを競い合っていました。今考えるとよくけがをしなかったなと思います。上に飛び上がって、馬になった人に何人乗れるかというようなこともしていました。和気でもそれぞれの地域で遊びが少しずつ違うので、それぞれ自分たちで考えながら遊んでいたのだと思います。ほかにもビー玉やパッチン(メンコ)で遊んでいたことを憶えています。和気の町は子どもの数も多かったのでしょうが、太山寺町は少なかったので、学校に集団で行くときにもみんなで遊んでいました。帰ったら、何人かがグループを作って遊びます。グループにはリーダーがいたので、リーダーの指示で遊んでいました。私たちはよく山へ行って、イタドリを採ったり、高い所から飛び降りたり、そのようなことをして遊んでいました。私たちの小学校には宿題が一切なかったと思います。そのため、家に帰ってから教科書を見た記憶はありません。」

   (イ) 海で遊んだ思い出

 「夏は海水浴によく行っていました。かまぼこ板で作った命札を付けて行ったことを私(Cさん)は憶えています。泳ぐ時間は決まっていて、昼の1時から4時までです。朝のラジオ体操のときに友人と海に行く約束をして、宿題をしないと怒られるので、午前中は宿題をして、そして昼食を食べてから泳ぎに行きました。
 その時間は各家庭の親が当番で監視員をしていました。貸しボート屋が2軒くらいあったことを憶えています。1時から4時までずっと泳いでいるわけではないので、泳ぎに行くときは必ずバケツを持って行ってアサリをとっていました。そして帰ってから風呂を焚いたあとの消し炭で、七輪に網を置いてアサリを焼いて、蓋が空いたら醬油を差して食べていました。和気浜は何でもある海でした。」
 「昔はプールがなかったので、私(Bさん)も友人5、6人で、和気浜へ毎日のように行っていました。防風林の松の木の下で着替えをしていましたが、夕方はよく夕立に降られ、服がぬれていたので上半身裸のままで帰っていました。」
 「私(Aさん)の地域は海までの道が遠かったので、ため池でよく泳いでいました。当時は水が透明できれいでした。監視の人はおらず、子どもだけで泳いでいました。」

   (ウ) 紙芝居

 「私(Cさん)が子どものころには紙芝居屋さんが来ていたことを憶えています。いくらだったか憶えていませんが、水あめをもらっていました。その後、きな粉と砂糖をまぶしたわらび餅になっていたと思います。自転車で来て、和気2丁目では集会所の前でやってくれていました。読むのが上手だったことを憶えています。」
 「紙芝居は私(Bさん)の子どものころは景品の値段が5円だったと思います。円明寺の境内で演じてくれていました。」

   (エ) 太山寺町の商店

 「私(Aさん)が子どものころは、太山寺町には商店が1軒だけありました。雑貨店でさまざまなものを売っていました。魚は行商の人がリヤカーで運んできていました。私が子どものころ、和気の商店街には一度も来たことがありません。
 太山寺の商店では物々交換もしていました。麦を1升(約1.8ℓ)くらい持って行って、パンに換えたり、駄菓子に換えたりしていました。家では大きな缶に麦を入れていたのですが、親がいないときにこっそりと麦を取って、駄菓子に換えて食べたこともあります。」

   (オ) 食べ物の思い出

 「私(Bさん)が小さいときの話ですが、田植え前になると、もみの選別のために、もみを塩水につけます。浮いたものは取り除いて、沈んだもみを使ってもみまきをするのですが、もみまきをして残ったもみを炒って焼き米にしたものをよく食べていたことを憶えています。焼き米は精米に出すのですが、焼き目がついており、それをポケット一杯に入れておやつ代わりにしていました。海水浴に行くときには袋に入れて、持っていっていました。塩味がついておいしかったことを憶えています。」

  ウ 芸能の伝承

 「和気地区には郷土の芸能として『伊予万歳』が伝わっています。昔は三味線が得意な人なども多くおり、伊予万歳も盛んに演じられていました。しかし、今は和気地区ではもう、私(Cさん)たちが公民館でしているだけになっています。
 近年では私たちがみなら特別支援学校城北分校の生徒に指導していますが、平成29年(2017年)の国民体育大会のときには前夜祭で、彼らが県民文化会館で今の天皇陛下の前で踊ってくれました。そのとき、和気公民館の館長に指導を受けましたと話してくれました。子どもたちは陛下からお言葉を直接いただきましたが、良い経験になったのではないかと思います。」

図表1-2-1 昭和40年ころの和気1丁目の町並み

図表1-2-1 昭和40年ころの和気1丁目の町並み

調査協力者からの聞き取りにより作成

写真1-2-1 道標

写真1-2-1 道標

松山市 令和4年11月撮影

写真1-2-2 太山寺

写真1-2-2 太山寺

松山市 令和4年8月撮影

写真1-2-3 和気駅前バス停

写真1-2-3 和気駅前バス停

松山市 令和4年11月撮影

写真1-2-4 秋祭りの御神燈

写真1-2-4 秋祭りの御神燈

松山市 令和4年10月撮影

写真1-2-5 松山発電所跡地

写真1-2-5 松山発電所跡地

松山市 令和4年11月撮影

写真1-2-6 円明寺境内

写真1-2-6 円明寺境内

松山市 令和4年11月撮影