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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 大島の漁業

(1) 瀬戸内海での漁業

  ア 旧宮窪町で漁業に関わる

   (ア) 漁師になる

 「私(Eさん)の父は、一本釣りの漁師でした。私も高校卒業後に漁師になったので、漁師歴は約40年になります。現在は、愛媛県漁業協同組合宮窪支所の運営委員長を務めており、今年(令和4年〔2022年〕)で3年になります。
 私たちは、漁師になることしか頭になかった、そのような世代です。中学校を卒業してから、すぐ漁師になろうと思っていましたが、友人から『高校へ行こうや。』と誘われたので高校に進学しました。しかし、中学校を卒業してすぐ漁師になった人は、早速15万円の給料をもらっていました。高校2年生のころになると焦ってきて、『家1軒分くらいの収入額、もうリードされとる』と思っていました。それで、高校を卒業したら、漁に関わることは、何でも覚えていかないといけない、そんな思いで必死になって漁の勉強をしました。」
 「私(Dさん)も、この浜地区で生まれ育ちました。私の父も兄も漁師でしたから、私も中学校を卒業したら当然漁師になるものだと思っていました。ですが、高校に進学して卒業後は宮窪町役場に就職しました。当時、役場に入ったころ給料が月5万円だったのに対し、中学校を卒業して漁師になった人の月収が倍くらいだったと思います。それだけ漁師の収入は良かったのです。昭和40年代から50年代の初めにかけては、そのような環境でした。ところが私が高校を卒業するとき、長男である私の兄が『漁師をするな。』と言ったのです。兄は将来を見通していたのか、今(昭和50年前後)は漁師の方が良くても、この先は役場に入っていた方が良いと考えていたようです。ですが、当時は漁師になることが一般的な考えで、兄の考えは珍しかったと思います。そのころはまだ漁獲量も収入もありました。しかし、その後だんだんと減っていったため、漁師になる人も少なくなっていきました。」

   (イ) 漁業を支える

 「私(Fさん)は職員として漁協に入りましたので、漁には出ていません。父は漁師でしたが、途中で漁師を辞めて商売を始めました。そのため、漁師の景気が良かったころについては実感がありません。
 漁協では、漁具や燃料の管理、販売を行ったり、漁師の福利厚生を取り扱ったりして漁師を支えています。また、漁に関わる情報を漁師に周知する仕事も行っています。ほかにも今治市の支援を受けながら『能島水軍』の営業にも携わっています。『能島水軍』は村上海賊ミュージアムに隣接する施設で、レストランや物産館の経営、潮流体験船の運営を行っています。」

  イ 漁業の姿

   (ア) とれる魚

 「この地域では、そのときどきで旬の魚をとる人もいれば、年間を通じて同じ魚をとって生計を立てている人もいます。とる魚の種類によって船を替える人もいます。一人で何隻も船を持っている人もいます。毎年行う稚魚の放流や、道具が良くなったことが影響しているのか、タイは一年中とれます。私(Eさん)が若いころは、冬場にタイがとれることは珍しいことでした。水温も関係しているのかもしれません。
 タコ漁も盛んに行われています。タコはタコつぼやタコ籠を使ってとりますが、アナゴや、ときどきほかの魚も入っています。タコがよくとれるのは、春先から夏の終わりとなります。10月くらいまではタコ籠の方がよくとれます。10月を過ぎるとタコつぼの方がよくとれるようになるのです。つぼや籠は海に沈めてから毎日引き上げる人もいれば、3日くらい空けて引き上げる人もいて、それぞれです。」

   (イ) 大島周辺の潮の流れ

 「宮窪沖の潮の流れの速さですが、この辺りは川のように流れが速いと私(Fさん)は思います(写真2-1-2参照)。大潮(干潮と満潮の差が最大になる)のときは特に速くなり、あっという間に船が流されてしまいます。現在、『能島水軍』で潮流体験船を出して、観光客に潮の流れを体感してもらっており、乗船中はガイドによる解説もあって、とても良いと評判になっています。」
 「この辺りでは船を接岸するとき、潮の流れをよく頭に入れて操船しないと、なかなか岸に着くことができません。県外から私(Eさん)の友人の漁師が来て潮の流れを見たときに、『すごいねえ、これ。』と言いました。漁をしているときは、潮の流れや速さを読んで網を入れ、そして巻き上げていかないといけません。事前に、満潮と干潮の時間を調べて出漁します。調べた時間は正確ですし、これまでの経験もありますので、潮の流れを間違えることはありません。潮の流れが速いので、魚がよく運動をしており、味の良い魚がとれます。」

  ウ 潜水漁の思い出

   (ア) 冬の風物詩・セトガイ漁

 「私(Eさん)が子どものころは、親戚がセトガイをとりに行くと、袋を一杯にして帰ってきていました。今治市寄りの来島海峡に入漁して潜水漁でセトガイをとっていましたが、昼食を取る間もないくらい、たくさんとれていたそうです。
セトガイは冬場が漁のシーズンでした。大体11月から2月くらいまでです。正月前の時期はよく売れていたので、セトガイ小屋(作業場)で貝の身をとる女性たちが遅くまで、むき身をナイロン袋に詰めていました。松山や今治からトラックが取りに来て、出荷していました。セトガイは東京や大阪の人は好まなかったので、タイラギガイやミルクガイ(ミルクイ、ミルガイ)を飛行機便で送っていました。
 冬季はあまり魚がとれなかったのでセトガイ漁が中心になっていて、私の父も船頭としてセトガイ漁を手伝い、春になると一本釣り漁に出ていました。昭和30年代末から昭和40年代にかけて船頭をしていた父は、月に40万円くらい稼いでいました。当時としては相当な金額です。セトガイ漁は私が高校を卒業するころは、まだ盛んに行われていました。」
 「私(Fさん)が小学生のころは、家の前にセトガイ小屋が建っていました。中学生のころには小屋がなくなっており、昭和の終わりぐらいまでセトガイ漁は盛んに行われていたのだと思います。」

   (イ) 潜水漁の様子

 「私(Eさん)はセトガイ漁を手伝うアルバイトをしていました。昔、潜水士は宇宙服のような潜水服を着て、水深30mから40mの場所でとっていましたから、もう命懸けの漁でした。かますに貝を入れていましたが、ミカン箱2個から2個半くらいの容量があります。私はかますを運んでいましたが、貝で一杯になると、とても重たかったことを憶えています。それを伝馬船からあゆみ板を渡して砂浜に上げ、さらにセトガイ小屋まで持って歩くのですが、その作業がとても大変でした。セトガイの貝殻は、再び伝馬船に載せて廃棄場まで運びます。現在の『能島水軍』の辺りで廃棄していました。『あそこの埋め立て地はセトガイの貝殻でできている。』と、冗談で言っていたものです。
 潜水士は『ガンヅメ』と呼ばれる熊手を持って潜ります。潮の流れが変わる潮止まりの時間を狙って潜りますが、実際は潮止まりの2時間くらい前から潜ります。潜ってからロープを岩に巻き付けて固定し、岩の陰に回って貝をとっていくのです。陰に回るのは潮の流れを直接受けないようにするためです。1回潜ったら、大潮のときは3時間から4時間、小潮のときなら6時間も7時間も潜って作業をしていましたし、一日中作業をしていた人もいたことを憶えています。それだけたくさんセトガイがとれていたのです。不思議なことに、たくさんとっても、次の年同じ場所を潜ると、またたくさんとれていたのです。プランクトンも豊富にあったのだと思います。」

   (ウ) 危険と隣り合わせの潜水漁

 「潜水服を着て潜るには、こつがありました。昔の潜水服には空気抜きがあって、余分な空気をそこから抜いていました。空気を抜かないと潜ることができません。私(Eさん)も昔の潜水服を着て潜ったことがありますが、うまく空気を抜くことができず、勢いよく浮かび上がったり、逆さになったりしたことがありました。
 潜水漁には、危険が伴っていました。例えば、このポイントに下りていこうとしても、潮に流されたりして位置がずれて、急に水深が下がっている場所、予定より深い所に下りてしまうことがあったそうです。連絡手段として電話がありましたが、水深50mの深さまで行くと潜水士は舌が回らなくなって、うまくしゃべることができません。また、連絡できたとしても、船上の方ではすぐに止めることができませんでした。
 また、岩にロープを巻き付け、固定した上で作業をしましたが、ロープが切れることもありました。ロープが切れるとその場にとどまることができず、浮かび上がるようになります。海上では船が連なっていますので、浮かび上がったときに隣の船の下に浮いて危険な目にあうこともあったのです。そのほかに、酸素吸入のホースがスクリューに巻き込まれて切れてしまうこともありました。現在は、ウエットスーツやレギュレーターなどの発達により、自力で何とか浮上することもできますが、当時の潜水服では自由に動くことが困難で、まれに命を落とすこともあったのです。
 潜水士には、潜水病にかかる危険もありました。当時、タイラギガイやセトガイ漁の船には、減圧タンクが備え付けられていました。潜水漁から上がってくると、潜水士はおにぎりとジュース、筒を渡されてタンクの中に入っていました。筒は用を足すためのものです。そこに3時間から4時間入って徐々に圧を下げていき、地上の大気圧に戻していくのです。冬の時期には湯たんぽを抱えて入っていましたが、それを外に出したとき、気圧の関係で中の水が勢いよく噴き出していました。潜水病にならないために必要な対策でした。私はタンクの外で番をしたことがありますが、そのときは余分にアルバイト代をくれていました。潜水病になってしまうと、例えば家で食事をしているときに、急に『痛い痛い。』と苦しみ出し、箸を落としてしまうような症状が起こります。痛み止めの注射を打ったら一時的に痛みが治まるのですが、それでも駄目なときは香川県の丸亀(まるがめ)市にある労災病院に行って、一日掛かりで治してもらっていました。治療費がかなり高額だったそうです。
 危険を伴う潜水漁ですが、忙しい時期は、毎日海に潜っていたと思います。大潮のころは潮の流れが激しくなるために、『大潮休み』と言って漁を休むのですが、それほど速くならないときもあります。そのときは仕事をしていたことを憶えています。」

  エ 漁師の魅力

   (ア) シラス漁

 「私(Eさん)は、6月から9月までシラス漁をしています。宮窪でシラス漁を始めたのは、私が最初だったと思います。シラス漁を始めてから15年くらいになります。それまでは、シラスがとれると思われていなかったのです。とったシラスは釜揚げにしますが、加工は業者に頼んでいます。ほかの魚に比べるとシラスの値段は安定していますが、今年(令和4年〔2022年〕)はクラゲの被害があって水揚げ量が減っています。
シラス漁で使用する網は、よそでシラス漁をしている友人たちと連絡を取り合い、工夫を重ねた網を使っています。網は徳島県の網屋に頼んで作ってもらっています。今では、瀬戸内海の各地にシラス漁が広がっています。初めのうちは、シラスだけでなくタイやヒラメなどの魚が全部一緒になってとれていました。これでは、後で選別するのが大変ですし、シラスの品質が落ちてしまいます。そこで、ほかの魚やクラゲが抜ける細工を施し、さらに質の良いシラスがより分けられるよう、二重三重の構造の網も作りました。現在は、みんなその網を使うようになっています。
 昔から『魚がとれたら、とれた場所を他人に教えるな』という考えがあります。しかし、私は魚がとれるとみんなと情報を共有したり教え合いをしたりしています。シラス漁でも網屋や漁の仲間との情報共有の中で、良い網を作ることができました。良い網ができると、みんながまねしてもうけないといけません。また、近場の漁師だけでなく他県の漁師とも情報のやり取りをすることが大切だと思います。兵庫県姫路(ひめじ)市に坊瀬島という漁業を主要産業としている島があります。その島の坊勢漁協は漁師の育成や福利厚生を充実させたり、稚魚を育てる施設や水揚げされた魚の加工場など、さまざまな施設をそろえたりして熱心に活動しています。その様子を記したパンフレットも送られてきますが、シラス漁を専門とする漁船が67隻もあり、よく情報交換をしています。」

   (イ) 漁の面白さ

 「漁の魅力ですが、魚をとるとすぐに現金になることだと、私(Eさん)は思います。漁師の場合、『これが正解だ』というものがありません。自分が『今日はたくさんとれた』と思っても、ほかでもっと多くとった人がいる、そんな世界です。集団になって漁に出たとき、『自分が一番多くとってやる』と、誰もが思います。実際に多くとれると、漁の面白さを感じます。逆に自分が少ないと、『明日は性根入れて頑張らんと』と思うことができます。」

(2) 漁業を取り巻く環境の変化

  ア 変化した瀬戸内海

   (ア) 磯焼け

 「昭和40年代、昭和50年代の海と現在の海とでは全く違ってしまったと、私(Eさん)は思います。南の海の魚が入ってくることが増え、今までの魚が見えなくなりました。ウニやアワビは絶滅に近い状況です。ここまでひどくなるとは思いませんでした。昔は海藻が生い茂っていて、海に潜るときはそれをかき分けながら貝をとっていました。それが今、海の底は『ツルツル』の状態です。これは磯(いそ)焼けという現象なのですが、藻場がなくなってしまっているのです。海に溶け込んだ栄養素が少なくなって、植物性プランクトンが減少していることが原因の一つとして考えられています。環境保全の対策が徹底されたことで、海に流れ込む水に含まれる栄養分が少なくなっているからです。
 タイは年中とれるようなりましたが、逆にとれなくなった魚も多くあります。例えばタチウオ、青魚のアジやサバ、カニやエビ、シャコなどが昔と比べるとかなり減ってきたように感じます。昔はエソもよくとれていて、船がエソで一杯になるくらいでした。エソは今治から買いに来る人がいて、かまぼこの材料になっていました。それが、よくとれても10kgくらいになっています。グチもとれなくなっています。網にかからないくらいの小さいものはたくさんいるのですが大きいものがとれません。4、5年前まではそれなりにとれていました。
 近年よくとれるようになったのは、アコウ(キジハタ)です。私が子どものころ、父がアコウを釣ってくると、ちょっとした騒ぎになっていました。この魚も、毎年稚魚を放流した成果か、多くとれるようになっています。最近では放流の量を抑えることも検討しています。アコウが増えすぎると、ホゴ(カサゴ)やメバルの漁獲量が減ってしまうからです。」
 「私(Dさん)たちが子どものころ、砂浜に行くとチヌ(クロダイ)がよく群れていました。そこで、二人が1組になってタオルを使って陸地に追い込んで遊んでいたことを憶えています。砂浜に池をこしらえてそこに魚を入れ、それをしばらく見た後で逃がすことをよくしていました。本当に魚はよく泳いでいました。今はとにかく海藻がないのです。昔は、海藻に魚の卵が産み付けられていたり、カラコゲ(ハオコゼ)などの小魚が泳いでいたりしていました。それが現在、埋め立てが進んでしまい、海藻がなくなってしまいました。埋め立てについては、それによって災害は少なくなったのですから、これはこれで良かったと思います。昔は小さいパラペット(胸壁)しかなかったものですから、台風が来たときには家に高波がかかって被害を受けていました。その被害が埋め立てによってなくなりましたが、果たしてどちらが良かったのかと考えることもあります。」

   (イ) 温暖化の影響

 「近年の温暖化等を原因として発生する異常気象によって、潮の流れが変わったと感じることは、ほとんどありません。ただし、温暖化によって台風が大きく発達する事例が増えており、高潮の事例は昔より増えたと感じていますし、ふだんも昔と比べて潮位が上がったように私(Fさん)は感じます。
 南の海の方から、これまで見たことのない魚が瀬戸内海に入ってきています。何年か前に体格の小さいハギ(カワハギ)の仲間がとれたことがあり、その魚は猛毒を持っているので漁協から組合員に注意喚起を出したことがありました。フグの30倍強い毒を持っており、水揚げすると灰色がかった色に変化してまだら模様が浮かんでいました。みんなで『なんだか気持ち悪いな。』と言っていました。最近は聞かなくなりましたが、一時期、何匹か釣れたり網にかかったりしていました。」
 「今年(令和4年〔2022年〕)はシラス漁をしていても、網にかかるクラゲの数が大変に多く、私(Eさん)も困っています。過去に例のない出来事です。このクラゲはよその海から流入したものです。
 また、この漁場でよくとれていた魚が、東北地方や北海道でとれようになっています。例えば、タチウオが福島県や宮城県沖でとれ、ワタリガニが青森県沖でとれるようになったそうです。青森県沖では昔、タイは全然とれなかったそうですが、今ではいくらでもとれるそうです。漁獲量が全国的に増えたので、今年の正月前でしたが東京の豊洲市場の人から、『1㎏当たり1,000円を超える値は望めない。』と言われました。これは温暖化の影響だと思います。そのほか、北の海ではサケやマスをとるために仕掛けた定置網に天然のブリがかかるようになったそうです。これまでに経験のないことなので、血抜きの下処理が上手にできず良い値段で売れないそうですが、やがて下処理のやり方に慣れてくれば、今度はここで育てている養殖のハマチが売れなくなるのではないか心配しています。海の様子が大きく変わってきているのです。」

  イ 生活の変化

   (ア) 食生活の変化

 「この辺りの漁業で景気が良かったのは、昭和50年代の後半で、私(Eさん)が高校を卒業して漁師を始めたころです。沖に出ればいくらでももうかりました。その分、お金もよく使いましたが、『また明日沖に出ればお金を稼げる』と思っていました。当時は魚の値段が良かったと思います。そのころ、私はサザエをとっていましたが、その値段も良かったことを憶えています。タイについては、旬の走りである4月には1㎏当たり4,000円の値がついており、旬の終わりになっても2,600円くらいだったと思います。
 それが今では、走りの時期でも700円、終わりのころには200円から300円くらいにしかなりません。それでは、船の燃料代の方が高くなります。船一杯になるまで魚をとっても、昔のころと同じ収入にはならないのです。魚の値段が下がった背景ですが、このごろは魚を食べない子どもが増えていますし、若い世代の家庭ではまな板と包丁がない家もあって、魚に触れる機会そのものが少ないのだと思います。」

   (イ) 近年の状況

 「現在、コロナ禍の影響で漁師は痛手を受けています。市場から『魚を持って来るな。』と言われるほど、魚が売れません。コロナ禍で飲食店や旅館、ホテルが休業状態となり、需要が大きく落ち込んでいます。そこに燃料代の高騰が加わっています。漁に出るだけ赤字が増えるため、私(Eさん)たちは漁を休むほかありません。
 魚の値段は、昔と比べると全体的に下がっています。値が良いのはワタリガニやトラフグなどです。これらはめったにとれないので値が上がりますが、多くとれるようになると値が下がります。ここでは養殖もやっていて、タイやハマチ、ノリやワカメを扱っています。天然ものが売れない昨今では養殖ものも売れません。」
「最近では燃料代の高騰だけでなく、養殖用の餌代も値上がりしていて、私(Fさん)たち漁協職員も心配しています。ノリの養殖では、海の栄養塩が少ない影響で、色がつかない色落ち現象が起こり、やはり値が下がっています。また、コロナ禍の影響でコンビニのおにぎりの売り上げが落ちており、それに使用するノリの需要も減っています。」

(3) これからも漁業を続けていくために

  ア 魚の需要を拡大させる

 「漁協では村上海賊ミュージアムに隣接した場所で『能島水軍』を経営しています。『潮流体験で観光客を集めよう』というところから始まりましたが、レストランも作った方が良いとの意見もあり、二つの施設が平成19年(2007年)に開業しました。食事のほかにバーベキューもできるようになっています。潮流体験では、元漁師や操船の経験が豊富な人が船を動かしています。特殊な免許が必要であり、誰でも操船できるものではありません。安全に注意しながら私(Fさん)たちは運営しています。」
 「レストランは、年々メニューのリニューアルを行いながら、現在に至っています。メニューの中では海鮮丼が良く売れていますが、お客さんの反応が特に良いのが『鯛だしラーメン』だと私(Eさん)は思います。このラーメンは、天然のタイをスープのだしに使っています。さらに、天然のタイの切り身をラーメンに載せています。このメニューは、私たちが考案したものです。『もう一度食べたい。』と好評で、地元の人たちにも、『これがないといかん。』と言ってもらっていて、幅広い年齢層から人気を集めています。よそでもタイでだしを取ったラーメンは提供されていますが、その多くはタイの頭と骨でだしを取っているそうです。しかし、私たちの鯛だしラーメンは、直前まで元気に泳いでいたタイを、うろこと内臓を取り除いてから丸ごと使用します。一つの釜に90㎏ものタイを使っています。
 豊洲市場や大手デパートから、『持ち帰り用の鯛だしラーメンをうちのところで販売させてもらえないか』と要望がありましたが、『これだけは宮窪で売る』という考えから断っています。『能島水軍』では持ち帰り用が売られているので、中元・歳暮用や土産にと買い求める人もいます。
 現在、『能島水軍』の敷地や設備のさらなる拡張・充実を今治市に要望しています。『能島水軍』で取り扱える魚種を増やし、生きの良い魚をお客さんの要望に合わせて調理できるようにするためです。」

  イ 漁業資源・漁業環境を守る

 「漁協では、定期的に稚魚の放流を行っています。稚魚の放流を行うとき、事前に越智・今治地区の協議会で『今年はこれとこれの稚魚を放流したい。』と水産試験場に要望を出します。その後、稚魚が送られてきますが、九州の方からカサゴの稚魚が送られてきたり、去年は愛知県からメバルの稚魚が送られてきたりしました。放流は地元の宮窪小学校の児童が行うこともあります。小学生は喜んでいました。しかし、放流の効果がすぐに出るまでに至っていません。サイズの小さい魚は見かけるようになりましたが、大きいものは目立っていないと私(Eさん)は思います。より大きな魚に食べられたり、大きくなるとよその海に行ったりしているのではないかと思います。また、最近はウに食べられる被害も多く、どこの漁場でも困っています。」
 「漁協では、魚礁を設置したり、藻場を育成したりするなどの活動を行っています。稚魚を放流した後、この海で魚がしっかりと成長できるようにするためにも、魚の住みかを確保しなければならないと私(Fさん)は思います。現在は試験的に行っており、今後の成果を見ながら進めていきたいと考えています。もう一つ、海の栄養分の減少を解消する課題ですが、これは全国各地の漁師が頭を悩ませています。さまざまな試みがなされていますが、これといった有効な手立ては、まだ見つかっていません。」

  ウ 漁業の町の景観を残す

   (ア) 後継者

 「私(Fさん)たち漁協職員は漁師の仕事を支えていますが、現在の漁協の組合員の数が、正組合員と準組合員を合わせて200人くらいです。昔は600人くらいいたので、3分の1に減少し、本当に今は少なくなっています。30歳代は10人を超えるくらいいますが、20歳代になると2人です。」
 「私(Eさん)は、20歳代半ばで青年団の支部長になりましたが、そのとき、自分の下の世代が87人いました。そのことを聞いた先輩が『少ないなぁ、87人しかおらんのか。』と言っていたのを憶えています。ところが、今は20歳代の漁師が2人しかいません。
 よく、私の父は『海の水が辛い間は、神様は漁師を殺さんけん。』と言っていました。現在、漁師を取り巻く環境は厳しいのですが、私たちが『漁師はもうかる』という姿を見せていかなければならないと思います。」

   (イ) 漁師町の風景

 「昔、この辺りも活気があったと私(Eさん)は記憶しています。今よりも住んでいる人も多かったのです。冬になると、陽だまりを求めて人が集まり、おしゃべりをしていました。今は、そのような光景があまり見られません。人が集まっている雰囲気の中で、それぞれの漁師が自分の漁に合わせて出港していたのです。漁から戻ってくると、その日の漁の出来不出来などを話題にしておしゃべりをしていました。また、網の修繕などを浜でしていたので、手の空いている人がその作業を手伝って、協力しながら漁をしていました。」

   (ウ) 砂浜を残す

 「今は、子どもたちが泳ぐ場所がありません。この夏も、地元の大島中学校や宮窪小学校の先生が来て、『子どもたちが海に飛び込んだりして、迷惑をかけていませんか。』『桟橋から飛び込んで、漁師さんから苦情が出ていませんか。』と聞いていました。私(Eさん)は、『そのようなことはありませんし、苦情もありませんよ。私たちの子どものときの方が、もっと悪さをしていました。けがや事故さえなければ大丈夫です。』と答えました。海に飛び込むことくらいは、私たちが子どものころもしていました。
 昔は一面が砂浜で、端から端まで泳いでみたり、タコをとったりしていましたが、今は海に囲まれた島に暮らしながら、泳ぐことができる砂浜が限られた場所にしかありません。そこで、『能島水軍』に隣接する砂浜を海水浴ができる浜になるように整備してはどうかと、今治市に要望を出しています。」

写真2-1-2 能島(左)と鯛崎島

写真2-1-2 能島(左)と鯛崎島

今治市 令和4年9月撮影