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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 島四国八十八か所

(1) ふるさとを活性化させる

  ア 島四国の歴史

   (ア) 島四国の開設

 「大島の島四国八十八か所(以下『島四国』と記す。)は、江戸時代の後期、文化年間に開かれたものです。主に3人の人物によって開かれています。その3人とは、医師の毛利玄得、修験者の金剛院玄空、庄屋の池田重太のことです。中でも、毛利玄得は本四国、つまり四国八十八か所を実際に回り、寺々の距離感を始め多くの物事を調査しています。その上で、距離にして64㎞、2泊3日で回ることのできる島四国を築き上げました。既存の寺院やお堂もあったでしょうが、島内に88近くのお堂が短期間に一気に出来上がったのです。今、同じことをやるとなってもできないでしょう。3人の功績は言うまでもないことですが、彼らを支えた当時の島の人々の熱意はすごいと私(Gさん)は思います。
 当初の目的は、本四国を歩いて回れない島の人たちのために作られたものでした。しかし、島四国ができたころから島外の人が数多くお参りに来るようになりました。このため、当時大島を治めていた今治藩は、文化5年(1808年)に毛利ら3名を処罰することになります。藩にとっては、島四国によって藩外から多くの人が集まることで、それらの人たちが一揆を起こすのではないかと考えたのだと思います。しかし、お参りする人の流れは止まらなかったため、京都の仁和寺より『准四国』を称することが許可され、島四国は今治藩にも認められるようになりました。それが約210年続いているのです。
 京都や奈良には神社仏閣がたくさんありますが、それは地域の豊かさと関わりがあると考えています。大島は島嶼部の中で米を多く作ることのできる所であり、さらに塩田もありました。このため、京都の有力な寺院の荘園になっていて、昔から京都とのつながりが強い地域だったのです。こうした背景が島四国の開設に関係があると思います。私は今、NPO法人の代表を務め、島四国を守り伝える活動を行っています。島四国だけでなく、地元大島を活性化させるいくつかの活動にも従事しています。」

   (イ) 島の人と島四国の関わり

 「明治以降も、島外から島四国を回りに来る人は多くいました。戦後、総理大臣を務めた池田勇人が昭和の初め、まだ大蔵省の官僚だったころに大病を患って仕事が続けられなくなりました。そのときに島四国を歩いて回り、その後病気が治って仕事に復帰できたそうです(写真2-1-3参照)。数年前、池田勇人の娘さんが、『お父さんが御蔭(おかげ)をもらった島に行きたい。』ということで大島に来て、私(Gさん)が案内したことがあります。池田勇人は広島県の出身です。江戸時代の後も、瀬戸内沿岸地域を中心に島四国の存在が広く知られていたあかしだと思います。
 大島の人のために開設された島四国ですが、島外からお参りに来る人が中心になり、島の人が回ることは見られなくなりました。代わって島に定着したのが、善根宿を始めとするお接待の風習です。島外からやって来る人のために宿泊施設が必要ですが、専用の建物ではなく島の各家庭がお遍路さんを泊めていて、これを善根宿とよんでいます。宿泊代は取っていませんでした。お遍路さんを迎え入れる家にしてみれば、全くの善意でやっている行為なのですが、お接待をすることで、自分が回ったのと同じ功徳を授かることができるのです。昔の人はよく考えたものだと私は思います。昔は、学校で『うちには今、何人泊まっている。』、『うちは何人だ。』という会話がされていたことを憶えています。
 島外からの交通手段が船だけだったころまでは、島四国は春にまとまってお参りが行われていました。朝、船が島に着いて順番に歩いて回っていました。およそ2泊3日の行程です。島の人は自分の家にお遍路さんを泊め、おにぎりやミカン、ヨモギの天ぷらやタケノコなど、地域で採れたものを出してお接待をしていました。お接待を通して、昔は各地の食べ物の話や収穫できる作物の話とか、自分たちが知らない情報を、島の人は聞くことができていたのだと思います。
 しまなみ海道が開通してから、春に限らず島四国を回る人が増えてきました。さらに、順番に回ることも少なくなっています。島四国を守り伝える活動を続けていますが、私はもう一度、春の3日間だけ、かつて行われていた歩き遍路の風景を復活させたいと考えています。そのためには、各家庭によるトイレや宿の提供など、今では想像ができないようなことを島の人に協力をお願いしなければならないのですが、そうした課題を乗り越えて実現できれば良いと思っています。1年の中で3日間だけ行われる島四国遍路のために、1年かけて島全体で準備をしていくのです。そのことが大島の活性化につながると私は思います。」

  イ 島四国と出会う

   (ア) 戦後の大島

 「大島に生まれた私(Gさん)の同級生は、600人近くいました。当時の吉海中学校に330人ほど、宮窪中学校に200人ほど在籍していました。そのころは、今とは異なる理由で大島に残ることが難しい時代でした。大島高校の1学年の定員が220人で、旧今治市の高校に進学した人は30人ほどおり、半数以上は中学校卒業後に就職して、多くは島外に出て行くのです。
 大半は大阪に行っていました。今、この話を若い世代に話すと、『うそでしょ。』と言われます。就職先は中学校が決める時代でした。既に先輩が就職しているところを中心に割り振られていました。当時、旧今治市ではタオル工場は南予地方からの中学生を受け入れていましたし、看護師も南予出身者が多かったことを憶えています。先輩が就職していたからです。そのころの看護師は、仕事をしながら看護学校にも通うことが当たり前でした。現在の考え方では測れない、『昭和の物差し』とも言えるような、当時を生きた人にしか分からない風景があったのです。
 私は大島高校を卒業後、大阪で働いていましたが、しばらくして大島に戻って職に就き、現在も大島で暮らしています。県外で暮らす同級生と会うと、『お前が羨ましい。』と言われることがあります。大島に残ることができた私は、ラッキーだったのです。」

   (イ) トラックの運転手になる

 「大島に戻ってきたころ、『荷物を運送する仕事があるのでやってみないか。』と私(Gさん)は声を掛けられました。山口県萩(はぎ)市から、イリコを運ぶ仕事だったと思います。トラックの運転手になるきっかけでした。私が生まれた昭和20年代は、牛や馬に荷車を引かせていた時代であり、トラック運送業という仕事が始まったばかりで、流通という言葉が目新しい時代でした。『トラックの運転手になる。』と周りに相談すると、大反対されました。反対されると『なにくそ』と俄然やる気になってしまうのが私の性分でして、松山でトラックの運転免許を取得しました。そして、免許を取っただけでトラックのことを何も知らない私に、店の人が大型トラックを売ってくれたのです。当時は大手の運送業者でも2、3台ほどしか所有していなかった時代です。こうして、20歳代から20年近くにわたって、トラックに乗って全国を駆け回ることになりました。このときの経験は、今の活動に大いに役立っています。物や人の流れだけでなく、各地の風土をじかに感じ取ることができました。当時はまだ、地域ごとに食生活や習慣が大きく異なっており、その地に行ってみないと分からないことがたくさんありました。
 そのころの話ですが、タイを積んで鞆(広島県福山(ふくやま)市)まで運んだことがあります。生きた魚をタンク内で泳がせ、酸素を供給しながら運ぶのですが、当時は、今と違ってタンク内に仕切りが多く作られていませんでした。このため、海水が大きく揺れて、トラックが傾くようなこともありました。運送中にタイが弱ってしまうことが多く、その都度同乗していた漁師がタイを締めなければなりませんでした。魚の流通技術が未発達のころでしたから、漁師はしんどかったと思います。大島と島外の交通手段はフェリーで、そのフェリーにトラックを1台乗せると、後は人が一人通れるかどうかの隙間しかなかったことを憶えています。桟橋も潮の満ち引きに対応できるものではなかったので、トラックをフェリーに乗せるのに大変苦労しました。
 仕事を終えて、フェリーに乗って大島に帰ってくるとき、海の向こうに島々が連なる景色が見えます。私はこの瀬戸内の景色が一番きれいだと思っていました。こうした経験を通して、私の郷土愛は強くなっていったのだと思います。」

   (ウ) 開創百五十年記念行事
 「トラックの運転手を辞めて、大島で別の仕事をしていたころ、私(Gさん)は1枚の写真に出会いました。それは、昭和32年(1957年)に行われた、島四国開創百五十年記念行事を写したものでした。終戦から10年少ししかたっていない時期にも関わらず、多くの人が参加した様子を見て、私は衝撃を受けたのです。写真を見たときは、次の二百年記念祭が近づいているころでした。
 そこで、私は旧吉海町で実行委員会を立ち上げ、旧宮窪町と協力して運営委員会を組織したのです。当時の私は、それこそ無我夢中で準備を進めていって、二百年記念祭を成功させることができました。記念祭が終わった後から、私は地域の自治会長や交通安全協会の会長といった役職を務めるようになり、島四国を守り伝える活動と合わせて地域を支える活動に取り組むようになりました。その点で、島四国は今の私の原点に当たるものなのです。」

(2) 次の世代に島四国を伝えていくために

  ア 島四国を守り伝える

 「島四国のお堂ですが、個人で所有している建物やいくつかの家が共同で所有している建物、地域が管理している建物と、さまざまな所有の形態があります。本四国の寺院の立地条件に、なるべく合わせるようにして建てられています。例えば、足摺岬にある金剛福寺を模した仏浄庵は、大島の西端の地に建てられています。実際に本四国を歩いて回った、毛利玄得の努力のたまものであると、私(Gさん)は思います。当時の今治藩に命じられて作ったのではなく、当時の島の人々が自分たちでできる範囲でこしらえているのです。それがまた、島四国の魅力だと思います。
 ところが、現在お堂や遍路道をきれいに管理できているのは、全体の3分の1程度になっています。残りの所は、十分な管理が行き届いていません。『もう、続けなくて良いのではないか。』という意見も聞くようになりました。大きな要因は人口の減少にあります。
 こうした課題を乗り越えるためにも、島四国のことをもっと多くの人に知ってもらうことが大切だと考えています。そのためにも、住民と自治体が一体となって行動することが必要だと私は考えています。
 私たちは、管理が行き届かなくなったお堂を守っていく活動を続けています。年に4回、『歩こう会』と名付けた、遍路道を歩いて回る行事を主催しています。毎回100人前後が参加してくれます。定期的に歩いて回ることで、自然と遍路道に草が生い茂ることがなくなります。そうやって遍路道を守っているのです(写真2-1-4参照)。
 私は活動の旗振り役に徹しています。保存活動を成功させるために、私は年中、島四国以外の地域を支える活動も参加しています。今では交通安全協会や郷土史会の会長を務めたり、夏の花火大会の準備まで行ったりしています。甥(おい)に、『おじさんは、現役で働いていたときの方が休めたんじゃないの。』と言われるくらいです。そのことが、島四国を守り伝える活動に、人が集まってもらえているのだと思います。」

  イ 若い世代に伝える

 「現在、大島には仕事が少なく、若い世代が島に残ることができない一番の原因となっています。東京で学んでいる大学生が、私(Gさん)たちの活動を経験したいとやって来る事例が少なくありませんが、これらの大学生が今治や瀬戸内の島々を気に入ってくれても、彼らを受け入れる仕事先がないのです。しかし、1人でも多くの若者が興味を持ってもらえるように、粘り強く活動を続けていこうと考えています。
 今後は、私たちの活動を引き継いでくれる人を見つけ出し、育てていく必要がありますが、若い世代が少ないので、なかなか見当たらないのです。地元の若い世代に大島のことをよく知ってもらいたいと思い、講演に出向くことがあります。この間は、中学生に向けて話をしました。ほかにも、ガイドの養成にも力を入れていきたいと考えています。ガイドには島四国だけでなく、村上水軍や大島石のことも紹介してほしいと思っています。ただし、内容が多岐にわたるので、養成には時間と手間が掛かると思います。
 遍路は、この地域にしかない良い文化です。白装束のお遍路さんが街中で立っていても、四国では何とも思われません。岡山辺りでもまだ受け入れられると思います。これが東京駅となると、そうはいきません。お接待の文化も同じく残っていますから、人の良い土地柄となるのです。特に大島の人は、今でも旅人に優しいと私は思います。
 この3年、コロナ禍によって『歩こう会』を始めとする島四国の活動ができない状況が続いています。2、3年でも空白期間ができてしまうと、再開がとても難しくなります。地域の祭りのような伝統行事にも同じことが言えます。続けるということは非常に大切なことです。祭りは1年に1回ですが、その祭りを成功させるために長期にわたって準備や練習を行うわけです。1回の祭りのために1年間努力を積み重ねるのであって、祭りは地域の人にとって1年間の心の支えになるのです。島四国も同じ事だと思います。引き継がれてきた文化や風習、祭礼をしっかりと実行することが、地域の活性化につながると私は思います。」


参考文献
・ 平凡社『愛媛県の地名 日本歴史地名大系第39巻』1980
・ 愛媛県『愛媛県史 近世上』1986
・ 角川書店『角川日本地名大辞典38愛媛県』1991
・ 宮窪町『宮窪町誌』1994
・ 吉海町『吉海町誌』2001
・ 愛媛県『愛媛県市町要覧 令和3年度版』2022

写真2-1-3 5番札所寿気庵

写真2-1-3 5番札所寿気庵

今治市 令和4年11月撮影

写真2-1-4 遍路道の道標(寿気庵付近)

写真2-1-4 遍路道の道標(寿気庵付近)

今治市 令和4年11月撮影