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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業22ー今治市②―(令和4年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第1節 大島の産業と人々のくらし

 大島は、西は旧今治市と旧波方(なみかた)町、北は伯方島と大三島、東は燧灘に面している。平安時代、大島荘として京都醍醐寺領であった。鎌倉時代末期には安芸(広島県)から小早川勢が進出し、室町時代には村上水軍に支配されたが、江戸時代、寛永12年(1635年)に成立した今治藩の領域となった。
近代に入ると、明治22年(1889年)の町村制施行により津倉(つくら)村、亀山(かめやま)村、大山(おおやま)村、宮窪(みやくぼ)村の4村が成立した。その後、明治33年(1900年)に亀山村の一部が分離して渦浦(うずうら)村が成立した。
戦後、昭和27年(1952年)に宮窪村が宮窪町として成立し、同29年(1954年)に津倉村、亀山村、大山村、渦浦村が合併して吉海(よしうみ)町が誕生した。このとき、大島の北端に位置し大山村にあった早川と余所国の2地区が宮窪町に編入された。
大島は北部で良質な花崗岩を産出し、今治城を築城した藤堂高虎も石垣として使用したと伝えられている。明治期に入ると、京都や大阪、東京に積極的に販路を拡大させ、近代建造物の土台として使用されるようになった。現在では、高級墓石材として西日本を中心に高い知名度を持っている。
 また、西側は来島海峡に面し、東側は戦国期に活躍した村上水軍の中核であった能島村上氏の本拠である能島が位置している。島の周囲は激しい潮流が流れており、ここで育った魚は身が引き締まっていて味が良いと評判であり、格好の漁場に恵まれている。
さらに、江戸時代後期の文化年間(1804~18年)には、当時の医師、庄屋、修験者によって島四国八十八か所が開かれた。四国八十八か所を模したミニ霊場は県内各地に存在するが、大島の島四国は島民の保存活動やお接待の風習もあって現在でも盛んに行われている。
 本節では、大島の石材業について、Aさん(昭和21年生まれ)、Bさん(昭和36年生まれ)、Cさん(昭和52年生まれ)から、大島の漁業について、Dさん(昭和31年生まれ)、Eさん(昭和38年生まれ)、Fさん(昭和50年生まれ)から、島四国について、Gさん(昭和22年生まれ)から、それぞれ話を聞いた。