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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 トンネルの開通と人々のくらし

 (1) トンネル開通前

ア 太政官道と土佐街道

 太政官道と土佐街道について、Aさんから話を聞いた。
 「新宮中学校があった場所は、明神森(みょうじんもり)というお社の跡です。明神森は熊野神社よりも古くからあったと言われており、大昔はその辺りが新宮の中心だったようですが、熊野神社が創建されてからは、こちらが中心になりました。古代の太政官道は明神森の前を通っていますが、江戸時代の土佐街道はお宮(熊野神社)の前を通っているので、土佐街道と太政官道が一致しているというわけではありません。」

イ 高知との交流

 「高知県とは土佐街道を通じた交流がありました。熊野神社への参詣や、奥之院を訪れるお遍路さんもこの道筋を通ってやって来ていました。私(Aさん)の叔母が結婚した際、振る舞い酒のイモ焼酎を買うために、笹ヶ峰を越えて高知県大豊村の立川(たじかわ)まで行きました。買ったイモ焼酎を瓶に入れると重いうえに、落とすと瓶が割れてしまうので、ゴム製の水枕に入れて運ぶようにしていて、それをいくつも準備して、若い人を雇って運んだことを憶えています。」

 (2) 堀切トンネル

ア 堀切峠を越える

 「私(Aさん)は、堀切峠の開通がこの地域に与えた影響は大きかったと思います(写真3-2-3参照)。堀切峠から銅山川橋までの道を、私たちは、『堀切街道』と呼んでいますが、この道が村人の生活を豊かにしたことは間違いないと思います。昭和12年(1937年)に堀切峠を通る道が開通しましたが、そこには『新宮村から出た県会議員の方の大きな働きがあった』と聞いています。
 それまでは横峯越えという、細く険しい道を通り、荷物を馬や仲持(なかもち)という力持ちの人が背負って運んだという歴史があります。峠を越えると平山(ひらやま)という所に下りますが、そこにはかつて旅館もあったそうです。平山から金川(かながわ)、上分を通って川之江へ行っていました。」

イ 堀切トンネル開通の影響

 「昭和55年(1980年)に堀切トンネルができたとき、私(Aさん)は開通式で祈祷(きとう)を行いました(写真3-2-4参照)。堀切峠は標高約490mの峠ですが、峠を越えていたときは1時間半くらいかかっていましたが、今では20分ほどです。堀切トンネルができて、新宮から三島や川之江の製紙工場へ通勤することができるようになったので、若い人たちが新宮に残ってくれると期待しました。ところが、銀行が簡単に住宅購入のための資金を貸してくれるようになったので、若い人たちは住宅ローンを組んで町(都市部)に家を建てて住むようになり、新宮にはお年寄りだけが残ることになってしまったのです。また、自分の経営する会社はこちらにあっても、町に出た子どもと一緒に住んで、新宮に通っている人もいます。
 若い人たちが村から出て行くとともに、新宮のお店も減ってしまいました。マイカー社会になってからは、私もそうですが、魚や肉、雑貨など生活に必要なものは、自家用車で町へ行ったついでに買うようになったため、新宮の商店街はますます寂れてしまいました。
 また、道路網も整備されたため、現在、徳島ナンバーを付けた車が新宮橋を通行することが増えてきたように思います。池田より上流の、新宮寄りに住んでいる徳島県の人たちがよく通っているようです。」
 「堀切トンネルができると、生活が便利になりました。この近辺だけではなく、上山(かみやま)や新瀬川を含め、旧村内の全ての地域で道路開発が進み、農道や林道も建設されて、自家用車で移動できるようになったので、生活が大変便利になりました。私(Bさん)たちの年代の人たちは、子どものころ、交通事情が悪く大変苦労していて、『子どもたちにはそうした苦労をさせたくない』と思っていたので、良かったと思う反面、便利になった分、家は町で建てようという人が増えてしまっているのではないか、と地域の将来を不安に思うこともあります。」

 (3) 笹ヶ峰隧道(トンネル)

ア 笹ヶ峰隧道(トンネル)の思い出

 「昭和42年(1967年)に笹ヶ峰トンネルが開通して、役場付近に住む人だけではなく、新瀬川に住む人々が高知県側に行きやすくなった、と言えると思います(写真3-2-5参照)。私(Bさん)が役場の職員だった時代には、新年会や忘年会などが笹ヶ峰トンネルを越えた高知県側で開かれることもありました。トンネルを抜けた所で花見をして、そのままの流れで立川に行くこともあったことを憶えています。高知県側に住む人が、新宮に来ていたこともあったと思いますが、頻繁にトンネルを抜けていたと感じるほどではありませんでした。」

イ 笹ヶ峰隧道(トンネル)開通の影響

 「笹ヶ峰トンネルが開通しましたが、トンネルのある所は標高が高く、雪が多くなると通行することができません。また、大雨による土砂災害などの影響で、付近の道路が通行止めになることもしばしばあります。私(Aさん)は、笹ヶ峰トンネルが開通しましたが、新宮村内の変化はほとんどなかった、と言えるのではないかと思います。」
 「私(Bさん)は、高知県側に出掛けていく回数が増えたのではないか、と思います。それくらいの変化はあったと思いますが、生活そのものが大きく変わったということはなく、人の流れも目に見えて変わるようなものではなかったと思います。歴史的な土佐街道について、観光等のつながりはできたと思います。また、高知県から新宮へ嫁いで来ていた人にとっては、実家との行き来が容易になったので良かったのではないかと思います。」

 (4) 高知自動車道の開通

ア 高知自動車道の開通

 「平成4年(1992年)1月に高知自動車道が開通し、新宮村はさらに便利になりました(写真3-2-6参照)。私(Aさん)自身、車で東温(とうおん)市(旧川内(かわうち)町)へ用事で出掛けるときには、1時間ほどで行くことができるようになりました。朝の時間帯であれば、松山(まつやま)市内から出掛けて行くのと、時間的にはあまり変わらないほどです。
 私の先代の時代は、松山へ行くのも大変だったことを憶えています。仮に朝10時から松山で会合があるときには、前日から松山へ行って、宿泊をしておかなければなりませんでした。そして、翌日の夕方4時か5時に会合が終わってからバスで新宮へ戻るとすると、かなり遅い時間に着くことになり、身体がもたないので、松山でもう1泊していました。当時は松山での会合に行くときには、会合の前日、当日、翌日と3日間必要だったようですが、今は片道1時間で行くことができるので、便利になったと思います。」

イ 交通が便利になって

 「私(Aさん)は、堀切トンネルができる前のころから、地域に対する人の心が変化してきていたのではないかと思います。また、最近の子どもたちの姿を見たり、話している様子を聞いたりして、約50年前の昭和40年(1965年)ころの子どもたちを思い起こしながら比べてみると、田舎臭さがなくなり、押しなべて都会の子になっていると思います。
 大人たちにも同じことが言えて、良く言えば都会風ですが、田舎臭さがなくなり、かつて見られた農家のおじいさん、おばあさんがいなくなりました。それは、すなわち、新宮の良さがなくなってきたということだと思います。古き良き日本文化を後世に伝えることの大切さを考えると、それに逆行しているように思えてなりません。」

参考文献
・ 新宮村『30年のあゆみ 新宮村』1984
・ 愛媛県『愛媛県史 社会経済3 商工』1986
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988
・ 新宮村『新宮村誌』1998
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会『愛媛県の歴史散歩』2006
・ 愛媛県生涯学習センター『えひめ、人とモノの流れ』2008

写真3-2-3 堀切峠

写真3-2-3 堀切峠

平成30年11月撮影