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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業15-四国中央市①-(平成30年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

1 バス交通と人々のくらし

 (1) バス通学の思い出

ア 舗装されていない道路

 「私(Aさん)がバスで通学をしていた昭和30年(1955年)ころは、堀切峠を越える道路は全く舗装されておらず、土肌が出て轍(わだち)がありました。当時の道路は物資の運搬が中心で、バスの乗り心地などは全く考えられていませんでした。バスの揺れが大きかったため、乗っていた子どもたちはよくバス酔いをして、おう吐してしまう子どももいたと思います。昭和40年(1965年)ころになってもバスは多くの通学客が利用していましたが、道路はまだ舗装されていませんでした。舗装されたのは随分後になってのことだったと思います。」
 「私(Bさん)が昭和40年(1965年)に役場に入った時、最初は自転車で通勤していました。道路は鉱山の鉱石を置いて整備されていたのですが、鉱石の尖(とが)った部分に当たって、自転車やカブ(オートバイ)のタイヤがパンクしたことがありました。道路を拡張する工事が行われていたときには路面に鉄板が敷かれていましたが、鉄板の上を走っているとタイヤが滑って転ぶことがありました。当時はほとんどの人が自転車で移動していて、その後、自動車が徐々に増えていったと思います。
 役場に公用車が入ったころから、運転免許を取りに行く人が少しずつ増えてきました。私が中学生のころは、新立中学校の校舎は現在の公民館の所に建っていて、そのグラウンドに三島警察署のお巡りさんが来て、カブの免許の出張試験が行われていたことを憶えています。」

イ 小・中学生のバス通学

 「私(Aさん)が子どものときには、小学校まで歩いて通うのが当たり前でした。三島の富郷(とみさと)、金砂(きんしゃ)との境辺りから、10㎞くらい歩いて通う子どももいて、雪が降ると、腰から下はずぶぬれになっていました。普段は厳しい先生も、その子たちを見ると、さすがに優しくなりました。雪が降った日には、徒歩で通学してくる子たちが午前10時くらいに学校に着くと、優先的にストーブに当たらせてもらっていました。また、彼らが冷えたお弁当箱をストーブで温めていると、お弁当箱から匂いがしてきていたことを憶えています。
 私が中学校を卒業した後の話ですが、6㎞から8㎞の距離を歩いて中学校に通っていた子どもがいました。あるとき、その子が学校の帰りに鉱山のトラックの荷台に飛び乗ったそうですが、銅山川橋に向かって曲がる地点が急カーブだったので、そこで振り落とされてしまうという事故が発生しました(写真3-2-1参照)。その事故をきっかけに、村が送迎バスを手配して、学校に通う子どもたちを送迎するようになりました。
 当時、交通機関はバスしかありませんでした。バスの新宮停留所の場所は現在と変わりません(写真3-2-2参照)。昭和40年(1965年)に新宮中学校が実質統合されてから、生徒を運ぶためにバスの運行が盛んになりました。昭和40年ころは、国鉄バスがよく利用されていて、ほかのバス会社は運航本数が少なかったこともあって、利用客は少なかったと思います。」
 「私(Bさん)たちは新立中学校に入学しましたが、新瀬川の子どもはみんな自転車で通学していました。私が中学1年生の途中からバス通学が始まり、こちらから中学校へ通う子どもはみんなバス通学に変わりました。
 昭和40年(1965年)ころは、車を持っている人はまだ少なく、多くの人が国鉄バスを利用していました。四国交通もバスを走らせていて、銅山川橋の近くに車庫があり、そこにバスが置かれていました。運転手さんは運行と運行の間には、出発の時間になるまでバスの中でゆっくりと過ごしていたことを憶えています。」

ウ 高校への通学と寮

 「高校に進学すると、バス停の近くに住む子どもたちは、三島や川之江までバスで通学していたことを私(Aさん)は憶えています。通学時間帯に運行されるバスに間に合わない地域に住む子どもたちは、下宿をしなければなりませんでしたが、堂成(どうなる)がバス通学の可能な境で、新瀬川の辺りからはバスの出発時刻に間に合いませんでした。しかし、兄弟が多い家庭では、下宿をすると経済的な負担が大きくなるということで、やがて、三島高校の近くに嶺南(れいなん)地区(新宮、金砂、富郷)共立の寮ができたほか、昭和41年(1966年)には川之江にも新宮寮ができました。」
 「昭和35、36年(1960、61年)ころだったと思いますが、三島高校には学校の寮と佐々連(さざれ)鉱山の寮があり、佐々連鉱山の寮には、四阪島(しさかじま)(現今治市)の生徒が入っていました。
 私(Bさん)は高校1年生の2学期までは、国鉄バスで通学をしていました。家を出て、午前6時ころに新瀬川でバスに乗り、新宮を午前6時30分くらいに出て、午前7時40分ころに三島に着いていましたが、最初のころはバス酔いをすることがよくありました。昭和38年(1963年)10月ころからしばらくの間、大型バスの導入に向けた道路拡張工事が新宮側で始まり、朝晩だけの運行となっていて、その間は小型バスが使われていました。3学期になると、雪の影響でバスが止まることが多くなったので、寮に入ることにしました。昭和38年(1963年)の大雪のときはものすごい量の雪が降り、何日もバスが止まったことを憶えています。当時、私が通学時に乗っていたバスには、三島のドレメ学院という洋裁学校に通っていた人も乗っていて、当時は高校を卒業してから通っていた人と、中学校を卒業してから通っていた人がいたようです。
 昭和41年(1966年)、川之江に新宮寮ができてからは、三島高校に通っていた生徒も新宮寮に入り、そこから列車で通学をするようになりました。三島高校の寮ができるまでは、高校へ兄弟で通っている家庭の中には、『2人分のバス賃を払うくらいなら』と考えて、子どもに下宿をさせる家庭もありました。家庭の経済的な負担の軽減と、高校へ通う子どものより良い学習環境の確保のために、寮ができたと聞いています。」

エ バスを利用する人々

 「私(Aさん)が教員として勤務していた昭和43年(1968年)ころ、新宮中学校へ通勤していた教員のうち、何人かがバスを利用していたくらいで、バス通勤をする先生はほとんどいませんでした。それでも、今のようなマイカー社会ではなかったので、地域の方でバスを利用する方は多くいて、三島、川之江へ行く人の多く利用していたことを憶えています。また、村外の人が新宮に来るときにもバスを利用して来ることが多かったと思います。」
 「当時、新宮村内にもお店はありましたが、川之江の上分(かみぶん)や金田から、魚屋さんや服屋さんなどがバスに乗って新宮まで行商に来ていたことを私(Bさん)は憶えています。その人たちはバスが新宮に着くと、自転車に乗って村内の家々を訪ねて回り、商品を売っていました。」

写真3-2-2 現在の新宮バス停

写真3-2-2 現在の新宮バス停

平成30年6月撮影