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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 水害からの復旧

 当時は戦時中であり、若者の多くが戦地や軍需工場へと動員されていたが、地域住民総出で堤防の切れ口の補修と流失田の復旧に取り組んだ。また、県も相川勝六知事のもとで迅速に対応し、7月25日には県庁に愛媛県臨時災害対策本部を設けるとともに地方事務所にも対策本部を設置し、広く勤労奉仕を勧奨して直接松山市及び付近を中心とする学生や町内会等を動員した。『愛媛県史』によれば、「7月29日現在までに、その人員は延二万人に及び、このほか罹災各地で学徒・一般県民がそれぞれ勤労奉仕を自発的に展開した(③)」という。こうして、耕地の復旧は僅か2年で成し遂げられることとなり、中川原地区の素鵞神社境内に水害復興記念碑が建立された(写真2-3-11参照)。
 重信川の改修工事は昭和20年(1945年)5月から内務省(現国土交通省)によって進められた。田辺由喜夫さんによれば、被害が甚大ですぐに改修工事を始めることができず、土のうを積み上げただけの状態が続き、昭和25、26年(1950、51年)ころからようやく建設省(現国土交通省)による本格的な工事が開始されたという。
 各地区の復旧作業の様子について、地域の方々は次のように話してくれた。 

 (1) 徳丸地区の復旧作業

ア 土砂堆積場跡にできた徳丸天王団地

 「徳丸天王団地が造成されている場所は、耕地を復旧する際に除去した土砂を各地から集めた所です(図表2-3-3、写真2-3-12参照)。耕地に堆積していた大量の土砂の除去作業は地域に残る者全員総出で行いましたが、戦時中のことなので勤労奉仕という形でした。旧制松山中学校(現愛媛県立松山東高等学校)や旧制北予中学校、松山工業学校などの多くの生徒が作業を手伝いに来てくれて、スコップで土砂を除去したり、土砂をモッコで運んだりしてくれたことを私(仙波康宏さん)はよく憶えています。この作業は終戦後もしばらく続き、耕地から完全に土砂が除去され、田植えが再開されたのは昭和20年(1945年)のことです。僅か2年で作業を終えることができたのは、全員の協力があったからだと思います。徳丸天王団地が造成されるまで、この場所は高さ5m、幅100mくらいの砂利山の状態がかなり長い間続きました(徳丸天王団地の造成は昭和49年〔1974年〕以降のこと)。高度経済成長期に入り、建設業者が砂と砂利石に分けて少しずつ砂利山を削り取って運び出していましたが、数年前までこの山の一部がまだ残っていました。」

イ 争いが起こらなかった耕地復旧

 「濁流と土砂によって田と田の境目が分からなくなっていたにも関わらず、全ての人がかつての記憶を辿(たど)りながら協力して整地し直し、喧嘩(けんか)などの争い事は一つも起こりませんでした。洪水の被害を受けたのはかなりの広範囲なので、区長の指揮だけでは徹底できないし、今のように重機があるわけではないので、全て手作業で行わなければなりませんでした。やはり、『早く元に戻して農業を再開したい』という強い思いを全員が持っていたので、相談しながら復旧作業を進めることができていたのだと思いますし、誰一人として農地の範囲をごまかしてやろうという人はいませんでした。これはすばらしいことだと私(田中孝さん)は思います。」

 (2) 筒井・新立地区の復旧作業

ア 現警察学校西部に堆積した泥を除去

 「警察学校(当時はまだ現在地にはない)の西側に広がる農地は、濁流によって運ばれてきた大量の泥が堆積していた場所です。昭和18年(1943年)10月の秋祭りのころから地均(なら)しが行われ、農家の方がスコップを入れて泥を掘ってみると、7月の洪水で倒された稲が、緑色のままで出て来たことを私(仙波勲さん)はよく憶えています(図表2-3-5参照)。泥を別の場所へ移す作業は、松山工業学校(現愛媛県立松山工業高等学校)と旧制北予中学校の生徒が手伝いに来てくれました。戦時中ですから、ズボンにゲートル、戦闘帽という服装です。泥は、現在の義農公園の方へ運びました。水害の前は湿地帯を利用したレンコン畑(義農公園西側の内海付近)だったのですが、濁流のために土地がおげて(削れて)しまい、松前保育所辺りまで一帯が湖のようになってしまっていたので、埋め立てをする必要がありました。泥の運搬は、筒井の八幡(やわた)神社に来た大工さんがつくってくれたトロッコを6、7台使用していました。距離にして1kmくらいですが、泥が堆積していた所から現在の義農公園付近まで、筒井公民館前の道に幅60cmくらいのレールを敷き、役場の方や手伝いに来てくれた学生たちがトロッコを手で押しながらどんどん泥を運び、何度も往復していたことを憶えています。この作業は半年ほど続き、昭和23年(1948年)に県が浚渫工事を行ってきれいに整地をしてくれました。後日、県の失業対策事業として昭和27年(1952年)から建設が始まった、警察学校から宗意原(そういはら)交差点までのバイパス道路(現在の県道326号)は、東レの西側にあった砂州から砂を運び出し、それを均して造られました。その砂を運んだトロッコとレールは、昭和18年に泥を運んだ時に使用した時と同じ形のトロッコとレールが使用されていました。」

イ 土のう積み作業

 「夫婦橋付近は大量の水と土砂が一気に押し寄せたので被害が大きく、橋が決壊してしまってそこから北へ行くことができなかったので、私(満田泰三さん)たち新立地区でくらす者は第二大坪座(現松前町義農通りふれあい広場)に集合して、現在の義農通りに沿って土のうを積む作業を毎日行いました。潮が満ちて来て水田に海水が入り込んでしまうと農作業ができなくなるので、土のうを堤防のように積み上げる必要があったのです。昼食時には婦人会の人々が炊き出しを作ってくれたことをよく憶えています。また、郡中でくらしている学生で、伊予鉄道を利用していた人も、こちらの作業を手伝いに来てくれていました。また、農作業再開の支援のために北伊予村や岡田村へ配布する苗の搬出作業も手伝いました(松前町との合併は昭和30年〔1955年〕のこと)。当時は7月以降に田植えをする農家の方が多かったので、余った苗を配布しようということになったのだと思います。」
 苗の配布について、仙波勲さんは次のように話してくれた。
 「旧松前町が県を通じて連絡をしたのだと思いますが、兵庫県から苗を搬入したという話を私は母から聞きました。苗が4tトラックで運ばれて来ていたのを見たことを憶えています。苗は北黒田の方へは運ばれていなかったので、おそらく西高柳(にしたかやなぎ)や筒井、北川原など、洪水の被害が大きかった地域の農家の方々へ配布されたのだと思います。」

ウ 洪水の被害から得た知恵

 (ア) 稲の早期収穫

 「枕崎台風の前は、10月15日の秋祭りの後になって(収穫のために)鎌を研いでいた農家がほとんどでしたが、県の農業試験場からの指導もあり、台風よりも前にコメの収穫をしようとする農家が増えました。私(仙波勲さん)の家では『金南風(きんなんぷう)』という早稲(わせ)の品種を導入したことを憶えています。今は、お祭りの前にはどの農家も収穫を済ませるようになっています。」

 (イ) 土手の改修

 「私(満田泰三さん)が生まれた大正15年(1926年)以降、松前町では大きな自然災害が起きていなかったので、災害に備えようという意識を人々があまり持っていなかったように思います。例えば、塩屋の渡し付近の土手の高さは、水害前は今の3分の1ほどしかありませんでした。しかし、昭和18年(1943年)の水害以降は土手を堅固にしなければならないという意識が高まり、改修工事が行われて現在のような姿に変わりました。」 

 (3) 重信川改修に尽力した末松栄さん

 「私(仙波勲さん)が松前町役場に就職した昭和33年(1958年)、教育長を務めておられた八束英誉さん(昭和30年〔1955年〕松前町及び北伊予村と合併した時の岡田村村長)が、戦後の重信川改修に尽力した末松栄さんについて話してくれました。
 末松栄さんは八束さんの旧制松山中学時代の同級生で、東北大学卒業後、戦後には中国四国建設局長を務めていました。昭和22、23年(1947、48年)ころ、南海大地震後の復興対策を担当するために松山市に来て、八束さんの自宅に宿泊したそうです。その時、水害や地震等の被害を受けた重信川の状況を見て、『子どものころよく泳いでいたこの川の復興を何とかせんといかん。』と決意したことが、戦後の本格的な重信川改修の始まりでした。以後、下流から上流へ向けてどんどん土手が改修されていき、現在の姿になっていったのです。当時、出合橋を渡ってすぐの所に、50坪(約165㎡)ほどの小さな工事事務所があったことをよく憶えています。
 重信川の土手について、松前町の人々の中には、『昔、足立重信が加藤嘉明の命を受けて石手川と合流するように重信川の流路を変えたが、もしもの時に城のある松山側に水が流れ込まないように、伊予郡側(松前町側)の土手を弱くした。』と被害妄想めいた話をする方がいて、私も何度か同じ話を聞いたことがあります。しかし、戦後の土手の改修以後、松前町に大きな水害は一度も起こっていません。これは、末松栄さんを中心とする人々が尽力してくれたおかげだと思っています。」

 (4) 重信川の現状についての懸念

 平成29年(2017年)9月17日に県内に最接近した台風18号は、松前町の人々を驚かせた。同日夜、出合水位観測所で一時氾濫危険水位を超えて戦後最高水位の5.65mとなり、戦後初の避難勧告が町から発令されたからである。さらに9月26日には、降雨で河川水位が上がり、堤防内部に浸水し居住地側から湧き出る「漏水」が松前町と松山市の重信川の14か所で見つかったと国土交通省松山河川国道事務所が発表し、「新たな脅威」と受け止めている(写真2-3-13参照)。
 このような状況がなぜ起こってしまったのか。重信川の現状について、地域の方々は次のように話してくれた。

ア 下流域の川幅の狭さに対する不安

 「現在、重信川の下流域では土手の内側に建物を建てたり畑を作ったりして、上流と比較して下流の方の川幅がかなり狭くなっていることに、私(田辺由喜夫さん)は危機感を感じています。重信川の川幅はもともと広く、さまざまな河川と合流して大量の水が流れて行きますし、流路は短く急勾配で水の勢いも強いので、今のような狭い川幅では水量を支えきれないのは当たり前です。
 また、足立重信が重信川を改修して塩屋の方へ流れるように流路を変えましたが、本来は松前港の方へ向かって流れていました。自然の流路を人の力で無理やり変えているのですから、やはりどこかで無理が生じているでしょうし、人間の力は自然の力には叶(かな)わないと思うのです。昭和20年(1945年)9月に枕崎台風が来た時には、現在の中央高校(愛媛県立松山中央高等学校)側の堤防が決壊しましたが、これもその証明だと考えています。松前町内で泉がある所はかつての流路に沿った所だと聞いたことがあります。やはり、水は昔の流路を憶えているのでしょうし、地下水は昔の流路を今でも流れているのです。多くの人に同じ意識を持ってもらいたいと思います。」

イ 足立重信が定めた川幅の意味を共有すべき

 「先日NHKの番組を見て知りましたが、重信川は日本にある河川の中ではかなり勾配がきつい川で水の流れも早いため、しっかりとした堤防を造っておかないとすぐに決壊する危険があるそうです。足立重信が流路を改修した時、『この川はこれだけの川幅が必要である。』と言って今の川幅に決めたそうですが、本当にこの川のことをよく知っていたのだと私(田中孝さん)は感心しています。しかし、今は堤防の内側のいたる所に畑や建物がどんどん作られています。
 今、徳丸地区の土地の高さと重信川の河床の高さを比べると、圧倒的に重信川の河床の方が高くなってしまっています。先日の増水でさらに高くなってしまいました。早く川さらいをして河床の高さを低くすれば水の流れも良くなりますし、増水時の危険も少なくなるはずです。しかし現実は、暗渠(きょ)や橋が傷むという理由で行われていないそうです。
 重信川の川幅は、足立重信が『これだけの幅が必要だ。』ということで造られたはずですが、現代の人々がゴルフ場や畑などを開いて川幅を勝手に狭めています。それは結局水位の上昇につながるだけでなく、洪水の危険性をどんどん高めてしまっているのです。私たちはそのことに早く気づき、早急に対応しなければならないと強く思います。」

参考引用文献
① 松前町『松前町誌』1979
② 松前町 前掲書
③ 愛媛県『愛媛県史 社会経済6 社会』1987

その他の参考文献
・ 愛媛県『愛媛県史概説 下巻』1960
・ 高忍日賣神社慰霊之塔奉賛会『遺勲と追想』1983
・ 加藤敏之『ふるさと』1984
・ 伊予市『伊予市誌』1986
・ 重信町『重信町誌』1988


写真2-3-11 水害復興記念碑

写真2-3-11 水害復興記念碑

平成28年12月撮影

写真2-3-12 徳丸天王団地

写真2-3-12 徳丸天王団地

平成29年9月撮影

図表2-3-5 泥をトロッコで運んだ道

図表2-3-5 泥をトロッコで運んだ道

平成12年国土地理院発行の2万5千分の1地形図「郡中」による

写真2-3-13 出合水位観測所付近の現況

写真2-3-13 出合水位観測所付近の現況

平成29年11月撮影。台風18号による大雨の影響で、矢印付近まで河川水位が上昇した。