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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

2 旧岡田村・旧松前町の罹災状況

 省線(現JR)の線路下の土壌が流された後、濁流はあらゆるものを押し流しながら西方へ勢いよく流れ、広範囲に甚大な被害を与えた(図表2-3-4参照)。現松前町西部の罹災状況について、満田泰三さんと仙波勲さんは次のように話してくれた。

 (1) 濁流の中を歩いて帰る
 
ア 鉄橋を歩いて重信川を渡る

 「昭和18年(1943年)当時、私(満田泰三さん)は旧制北予中学校(現愛媛県立松山北高等学校)に通う生徒で、徳丸地区の堤防決壊の知らせを学校で聞きました。午前10時ころに学校が放課になったので、後輩数名とともに汽車(伊予鉄道が電化されたのは昭和25年〔1950年〕のことで、当時は蒸気機関車だった。)に乗って帰宅しようとしましたが、余戸(ようご)駅で汽車が止まってしまいました。とにかく歩いて帰ろうと思った時、誰かの『橋が流されてしまったぞ。』という声が聞こえたので、私たちは駅から伊予鉄の鉄橋まで行き、その上を歩いて重信川を渡りました。鉄橋を渡りきった所で目撃した岡田(おかだ)村の様子は今でも忘れられません。村のほとんどが流れる濁流で占められ、岡田駅は冠水していました。また、岡田駅から松前駅の間は線路下の土壌が完全に流されていて、レールが枕木ごと浮いた状態で、ゆらゆらと揺れていました。そんな光景を見たのはこの時だけです(写真2-3-7参照)。」

イ 危険な帰り道

 「玉生(たもう)八幡大神社辺りまで戻って来た時、私の後輩の一人が濁流に足を取られてしまいました。今にも流されようとした時、近くにあった柳の枝につかまって何とか耐えることができていたので、私は近くで饅頭(まんじゅう)店を営んでいた方の所へ行き、救助をお願いしました。すぐに駆けつけてくれましたが、あまりの水の多さに川と道の区別がつかなかったので、一度引き返してから綱を持って戻って来てくれ、ようやく彼は助け出されました。このことも、私にとって印象深い出来事です。
 それから善正寺の前を通って大洲(おおず)街道を南へ進みましたが、そのころには私の胸の辺りまで水位が上昇していたので、『これはいかん』と思ってかばんを頭の上に乗せ、そのままの状態で何とか自宅へたどり着きました。この時はまだ夫婦橋(めおとばし)が押し流されていなかったので、戻ることができたのです。私の家の前の道も完全に冠水してしまっていて、午後には櫓(ろ)を漕(こ)ぎながら船で避難している人々を見たことを憶えています(写真2-3-8参照)。」

 (2) 池のようになった筒井地区

ア 濁流が押し寄せた時

 「私(仙波勲さん)は昭和12年(1937年)生まれで、当時は5歳10か月です。筒井地区へ濁流が押し寄せてきたのは、午前9時30分から10時ころのことでした。当時、私の家の東方は全て水田で、田植えをしたばかりだったので、浮草が家の中へどんどん流れ込んで来ました。私はそれをほうきで家の外へ掃き出す作業を続けましたが、その間にも水位がどんどん上がっていった様子を今でもよく憶えています。
 午前10時から10時30分ころ、『ドーン、ドーン。』と危険を知らせる太鼓の音が遠くから聞こえてきました。後で分かりましたが、昌農内(しょうのうち)の方が叩(たた)かれたとのことでした。太鼓を叩いた場所については明確には分かりませんが、現在岡田中学校がある敷地の一角が岡田村役場だったので、おそらくそこで叩いていたのではないかと思います。そこから筒井地区までは2㎞くらい距離が離れていますが、当時は水田が広がっていて建物も多くなかったので、こちらの方にも聞こえてきたのです(図表2-3-4参照)。
 そのころには玄関口から家の中へ濁流が流れ込んで来るようになったので、祖母からバケツを受けて水を外へ出し続けましたが、みるみるうちに家の中の水位が上がっていきました。その作業を始めて30分くらい経(た)ったころ、小学校に登校していた2人の兄と姉1人が帰宅しました。」
 付記 浮草はウキクサ科の多年草である。水田や池沼(ちしょう)に浮遊し、茎は扁(へん)平な葉状で、長さ5、6mm。表面は緑色、裏面は紫色で、細い根を下に垂れる。3、4個集まって浮かび、葉の裏面に白い花をつけることがある。

イ 船で避難

 「午後12時から13時ころになると、壁に立て掛けていた畳の床下から4割分くらいの高さまで水位が上がって来ていましたし、筒井地区の道路は完全に冠水してしまっていました。避難しようと外を見た時、近所の土建業の方が櫓を漕ぎながら船で避難しているのが見えたので、お願いして一緒に船に乗せてもらいました。私が避難したのは、私の家から南へ少し進んだ所にあった2階建ての精米所です。2階の窓から外を見ると、周囲の状況がよく分かりました。冠水した道路には避難する人々を乗せた船が何艘も移動していましたし、金蓮寺の近くにも船が何艘か見えました。また、高床で冠水していなかった善正寺の本堂へ避難した人もいました。この床の高さは今も変わっていません(写真2-3-9参照)。」

ウ 堤防となった東レのコンクリート壁

 「濁流は私の自宅からさらに西へと流れて行きましたが、東レ自体がやや高地にあることと、コンクリート製の壁でせき止められ、やや土地が低くなっている東側に溜まってぐるぐると回り、広範囲が冠水してしまいました。押し寄せる濁流の勢いで水溜まりが現在の義農公園辺りにまで拡大し、午後2時ころにはとうとう夫婦橋を押し流してしまいました。それ以降は濁流が海へと流れて行ったので、それまで溜まっていた水が一気に引いて行ったのです。夫婦橋が決壊しなければ、私たちは命を失っていたかもしれません(写真2-3-10参照)。
 このころの夫婦橋は小さな『招き(樋門)』が新立側と本村(ほんむら)側にそれぞれ一つずつ付いているだけだったので、排出される水の量はわずかでした。当時は圃場(ほじょう)整備などがあまり行われておらず、雨が降っても半日くらい経たなければ夫婦橋の方へは流れて来なかったので、それで良かったのです。決壊後、しばらくの間は京都嵐山(あらしやま)の渡月橋のような木橋でしたが、昭和27年(1952年)に県が現在のコンクリート製の橋に造り変えました。夫婦橋が決壊した後、濁流によって運ばれた土砂と国近川が運んで来た土砂とが松前港に大量に堆積して港が埋まってしまったので、戦後しばらくまで県が頻繁に浚渫(しゅんせつ)(海底・河床などの土砂を、水深を深くするために掘削すること)をしに来ていました。また、水が引いた後、現在の義農神社付近は土地がおげて(削られて)しまってものすごい状態でしたが、義農作兵衛のお墓は流れずに残りました。お墓の側にある大きなマツの木が守ってくれたのだと思います。」

エ 流されてきたもの

 (ア) スイカ

 「当時、徳丸地区や中川原地区の農家の方々の多くがスイカを栽培していて、北伊予駅から鉄道で東京や大阪方面へ出荷していましたが、それらが濁流で流されて来ました。大量のスイカが、私の目の前をどんどん流れていった光景は、今でも忘れられません。私の兄が、家にあった2mほどの長さの籾掻(もみか)きを手に取って、スイカを確保しようと手繰り寄せた時、スイカの下に麦わらが付いていました。スイカを栽培するときに下に麦わらを敷きますが、水位が急に上がったためにわらが付いたままの状態で浮き上がり、流されて来たのです。
 また、もう一人の兄が泳いでスイカを取りに行って戻って来た時、『(家で植えていた)ナスビの枝が足に引っ掛かった。』と言っていたことを憶えています。私の推測ですが、その時の筒井地区の洪水の水位は1.5mから1.8mくらいはあったのではないかと思います。」

 (イ) ヘビ

 「これは徳丸地区や中川原地区の方から伺った話ですが、省線(現JR)の線路沿いに建てられている電信柱の電線に、濁流に流されて来たヘビが何匹も引っ掛かっていたそうです。私が近くの精米所に避難した時にもヘビが木を登ろうとしているのが見えましたし、その2階から庭に植えられていたダイダイの木を見ると、木の枝に20匹ほどのヘビがいました。」

 (ウ) わらぐろ

 「直径3mくらいある大きなわらぐろが流れて来て、私が避難した精米所の建物の壁の所でぴたっと止まったことをよく憶えています。その後、それがどのようになったのかは分かりません。水害の後、各家庭で新しい畳に替える必要がありましたから、畳の材料として使われたのではないかと思います。」

 (3) 水位が下がって

ア 赤痢の流行

 「水が引いた後は町が泥だらけになってしまっただけでなく、濁流によって井戸水にいろいろなものが混ざってしまったので、赤痢が流行して大変な状況になったことを私(仙波勲さん)は憶えています。特に筒井地区の北側でその症状になる方が多く、南側にはいませんでした。南側では、『なま物を食べるから(赤痢に)なるのだ。』とある老人が指導して夏場でも生水を飲ませず、食べ物でもおじやを作るなど、必ず加熱してから食べることを徹底していたからだと思います。赤痢になった方々は、昔郡中(ぐんちゅう)町(現伊予〔いよ〕市)新川(しんかわ)の海岸縁(大谷川の南側)にあった避病舎(ひびょうしゃ)(隔離病棟のこと)に収容されていました。これは郡中町と旧松前町が共同で使用していたもので、掘っ建て小屋のような小さな建物が12軒ほど建てられていたと思います。当時は特効薬がなかったので収容されても帰って来なかった方が多く、昭和18年(1943年)の水害のときにはそのような方が筒井地区だけで10人ほどいたことを私は憶えています。何日か経って旧松前町役場の方が井戸の消毒をしに来ましたが、石灰水を2升(約3.6ℓ)ほど作って井戸の中に入れただけで終わりました。その後、近所の家の井戸の中を覗(のぞ)いてみると、カワエビやフナが水面でゆらゆらと揺れていました。濁流で流されて来て井戸の中に入り込み、そこから上がれなくなってしまったのだと思います。
 また、床下には泥が5cmから10cmほど溜まり、乾かしてから外へ出すのに両親が大変苦労していましたし、畳を敷くことができず、その年の夏は筵(むしろ)を敷いて寝ました。さらに水に浸(つ)かってパンパンに張り出した米俵を天日に干して乾かしてから中の米を食べましたが、非常に臭(くさ)く、変な味がしたこともよく憶えています。」
 満田泰三さんは、避病舎について次のように話してくれた。
 「戦前は今よりも病院の数が少なく、松前には個人経営の病院が3軒しかありませんでした。総合病院である松前病院が設立されたのは、戦後になってからです。このため、伝染病の拡大を防ぐためには隔離病棟をつくる必要があり、各地に建設されていました。岡田村(現松前町)の場合は現在の岡田中学校の東側に建てられていたことを憶えています。」

イ 当時の衛生環境

 「松前町は地下水が豊富ですが、昔はチフスにかかる人が多かったことを私(満田泰三さん)は憶えています。トイレには便器がなく、ただ掘っただけの所に用を足していたので、糞尿(ふんにょう)の成分が浸透して地下水に混じってしまっていたのです。また、自分の畑にまく下肥(糞尿)を入れるための壺(つぼ)は、農家の方々が自分で作って使用していました。
 北黒田の畑作地帯には、農家の方たちが地域の人々から集めた下肥を溜めておく『のつぼ』がたくさんありました。『その中で半年くらいそのままにして腐らせると回虫が死ぬ』という説があり、私はそれを信じて3か月ほど腐らせた下肥を自分の畑にまいて作物を育ててみましたが、その畑から収穫したダイコンやニンジンを食べた時に回虫が湧いてしまいました。当時はこのような衛生環境だったので、年に1回は学校から『コップを持って来なさい。』との指示がありました。虫下しとして利用されていた海人草(かいじんそう)を大きな鍋で煮たものをよく飲まされましたが、すぐに回虫を体外へ出すことができました。その海人草は、とても臭かったことをよく憶えています。昔は、肥料といえば満州(まんしゅう)(現中国東北部)から送られてきた大豆粕(かす)を砕いてまくか、人糞をまくかしかありませんでした。結局、(回虫の)卵が死なずに生き残り、体の中で育ってしまっていたのです。戦後、マッカーサーが日本に来た時に、一番嫌ったのがこのような衛生状態だったという話を聞いたことがあります。また、リヤカーに桶(おけ)(タゴ)をたくさん載せて漁業者の家まで頻繁に糞尿をもらいに来ていた農家の方がいました。漁業者の人々は漁業中心の生活で農業を営む人がおらず、糞尿の始末に困っていたので、自宅の糞尿を提供し、農作物と交換していました。当時、『魚を食べているから肥料にちょうど良い。』という評判が立ったことをよく憶えています。」


図表2-3-4 松前町西部の被害状況

図表2-3-4 松前町西部の被害状況

昭和28年地理調査所発行の5万分の1地形図「松山南部」「郡中」による。昭和18年当時、鎌田駅と古泉駅はまだなかった。

写真2-3-8 現在の夫婦橋

写真2-3-8 現在の夫婦橋

平成28年12月撮影

写真2-3-9 善正寺本堂

写真2-3-9 善正寺本堂

平成29年11月撮影