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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業12-松前町ー(平成29年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

第3節 重信川水害の記憶

 重信(しげのぶ)川は、愛媛県中央部に位置する幹線流路延長36㎞、流域面積445km²の一級河川で、流域でくらす人々に農業用水や工業用水、生活用水などの豊富な水資源を供給してきた。その流路は、東温(とうおん)市、西条(さいじょう)市、今治(いまばり)市の市境である東三方ヶ森(ひがしさんぽうがもり)(標高1,233m)を水源とし、東温市内を南西に流れ、山之内(やまのうち)で道後平野に出る。その後、東温市吉久(よしひさ)で表川を合流後、向きを西に変え、拝志川、砥部川、内川及び石手川等を合わせつつ流れ、松前(まさき)町塩屋(しおや)で伊予灘に注いでいる。
 慶長年間、加藤嘉明の命を受けた足立重信が河道改修を行い、ほぼ現在に近い形に整備されたことがよく知られているが、古くは伊予川と呼ばれた暴れ川で流路が一定せず、豪雨の度に氾濫を繰り返していた。足立重信による河道改修以前の流路については、西園寺源透が大正9年(1920年)の『伊予史談(第五巻第四号)』に、「伊予川はもと上流高井(たかい)の里の南方(みなみがた)河原部落より麻生(あそう)・八倉(やくら)の山根に沿うて流れ、出作(しゅっさく)・大溝(おおみぞ)等を経て松前の南方に至って海に注いだものである。しかし、沿岸の村落及び松前は年々水害をこうむるため現在の流路に付け替えられたものである(①)。」と述べ、また、村上節太郎が昭和14年(1939年)の『伊予史談⑷』に、「伊予川は河床が高い天井川であって、現在の八倉・出作・神崎(かんざき)・鶴吉(つるよし)・大溝・東古泉(ひがしこいずみ)・松前に至る道路(県道八倉松前線)がその河床かまたは堤防であったと思う。川の下流は分流して、神崎あたりから安井(やすい)・北黒田(きたくろだ)・南黒田の方へ流れたものとも考えられる(②)。」と述べていることから、現流路よりも南側を流れていたことが分かる。
 足立重信による河道改修により重信川の河身が固定化され、その乱流と氾濫が著しく制圧されたことは道後平野発展の基礎となったが、それ以降も洪水被害がなくなることはなかった。それは、重信川が典型的な荒廃型河川であり、水源地帯の山地が崩壊性の地質からなり、流路延長が短く河床勾配が急であるため、急流によって重信川本川と支川から大量の土砂が押し寄せ堆積するからである。このため、河幅は各所で急変して中州が形成されるとともに、下流平野部の地盤の高さが重信川の計画高水位(堤防などを作る際に洪水に耐えられる水位として指定する最高の水位)よりも低い天井川となり、洪水のたびに堤防内の土砂が多くなっていった。こうした状態を改善すべく何度も堤防等の維持改良が加えられてきたが安全性は低く、度重なる水害は住民を悩ませ続けた。
 特に、昭和18年(1943年)7月の台風に伴う大水害は観測史上最大の被害をもたらした。土佐沖より北上した台風の進行速度は極めて遅く、停滞したため、21日から24日に至る4日間豪雨が続き、松山(まつやま)地方の年平均雨量の5か月分に相当する540mmの雨量となった。さらに23日朝には重信川出合水位観測所で水位6.20mを示し、午前9時には北伊予(きたいよ)村(現松前町)徳丸(とくまる)地先の左岸堤防が決壊、続いて7か所の堤防が決壊し、耕地の流失、埋没約1,730ha、浸水家屋約12,500戸の大被害となった。その他、道路、鉄道等に及ぼした被害も莫大なものであった。
 本節では、被害を最初に受けた徳丸地区の罹(り)災状況と復興への取組について、Aさん(昭和5年生まれ)、Bさん(昭和8年生まれ)、Cさん(昭和10年生まれ)、Dさん(昭和12年生まれ)、Eさん(昭和22年生まれ)から、筒井(つつい)・新立(しんだて)地区の罹災状況と復興への取組について、Fさん(大正15年生まれ)、Gさん(昭和12年生まれ)からそれぞれ話を聞いた。