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えひめ、昭和の記憶 ふるさとのくらしと産業10-西条市-(平成28年度「ふるさと愛媛学」普及推進事業)

3 戦争の記憶

 (1) 少年電信兵

 「私(永島義勝さん)は昭和18年(1943年)に国民学校高等科を卒業して、その年の4月から7月まで、倉敷絹織で紡糸の訓練生として仕事をしていました。7月に会社を辞め、8月10日に海軍防府通信学校へ入校し、その後、少年電信兵として大陸での部隊勤務に従事し、終戦後の昭和21年(1946年)4月に派遣先の上海(シャンハイ)から復員してきました。戦時中、私は船が攻撃を受けて沈没していく様子を何度か見ました。鹿児島県の開聞岳(かいもんだけ)付近では海防艦が攻撃を受け、爆発による水柱が絵に描かれているように上がっていた様子は今でもはっきりと憶えています。このとき、私たちの部隊は海に投げ出された人を救助しましたが、上甲板にいた人だけが助かったようでした。また、どのような船だったかは記憶が定かではありませんが、船が沈められ、海を漂っていた乗組員を救助したり、九州の沖で魚雷攻撃を受けて帰港してくる航空母艦に出会ったりしました。私が軍隊で海の仕事に従事する中で、人命を2回も救助できたことは印象深く心に刻まれています。昭和20年(1945年)4月には、海軍陸戦隊として佐世保(させぼ)(長崎県)から上海へ向かいましたが、その途上、済州(チェジュ)島の沖で私たちを乗せた船団がアメリカの潜水艦から魚雷攻撃を受け、乗っていた船が沈没したため、私は海を泳いで救助を待ちました。忘れもしない、4月14日の早朝4時ころの出来事でした。そのときは運よく救助されました。攻撃を受けたときには、上官から、『船が沈むぞ。爆雷が誘爆したらいかん、早く船を離れろ。』と指示が出されました。海に飛び込んで泳ごうとしましたが、服を着たままの状態で体が思うように動かないので、ただ、海を漂うだけだったように思います。ちょうど漂っていたところに流木があったので、それにしがみついて救助を待ち、助かったのです。その日のうちに佐世保の海兵団へ戻ってくると、この一週間前に沈没した戦艦大和の乗組員がいました。その人たちがその後、どこに配属になったかは分かりませんでした。私たちにはもう一度上海へ向かうよう命令が出て、再び移動していると、今度は乗船していた船が門司(もじ)(福岡県)の沖でアメリカ軍の敷設した磁気機雷にかかってしまい、『ドカーン。』という大きな音を立てて爆発し、航行不能となってしまいました。私たちは再び佐世保へと戻りましたが、度重なる爆発と海での漂流で、そのときには本当に海を見るのが怖くなっていました。その後、再び移動の命令が出ましたが、今度は陸路で佐世保から唐津(からつ)(佐賀県)へ行き、唐津から釜山(プサン)へ船で渡り、釜山から奉天(ほうてん)まで再び陸路で移動して、そこから南京(ナンキン)へ向かいました。揚子江(ようすこう)の手前ではアメリカ軍のP51が空襲をしているという知らせを受け、乗車していた汽車が空襲を避けるために停まってしまい、汽車の中で寝泊りをしていました。その後、南京から揚子江を下って上海(シャンハイ)へと入りました(図表3-1-3参照)。私は陸戦隊の通信部隊に所属していたので、送信所で勤務をしていました。上海で無事に終戦を迎えますが、8月か9月に、浦東(プ―トン)の捕虜収容所への移動を命じられ、収容所へ入りました。そこには大勢の日本の兵隊さんが収容されていましたが、大陸の奥地から帰還して、歩いて収容所へと入ってくる陸軍兵を見ると、戦闘服はボロボロになり痩せてしまっていて、気の毒で見ていられない気持ちになりました。私は海軍で上海にいたので、そのようなことにはなりませんでしたが、奥地で苦労した陸軍兵のそのような姿は今でも忘れることができません。戦争で苦労した人は相当いるのだと実感した瞬間でもありました。浦東の収容所の目の前にはアメリカの軍艦が停泊していました。天気の良い日にはアメリカ兵が軍艦の砲塔に跨(またが)って談笑したり、洗濯物を干したりして優雅に時間を過ごしている様子を見て、戦争の勝敗を実感しました。
 今年(平成28年)も8月15日には慰霊祭がありました。禎瑞出身の同年兵で、私と一緒に防府の通信学校を卒業した方がいました。卒業後、私は佐世保へ配属となり、彼は南方へ配属となりました。配属して一月か二月経ったころ、偶然佐世保で彼と出会いました。『ここで何しよんぞ。』と聞くと、『南方へ行く船便を待っている。向こうへ行く船がないんじゃ。』と返事が返ってきました。彼とはそこで別れたきりになり、私が戦後復員して彼の消息を尋ねると、ようやく確保された南方行きの船に乗船して戦地へ向かう途中、その船が攻撃を受けて沈められ、戦死されたとのことでした。彼は国民学校高等科を卒業して海軍の通信学校へ入り、佐世保で二月ほど船便を待ち、やっとの思いで船に乗り込み、その船が沈められてしまい戦死されたのです。16歳の若さでした。その事実を知った家族の方、特にお母さんは本当に辛い思いをされたと思います。戦争ではこのような悲劇に遭遇した方や家族がいるということも忘れてはならないと常に感じています。私は現在88歳です。戦争で命を落とすことなく長い人生を送ることができている喜びを感じるとともに、16歳で亡くなってしまった同級生を思う気持ちを持ち続けることが大切であると思っています。」

 (2) 子どもが見た戦争

 「私(北寛一さん)の父親は海軍の軍人だったので、仕事の都合で呉など軍の施設がある都市で生活をすることが多くありました。私が8歳の時に太平洋戦争が始まりましたが、当時のことはおぼろげながら憶えています。
 昭和20年(1945年)には氷見で生活をしていましたが、今治空襲の様子は氷見からも見ることができました。家の外に出て見ると、バラバラ、バラバラと焼夷弾が落とされているのがよく見えたことを今でも憶えています。焼夷弾が落とされる様子とともに、時々、炸(さく)裂したような赤い光が上がっているのが見えました。また、そのころにはアメリカ軍のグラマン戦闘機が南側の石鎚山方面から突然現れて、小松にあった飛行場を機銃でバリバリ、バリバリと攻撃していたことを憶えています。当時は石鎚山の方から突然、湧いてくるようにアメリカ軍の戦闘機が現れていました。胴体が二つに分かれている、アメリカ軍のP38が私の頭上を低空で飛んでいったこともありました。
 疎開により一時的に和歌山(わかやま)でくらしていたときには、海岸には多くの機雷が敷設されていたことを憶えています。沖合に敷設された機雷が波に運ばれて岸に近づいてくると、軍人さんが小銃で撃って爆発させようとするのですが、なかなか命中しませんでした。何発か発砲して命中したときには、機雷が爆発音とともに大きな水しぶきを上げて爆発する様子を目撃しました。また、磯へ釣りに行くと、和歌山沖を航行している輸送船がアメリカ軍の潜水艦から魚雷で攻撃をされているところを目撃することがありました。輸送船が魚雷をうまくかわすと、それが海岸付近まで来て、小島に当たって爆発するのです。学校で授業を受けているときにも、海岸で『ドーン。』という大きな爆発音がすると、授業そっちのけで海岸へ様子を見に行っていました。岩に魚雷が当たって爆発した後には、地元の漁師たちが海に駆けつけ、爆発によって浮き上がった魚を獲っていました。私たち子どももその魚をいただいていました。終戦後、魚雷が当たった岩場付近へ行くと、海中に太陽光を反射してキラキラと光るものがありました。海に潜ってそれを取りに行くと、鉛だったので、私たち子どもは、それを溶かして釣りに使う錘(おもり)に加工して使っていました。ただ、海中から取って来たときに、地元の駐在さんに見つかったら、魚雷の材料であっただけに、『爆発物が残っていたらいかん。危ない。』と言われてほとんどを没収されていました。
 戦後、父がよく話していましたが、攻撃を受け、船が沈みかけたときには、泳ぎが上手でない人は船に積み込まれている酒樽(さかだる)のようなものを確保して、海に投げ出されたときにはそれにしがみついて漂流していたそうです。自分の命を守るために懸命に行動をしていたということなのでしょう。」
 「私(安藤雅康さん)の父親は衛生兵だったらしく、戦後も戦地で使っていた医療器具が家に残っていました。戦時中の様子を子どもの私によく話してくれていましたが、当時の私はあまり戦争の話を聞きたくありませんでした。今になって、父親が話す戦争の経験をじっくり聞いておけば良かったのではないか、と思うようになっています。」
 「私(安藤良文さん)は善通寺(ぜんつうじ)(香川県)の陸軍第11師団の近くで生活をしていました。戦時中には多くの捕虜が連れて来られ、飛行場の整備作業などに従事させられていたようです。作業場までは捕虜同士が鎖で繋(つな)がれていたことを憶えています。終戦間近になると、日に日に空襲が激しさを増していき、陸上の高射砲が届かない高さの上空をB29などの爆撃機が大編隊で飛行していました。しかし、善通寺の師団には爆弾が落とされることがありませんでした。おそらくアメリカ兵の捕虜がたくさんいることをアメリカ側が情報として持っていたのでしょう。戦争が終わると、善通寺に飛んで来たアメリカの飛行機が大きな箱をどんどん落としていました。箱の中には善通寺にいる解放されたアメリカ兵が生活をするための物資が入っていたようです。日本国内だけでは生活物資が不足していたため、頻繁に飛行機が飛来して、物資を届けていたことをよく憶えています。物資を受け取ったアメリカ兵がチョコレートなどのお菓子を地元の子どもに与えていたことが強く印象に残っています。」

 (3) 戦争と西条工場
 
「私(安藤雅康さん)は、戦争中でも西条工場は学徒動員による労働力の供給を受けて、休むことなく操業をしていたと聞いています。」
 「戦時中、中学校(西条中学校、現愛媛県立西条高等学校)に在籍していた私(北寛一さん)の従兄弟は、『勤労動員で西条工場へ行っていたとき、グラウンドに爆弾が3発落とされた。』と話をしていたことを憶えています。
また、戦後、西条工場の鉄工作には戦時中に工廠で仕事をしていた人が配属されて仕事をしていました。当時はベルト掛けの旋盤を使っていたので、機械を扱う技術をもった人が必要とされていたのでしょう。時代が進み、機械が進歩して新しい設備が導入されると、ベルト掛けの旋盤はなくなり、そのような技術も必要となくなりましたが、当時は貴重な人材だったと思います。」



参考文献
・ 西條市『西條市誌』1966
・ 西条工場五十年の回顧編纂委員会『西条工場五十年の回顧』1987
・ 愛媛県『愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)』1988
・ 愛媛県高等学校教育研究会社会部会地理部門『西条市の地理』1993
・ 愛媛県高等学校教育研究会地理歴史・公民部会地理部門
         『地形図でめぐる えひめ・ふるさとウォッチング』1994
・ 愛媛県市町振興協会『愛媛県市町要覧』2014



図表3-1-3 上海への行程

図表3-1-3 上海への行程